時期だな、と思った。恐らく俺と同じような年の誰しもがそう思うだろう。
 そう、俺でなくとも。俺と同じような状況に置かれていれば誰もが、だ。

 棺桶に片足を突っ込んだような老婆の講義にはうんざりしていた。
 お気に入りの短編集ももう300回読了した。
 ついでに言うなら俺はもうじきに18歳になる。そう、18歳に。
 ああ、実に”きり”がいいじゃあないか。

 とはいえ、時期だと悟ったその本当の理由は他にある。
 それを話すには、時間を昼過ぎにまで遡る必要があるだろう。

 自分は聖書売りだ、などとふざけた事を抜かす奴に、勝手気侭な散歩の足を遮られたのが事の始まりである。
 黒い襤褸の外套をすっぽりと被ってしまって男か女かも分からないそいつに突然聖書を突きつけられ「神を信じますか」といかにもと言った風に問われた。
 顎を上げて追いかけていた、上空を飛ぶ大好きな鳥をそいつのせいで見失った俺は、苛々しながらこう言ったんだ。

「悪いが俺はこの世に神や悪魔が存在するとは思っていない。
天国も地獄もある訳が無いし、この世にあるのは精々富裕者と貧乏人とその中間、そんなもんだ」

 最後の部分は意図せずいかにも商家の息子らしい台詞となってしまい、自分で言っておきながら何とも嫌な気分になる。
 俺は自分の家や身分が余り好きではなかった。嫌悪していたと言っても過言じゃない。
 良い家、良い食事、良い暮らし、そいつは認めるが、裸足で外を走り回る自由は与えられていない。
 与えられてないからと言って大人しくそれを守っているかと言うと、また別の話になるのだが。
 外套のやつは俺のさして面白味も無い返答にただにやりと笑った。
 顔の上半分は襤褸布のフードで覆われて深く影が落ちているため、その屍蝋の口元以外では表情を判断することが出来ない。
 おいお前何がおかしいんだ。そう言おうとしたが、口を開いたのは外套野郎の方が先で、俺は仕方なく口を閉じ言葉は喉の奥に沈んで行った。
 噤んだ口の代わりに鼻から吸った息が裏路地らしく埃っぽかったのは記憶に残っている。
 そういえばそれまでは意図的に口で息をしていたのかもしれない。
 外套野郎は唇の端に笑みをひっかけて、俺の肩に手を置いた。暗い裏路地でもよく見える、青白い小さな手。
 外套の所為で一回り程体格が大きく見えているのだろう、華奢な指と小さな手が意外で少しだけ驚いた。
 指先に具わった爪は黒く塗り込められ、何処か異国の呪いでこういうものがあったなあ、と何となく思い出す。
 そいつが放つ独特の空気が伝わって来たのか、無性に背筋が冷たく粟立った。
 ひやりとしたそれは冬の朝や夜の帳が降りた森よりも冷えていた。腹の奥底が何とも言えず緊張しているような。
 目の前に立っているのは本当に人間だろうか。
 こいつ聖書売りなんかじゃあないだろうという疑念が核心に変わるのに然程時間はかからなかったが、ここでとどめがきた。

「うちの船長をやってみないか?」

 船長。とな。
 まず最初に目の前の奴を、次いで己の耳を疑った。
 だってそうだろう。そんな誰が見ても大事な役目をまるで、そうまるで子供のお使いのように、悪い友人たちが俺を居酒屋に誘うのと同じように軽い口ぶりで頼むなんて。
 やってみないか、その軽快な響きと、「船長」と言うやけに重量感のある言葉が釣り合わない。少なくとも俺の中では釣り合うことが無い。
 どうやったって傾く方向は決まっていて、多分俺以外の一般的感覚の持ち主は皆同じではないかと思う。
 もしかして、俺の家のことを知っている奴なのだろうか。ふとそんな考えが閃く。
 俺が大商家ハワード家の跡継ぎ(限りなく予定だし俺は嫌だ)だと知っててこんなことを言うのだろうか。
 だとしたら。
 さっきと同じ言い出しで俺は答えてやった。

「”悪いが”商才がないんでね、俺は。
 あんたは俺がハワード家の息子と知って声をかけたんだろう?そいつは見当外れじゃないが、相手が悪かったな。
 俺は家を継ぐ気がないんだ、そういうことならば是非とも他を当たって、出来たらもう俺の前には現れないでくれ」
 
 肩をすくめて笑ってみせる。そうだ、俺は跡を継ぐつもりは微塵も無い。商家の当主になる気などさらさら無い。
 商船の船長になってハワード家の手が届く範囲を広げるなど死んでもゴメンだ。
 こんな得体の知れないやつを家の傘下に入れるのもな。
 外套は黙ったままだ。俺の華麗な反論であり正論にぐうの音も出ないでいるのか。何となく気分がいい。
 勝ったな、それを確信してこの場を去ろうとしたその時。外套の下からははは、と笑いが漏れた。
 軋む様な笑い声に踏み出しかけた足が止まる。じゃり、と踵に踏みにじられた砂が悲鳴を上げた。

「面白い推測だな。当たっていたらもっと面白かった訳だが、残念な事に見当違いはお前の方だ。
 誰が商船の船長なんか頼んだ?ん?僕は”海賊船”の船長になって欲しいと頼んだつもりだったんだけどね、ハワードくん」
 
 外套のそいつは、そう言って被っていたフードをばさりと脱ぐ。
 それは一瞬の出来事だったと言うのに、いやにゆっくりと感じられる。
 現れた姿に目を、瞠った。
 月光のような白銀の髪は頭頂から柔らかく流れて肩の辺りで無造作に切られ、同じ程に長い前髪の隙間から覗く鋭い双眸はまばゆい程鮮烈な孔雀色。
 髪と同じ色の長い睫毛に縁取られた切れ長のそれは、真っ直ぐに俺を見つめていた。
 宝石と見紛うほどに美しいが人間とはかけ離れたそれは、周りを漂う冷たさを更に増長させたように思える。
 髪も、目も。その辺にいるごく普通の人達と同じとは思えない色を放つそいつに、神とか悪魔というのは寧ろこいつなのかもしれないと感じた。
 男か女か分からないと言ったが、それ以前に人間かどうかを問いたい。
 フードを脱いだそいつは俺の心を察したのか否か色素の薄い唇を歪め、切れ長の目をきゅっと細めて、嗤った。
 人間というのはこんなに極悪な顔が出来るのかと素直に感心してしまう、凶悪で目眩のするようなスマイルだ。

「自分でも、この見た目がいかに異端なのかは理解しているつもりで居たけど、他人からこうも明白なリアクションをされるのはいささか腹が立つね」

 言い終えるが早いか、そいつの小さな拳が俺の鳩尾に頭から突っ込んで来た。
 突然のことで受け身もろくに取れなかった俺はそれに息を詰まらせ、咽せる。
 柔らかい厚手の服を介しても、それはいやに強烈に俺の腹部を抉って来た。
 目の奥をスピードスターが乱舞する中目の前の奴の理不尽さについて考えていると、奴は今流行のジョークでも聞いたように肩を震わせ終いには腹を抱えて笑い出したものだから、流石にそこはかとない殺意みたいなものが芽生える。ぶん殴ってやろうかこいつ。

「受け身も取れないのか、期待はずれだったかな?」
「ふざ、けんなげほっ、何の前触れも無しにとれるかそんなもん」

 ふざけんな、とまた口から悪態を吐く。散々だ、こんなつまらない事はいい加減にして欲しい。
 そう考えながら睨みつければ、孔雀色の瞳がすっ、と俺を見据えた。何とも言えない色を含んだそれに、不安が込み上げて来る。
 たっぷり見つめ合ってしまって、思わず目を逸らした。深刻にこちらを見据えるあの孔雀色は、何だか苦手だ。危険に、思う。
 かと思えばそいつは一笑して肩をすくめ、さっきまでの食えない、挑発的な笑みで俺を見下した。

「海賊同士の戦いに、前触れがあると思うか?せーの、なんて言ってみろ、「せ」を言う辺りで脳天鉛玉でぶち抜かれてお前の人生終了のお知らせだ」

 一理ある、だが解せない。
 何でそんなに偉そうに言われなければならないんだ、頼んで来たのは向こうの方だと言うのに。頭を下げるのはお前の方だろ。
 歯噛み、奥の方が軋むが気には留めない。このクソガキ、という怒りを不本意ながらも思う存分に噛み砕いた。
 外套野郎は実にペテンな笑顔を振りまきながら、ぺらぺらと面白くもない講釈を並べ立てやがってる。
 随分とお喋りが好きなようだ、俺のことなんざ最早大して見ちゃいないだろう。
 なので俺も、我ながら改心の出来だと思われる胡散臭い、営業用とでも言うような笑顔を顔面にべったりと貼付けて、お返しの一撃を無防備になっている腹にお見舞いしてやった。
 脚で。
 見事にお返しの標的となってしまった黒い襤褸を纏うそいつは、もろに入った俺の爪先に人とは思えない、獣のような声で低く呻き、それから漆喰の冷たい壁に顔立ちや手に相応な華奢であろう左肩をついた。
 ともすれば胃液的なブツすら吐き出さんとする勢いで酷く咽込むもんだから少しだけ心配したが、どうやら胃液は然るべき場所で留まってくれたらしい。
 涙目でもまだ笑うそいつは正直マゾかと思ってちょっと引いた。

「やるじゃ、ねーの…お前で決まりだ、うちの船長」
「まだやるとは言ってない」
「あぁん?何だよノリノリで僕を蹴っておいてそういうこと言うのか」
「先にやったのはそっちだろ」
「そういう気性が海賊に向いてるって言ってんだ…名は、」

 口ごもる。教えてしまえばそれは誘いに対する肯定となってしまうだろう。
 こんな得体の知れない奴について行って本当に良いのか。知り合って数分の相手に殴りかかるような奴だぞ。信用出来ないにもほどがあるだろう。
 自分にそう云い聞かせる。
 しかしそれ以上に、変化を望んでいた。
 飽きるほど繰り返した日常を、決まりきった行き先を、打破してみたかった。
 得体が知れなかろうとなんだろうと、こいつについて行くことがここから抜け出す糸口になると言うのなら、それも。

「…ロベルト・クリストファー・ハワード」
「へぇ、ロベルト”坊ちゃん”って訳か」
「うるせえな、もう坊ちゃんじゃなくなる。誰かさんのお蔭でな」
「そいつぁ良かった。僕はヴァルツァ、ヴァルツァ・ツァルクタイヴ。宜しくな、ロベルト」

 さっき以上にペテンなスマイルを向けて来るそいつ、ヴァルツァの言葉に頷き握手を交わした。
 見た目通りの冷たい手は乾いていて、小さな手は軽く俺の掌を握るようにしただけだった。
 あまりにもあっけない、あっさりとした契約。
 名乗った時点で既に俺は、そいつの持つ空気に頭がふれていたのかもしれなかったが、今となっては確かめようもない。

 そんな感じに勢い任せな口約束だけの誓いを交わし、今俺は帰路を辿って家へと足を踏み入れた。
 無意味なほど長い路を作って腰から折れるように礼をする下女連中の前を足早に通り自室へと戻る。
 毛足の長い絨毯がヒールを絡め靴音を吸うせいで酷く静かな部屋、日はまだあるのに気味が悪いと感じる癖は抜けないらしい。
 貧乏根性かよ畜生が、と思ったが不衛生で物も無いこれからを考えればこの性はいささか有利に運ぶ気がした。
 長旅用にと誂えたトランクを棚の中から引き摺り出して寝床に放るとボフ、と何とも気の抜けた音を立てる。
 クローゼットから持っている服を全て出すとまた何というか商家的、というか貴族的な服が並んだ。
 取り敢えず機動性重視、鬱陶しいひらひらを掴んでは毟り取りながら服をトランクに突っ込んでいく。
 見ているだけで胃がムカムカして来るような服は気が遠くなりそうな程あって(いつの間にこんなに増えたんだ)、気分の悪さを増長させる以外の役割を果たしてくれそうにはなかったので6着ほど詰めたところで残りは丸めてクローゼットに押し込んだ。
 雑に仕舞うと皺がつくだろうが、もう着る奴はこの家から居なくなる訳だから特に構いやしないだろう。
 
 そんなものより、俺にはもっと重要な調べものがあった。
 
 音を立てないようドアに気をつけながら自室を出て、父の部屋へと爪先を向ける。
 運のいいことに部屋の主は商談で相手の家に出向いているから暫くは帰らない。
 樫の扉は快く俺を通し、俺もまた当然のようにするりとその中へ入り込んだ。
 邪魔されるのを防ぐ為に鍵をかけようか迷ったが、主が不在の部屋に鍵がかかっているのもおかしな話だ。
 それに自分がやましいことをしているのではないかという気持ちになるのも嫌なので開けっ放しにしておいた。
 俺の調べたいことがどういうものに記されているのかはよく分からないので、とりあえず適当に骨のある読み物が綺麗に並んだ本棚を漁る。
 もし下女にでも見つかったら、読みたい本が在るとでも言っておこう。
「坊ちゃん、ようやくハワード家のお仕事に興味が!?」とか、ぬか喜びを与えかねないが、そんなの向こうが勝手に勘違いしてくれることなのだから決して俺の預かり知る所ではない。

「お、これかな」

 探し始めて随分経ってから見つけた、骨のある読み物と同等の厚さを持つそれは一番上の段にひっそりと息を潜めていた。
 少し背伸びすれば届く位置だ。引っ張り出してまじまじとその外側を見た。
 背表紙が割れ、出し入れを繰り返した角は丸く擦り切れた、古い日記。最近は使っていないのか、少し埃を被っている。
 几帳面で存外肝の小さい親父だ、何処かに必ず形を残してある筈。ここ数年、ずっとそう思ってた。
 表紙を開き、ページを捲る。ただの日記だ、日常を記しただけの。
 だけど俺はその日常に用がある。親父の、俺の過去に。
 母と結婚してからの事が暫く綴られたその後に、俺の探し物はあった。
 割と能天気、良くいえばおおらかなハワード家の家人から従者一同まで誰もが「気付いてないだろう」と思っているらしいが、生憎俺は馬鹿じゃあない。
 悪い友達とつるんで、要る事要らん事吹き込まれて、悪知恵も恐らくついてる。
 書いてある一言一句、忘れないように頭に叩き込んだ。それから日記を元の場所に戻す。
 ハワード家は揃いも揃って、秘密を隠すのも暴くのも、嘘をつくのも見破るのも下手な人間ばかりだ。

「サクライ…ハルト…」

 異国の言葉。俺が今まで知り得なかった、本当の名前。
 懸命な読者諸君は既にお気付きだろう。俺はこの大商家ハワード家の実子ではない。
 極東の小国からはるばる此処ユーグランドまで来て跡取り候補となっているのはどうやら実に複雑な理由があるらしいので今は割愛させて頂くが、これで俺の心は決まった。
 何であれ、この家を出て行く正当な理由が出来たのだ。
 樫の扉を締め廊下に出た所で伸びをする。名実共に自由の身になれる。

「お兄様?」

 と、そこで背後から声。俺をそう呼ぶのはこの家にただ一人だけだ。
 振り返ろうと思ったら腰の辺りに軽い衝撃。見下ろせば俺と同じ緩いウェーブのかかった金髪のつむじがあった。
 メルイーズ、と静かに名前を呼べば、俺の倍ぐらいあるんじゃないかという大きな双眸がこちらを見上げる。
 真っ青なそれもまた俺と同じ色をしていて、いつも宝石のように輝いていた。お世辞も贔屓目も抜きで、可愛いと思う。

「お兄様、お父様のお部屋に御用が?」
「ああ、ちょっと気になる本があって」

 自分でいうのも何だが、メルイーズはどうも俺の事が好きでたまらないようで、捕まると暫く離して貰えない。
 どうしたもんかと思いながら自室に足を向ければほら。後ろをちょこちょこと雛のようについて来る。
 まだ幼い体には重いであろう厚い生地をふんだんに使ったドレスの裾を楽しそうに跳ね上げて歩くのを見ていると、この幼い妹はすっかりハワード家の令嬢だな、と思う。
 俺がここから居なくなったら、一番悲しむのは多分彼女だろう。この家の人間で唯一、俺が余所者だってことを、知らないから。
 負い目も義理も何も無しに俺を愛し、慕ってくれる彼女に家の今後を任せるのは少し気が引けるが、気持ちは既に決まってしまっていて、そんな申し訳無さは言い訳のように聞こえるので考えるのをやめた。

「あっ、お兄様。またこんな所に怪我をなさったの!?」

 そんな言葉と共に小さな手が伸びて来て、袖を捲った俺の腕に触る。
 怪我なんてしょっちゅうのことなので、いつ出来たものかも覚えていないのだが、一つ見つける度にメルイーズは命に関わる事かのように大袈裟に騒いだ。
 そう言えばこの子は怪我なんてした事なかったな。いつも誰かに守られていて、まるで転ぶ事すら許されないかのような。

「大した傷じゃねえよ、痛くもないし」
「でも、」
「そんな事より、お前寝なくていいのか?もう随分遅いぞ」
「こ、子供扱いしないで下さいまし!」

 意地悪を言ってみればむっとした顔でそう返された。12歳ならまだ充分に子供だ。
 深い赤のリボンが結わえられた髪を一度撫でたところで自室に辿り着く。メルイーズの方を振り返り、ノブに手を掛けた。

「じゃあ、俺はまだやる事があるから」
「お部屋…入ってはいけませんの…」

 俯き、またつむじが俺に顔を見せる。猫可愛がりしている訳では勿論無いが、そうしょげられてはこちらもきつい物言いは出来ない。
 勉強や習い事に忙しい彼女のことだから、少しの自由な時間ぐらいはきっと俺と居たいのだろう。
 どっちみち今日で最後だ、俺は扉を開けるとメルイーズの背中を押した。
 たちまち彼女は笑顔になり、部屋に足を踏み入れる。
 ドアを閉め、ベッド上に放りっぱなしのトランクを開けた。
 次いで物書き机に立ててあったペンの中から特にお気に入りのものを幾つか、布に包んでトランクにそっと入れる。
 俺が拾い集めた鳥の羽を使って作った羽ペン達だ。これは流石に、置いていく訳にはいかない。
 メルイーズはベッドの隅の方に腰掛けて、そんな俺を不思議そうに見ていた。

「……どこかへ、お出掛けになるの?」
「まぁそんなとこだ」
「いつお帰りになるの…」

 わからん、と本心そのままの言葉を口にして、まだ読んでない本をこれも幾つか放り込む。
 これでよし、とトランクを閉じた所で、こつんと窓の方から音がした。
 何だろうと黙ったままでいると、こつこつ、と今度は二度。
 誰かがベランダから窓を叩いている。そう気付いて彼女を部屋の外に出そうとした瞬間。
 派手な音と共に窓ガラスが割れ、吹き飛んだ。
 咄嗟にメルイーズを抱き寄せ、ベッドを盾にして破片から逃れる。怪我してねえか、と問えば大丈夫です、と小さい声が返って来て安堵した。
 強盗か。親父が居ない今ならそれも可笑しくない。ベッド下に隠していた銃をたぐり寄せ、息を潜めて状況を窺う。
 銃は一度教えて貰ったきりでからっきしだが、それでもやるしかない。
 ガラスの破片と衝撃で照明が壊れてしまった暗い部屋に、俺とメルイーズの呼吸と、とガラス片を踏む音。
 肩から手を離し、静かに立ち上がって足音の方へと銃口を向けた。
 同時に、自分の額にも冷たい感触。
 それから月明かりの逆光の下、嫌に耳に残る声が響いた。




 怖い?と問われ首を横に振ったら、きっと悪魔が私の舌を切り落としに来るのだろう。
 東洋の国にはそのような悪魔が居ると、いつだったか祖母から聞いた覚えがある。
 嘘吐きは舌を切り落とされるとは、的確に恐ろしい悪魔だなと、ふと思った。
 ああ、何故私はあの時首を縦に振ってしまったのだろう。
 あの黒い外套――もしかしたらあの人が悪魔なのかもしれない。

『うちの副船長、やって欲しいんだけど』

 買い出しの途中。
 ひとけの少ない道でばったり出会い、それから店番でも頼むかのようなごく軽い口ぶりで云われたものだから、深く意味も考えずについうっかり首肯してしまった。
 そこから外套の人物が集合時刻と待ち合わせる場所を指定してきたくだりは、今ではもう曖昧過ぎて夢のように思われる。現実か、と問われて、自信を持ってそうだと返せない。
 家に辿り着いてからひょっとしたら私、夢遊病かしらん、と思いもしたけれど、そんなもので片付けるには余りにもリアルだった。
 ひんやりとした空気を、やけに響くその声を、頭はしっかりと覚えていた。
 背筋が凍るような冷気を思い出してぞく、とする――やっぱりあの外套の人物は悪魔なのかも知れない。
 外套に隠れたその下は、真っ白に煌めく髪と青緑色の宝石の様な双眸。
 息を飲む私を見て彼(と呼んでも良いのかすらわからない)は、それはもう至極面白そうににたり、と嗤ったのだ。
 そして悪魔に誘惑された私はといえば、そんなただの口約束の為にトランクに衣類を始めとした必要なものを詰め、足早に階段を下りている。
 この時点でもう可笑しいとしか言いようが無いのに、何故だか手も足も止まってくれない。
 口約束でも約束なのだ、破るなんて出来ない。言ってしまった事の責任は、取らなければならない。
 なんて難儀な、律儀な性格なのだろうと我ながら溜め息をつきたいけれど、残念ながらこれが私で、それ以上も以下も無い。
 一階に降りれば両親の経営するタヴァンが今日も繁盛していた。
 いつもなら病気がちな母を手伝って私も店に出なければならないのだけれど、今日はそういう訳にはいかない。
 所狭しと並ぶテーブルの間を、重いトランクを抱えながらすり抜けていると、遠目に一つのテーブルが目についた。
 そこだけが、他のテーブルとは明らかに違う空気を放っている。
 大声で騒ぐ無精ひげの男達。テーブルには無防備に金銀の小山が出来ているというのに、くすねようと狙う人は一人も居ない。

「海賊、」

 声に出してしまって、慌てて口を塞いだ。
 喧噪に掻き消されたので運良く誰にも聞かれては居ない。
 大股で歩き店を出て扉を閉めたが、無意識に力が入っていたのか物凄く大きな音を立ててしまった。
 誰も彼らのお宝に手をつけようとはしないだろう。私が周りの客だったとしても、絶対にしないと思う。
 平和なこの町で、海賊というならず者は一つの恐怖だ。私達には武器も無ければ戦う心得も無いのだから。

「でも貴方も今日から、その仲間入りよ?」

 私の中でもう一人の私がそう囁きかけて来る。
 そう、同じ、彼らと。人に恐怖を与える存在――駄目だ、考えるのはやめよう。
 母さん、今日は具合大丈夫かしら。父さんも弟も、寂しがらないかしら。
 明かりが漏れる扉を一度だけ振り返る。部屋に置き手紙は残して来たものの、残して来た家族の事を思うと引き返したい気持ちで一杯になる。
 それなのに、どうしてか足は真っ直ぐに港を目指していた。
 履き慣れたヒールが地面を叩く音だけが月明かりの下ではっきりと響く。
 何となくではあるけれど、私は、私の気持ちは、あの声に引き寄せられているように感じた。
 足早に、急勾配な石畳の階段を駆け下りる。狭い道を下って、海へ向かう。
 約束してしまったのだから仕方が無いと、半ば言い訳のように繰り返し頭の中で呟きながら。




「迎えは必要なかったかな?」
 
 月光を弾く白銀に、俺は銃を下ろす。次いで向こうも同じように古めかしい3バレルの銃を下ろし、視線を別の方へすいと投げた。
 同じ方を見れば、ベッドの影からメルイーズがこちらの様子を窺っている。
 シーツを握る手が白くなるほど力が入っていて、震えているのが分かった。
 そんな様子など気にもとめず、ヴァルツァは銃を仕舞って彼女を顎で示した。

「かァわいいねえ、彼女?もしかして既婚だったり?」
「妹だよ馬鹿野郎。迎えは良いけど派手すぎる」
「小煩いなァおぼっちゃん。ま、見たとこ準備は出来てるみたいだし行くとしようか」

 トランクをひょいと担ぐヴァルツァに、俺は頷いて後に続く。いや、続こうとして、止められた。
 小さな手が、俺の服の裾を掴んでいる。両手で裾を握るメルイーズの双眸が、ヴァルツァを睨みつけた。

「お兄様を連れて行かないで!!」

 12年間見て来た中で、彼女がこんなにも声を荒げた事があっただろうか。少なくとも俺は、初めて聞いた。
 ヴァルツァは面白く無さそうにメルイーズを一瞥すると、ヒールを鳴らして歩み寄り、細い腕に手を掛けた。
 それから彼女の耳元に唇を寄せて囁く。

「ロベルトは自分の意志でこの家を出て行く。君のそれは、邪魔だよ」

 ヴァルツァがそう言い終わるや否や鈍い音がして、メルイーズは床に倒れた。
 ドレスが風を孕む音が静寂に残る。

「お、おい、何…したんだ…」
「首筋に手刀を一発。安心しろ、痣になるほど強くはやってない」

 メルイーズの手首を掴んだその手で、今度は俺の手首を掴むとヴァルツァはベランダに出る。月の明るい夜だ。
 ぽつりとヴァルツァが「言い過ぎとかって、怒らないんだな」と言った。

「まぁ、お前の言った事は事実だし」

 今だって不謹慎な事に心臓は奇妙なリズムで撥ねている。
 後ろめたい気持ちが無いと言えば嘘になるが、残念な事に品の良いこの家の諸々に俺の体は悉く合わないし、安全な場所で死ぬまで囲われるのは気に食わない。
 箱入りで一生を終えるなんて退屈だ、俺だって男の子ですから。
 ヒールの高い靴を脱ぎ捨て、悪友に貰ったローヒールのロングブーツに足を突っ込んだからには、外に出なくては。

「さて、そんじゃあ感傷タイムは終了な。ロベルトは取り敢えずこれを抱えてろ。こっから飛び降りる」

 ヴァルツァの言われるままにトランクを抱えると、何がしたいのかヴァルツァは後ろから俺を抱えた。
 まさか投げ飛ばすとかそういう無茶苦茶な事はしないよな、と思わず確認に振り返ろうとした所で、浮遊感が体を襲う。
 一瞬だった。驚きに目を閉じていたら、目を開けた時には庭の芝生の上に立っていた。
 あれ、と辺りを見回す。庭師が丁寧に整えた薔薇が咲いている、いつも通りのハワード家の庭。
 特に衝撃らしい衝撃も無かったのに、これは一体どういう事だろう。

「なぁヴァルツァ、」
「さて、急いだ方が良い。もう一人の招待客は律儀だからもう集合場所に居るだろうし」

 飲み込まれそうな程大きく夜空に浮かんだ月を背景に、ヴァルツァは悪魔的な笑みを俺に向ける。

「今から迎えに行くのはお前の片腕になる奴だ、仲良くしなよ」

 外套を翻し足早に行くヴァルツァの背を追う。一度だけ屋敷を振り返り、育ての親に内心謝った。
 この屋敷は俺には狭かったみたいだ。あ、家としては申し分ないけど。
 まぁともかくもう行くよ、あんたらの便宜上一人息子は、家出したとでも思っておいて呉れな。
 踵を返すと鼻先を何かがくすぐる。指でつまんで焦点の合う位置まで持っていくと、それは闇のように真っ黒な一枚の羽だった。


 ああ、いたいた、とヴァルツァが軽い調子で片手を挙げて呼ぶと、港に座り込んでいた小柄な少女はそれに反応しこちらに振り返る。
 見覚えのある、しかし意外な顔に思わず俺は声を上げた。

「あんた…タヴァンの」

 一応家からは「そういう店」の出入りを禁じられて入る俺だが、悪いツレの誘いで何度か足を踏み入れた経験のあるタヴァンの、そいつは一人娘だった。
 こうしてきちんと顔を見るのは初めてだが、顔立ちだけ見るとどうも厳つい店主とも穏やかそうなおかみさんとも似ていないように思う。
 黒く真っ直ぐな前下がりのセミロングを几帳面に分け、そこに小さな髪留めをさしている彼女は、大きな栗色の目を更に大きく見開いて俺を見る。
 どうやら俺の事を覚えていてくれたらしい。
 自慢じゃあ無いが俺の緩くウェーブがかかった金髪は女性陣には割と人気なので、覚えていた理由はそれかもしれない。
 若しくは、俺が大商家のちゃらんぽらんなおぼっちゃんだからか。

「あなた、ハワードの…」

 残念ながら彼女が俺を覚えていた理由はどうやら後者らしい。
 俺と同様に意外だと感じているのか言葉を失っているようにも見える彼女に対し、俺は訂正するようにファーストネームを名乗った。

「ロベルトだ。意外や意外、まさかアンタが海賊だなんてね、箱入り娘さん」
「レイチェル・ヨハンソン――それはこっちの台詞だわ、船上にシルクのベッドは無いわよ」

 またもや意外な事に嫌味で返して来た彼女は、よく見れば真面目そうではあるが勝ち気な目をしていた。
 噂では店主夫婦に可愛がられてる箱入り娘で、悪い虫のつく隙もない…とか言われていたが、彼女自身を見るとどうやらそれだけではないようだ。
 随分と高いヒールを履いて尚俺に届きもしない小柄な少女なのに、冷たく睨みつけて来る目にはやけに迫力がある。
 俺達の間に意図せず流れた不穏な沈黙を破ったのはヴァルツァだった。
 俺とレイチェルの顔を交互に見ながら、短い眉の根に軽く皺を寄せて怪訝そうに問いかける。

「あーコラコラお二人、対面式で睨み合いとは頂けないな…面識が?」

 俺達が互いの顔を知っている事に、ヴァルツァは軽い驚きを見せた。
 ユーグランドの中でもこの街はそんなに大きくない、”おぼっちゃん”の俺や噂の箱入り娘なんて大体皆が知ってる事だ。
 ヴァルツァの問いに俺はハハ、と肩を竦め笑った。

「正式なお知り合いって訳じゃあねぇけど。なぁレイチェル?」
「気安くファーストネームで呼ばないで頂戴Mr.ハワード。知り合いなのだって、不本意だわ」

 か、可愛くねえ…!ツンとつっぱねて横を向いてしまった彼女を、俺は何があっても名前で呼び通すと堅く心に誓う。
 どちらかというと俺はその苗字で呼ばれる方が嫌なのだが、きっと言っても聞いてくれないだろうからその仕返しも兼ねて、だ。
 相変わらずどころかさっきの数倍も悪くなった俺達の雰囲気に、ヴァルツァが至極面倒くさそうに溜め息をつく。
 どうでもよさそうに「さっさと行くよ」と発したその一声で、俺達は下ろしていたトランクを再び抱え直した。




 海沿いに、ヴァルツァの後をそのまま着いていったロベルトとレイチェルは、崖の向こうからゆっくりと姿を現した、闇よりも暗い空気を纏うその帆船に目を瞠る。
 生まれてこの方ほぼ町から出た事の無い二人にとって、船と言う存在はどうにも生活に遠いものになる。
 小さなキャラヴェル船とは言えど、感動もひとしおという顔で二人は立ち止まった。
 その様子を可笑しそうに笑いながら、ヴァルツァはもう岸に着きそうな程近付いて来た船の方へと声をかける。
 怒鳴る訳でもないのに良く通る凛とした声は、不思議な響きをしていた。

「おぉいリッヒテ、どうだい?」
「ああ、完璧だよ!ちょうど月も隠れて来たし、人目を盗んで出航するには悪くないシチュエーションだ!」

 凛々しい声がしたかと思えば縄を滑り降りる音がして、薄く翳ってきた月明かりのもとにひとつの影がひらりと舞い降りる。
 影が投げた縄梯子を、ヴァルツァが受け止める。
 行くよ、下ろされたそれを容易くのぼっていく姿を眺めながらレイチェルも梯子に足をかける。
 そうして危なっかしくのぼっていくのを下から眺めているロベルトの頭に、突如きゃあ、という悲鳴と共にトランクだけが降って来た。
 避け切れず顔面で受け止める羽目になり、文字にし難い声を上げて後ろに倒れる。
 わざとか、と怒鳴りそうになる口を押さえながら、ロベルトは二人分の荷物を何とか持って梯子をのぼる。
 息を荒げながら甲板まで辿り着くと、荷物を放り投げて大きく息を吐いた。お疲れ、とヴァルツァが皮肉り、先客に向き直る。

「さてリッヒテ、彼らが僕が見つけて来た新しいクルーだ。船長のロベルトと、副船長のレイチェル」

 ヴァルツァの紹介に、ロベルトの「お前副船長なの!?」と、レイチェルの「あなた船長なの!?」の声がぴったりと重なる。
 それを見て影、もとい先客、改めリッヒテと呼ばれた青年は、きりりとした面立ちを破顔させた。

「うーん、素晴らしく息がぴったりだね。リッヒテ・ヴィルヘルムだ、航海士としてこの船に居る。よろしく」

 高めの位置できっちり結わえた黒髪、切り揃え真ん中で分けられた前髪の下で、右を黒皮の眼帯が覆っている。
 鼻筋の通った涼し気な顔立ちの中で猛禽類のような黄金の瞳だけが、彼は何処ぞの騎士などではなくれっきとした海賊なのだと証明しているように思えた。
 白いシャツの開放的な胸許には金色のコインが下げられている。
 腰の左に一振りの刀、それから銃もベルトに挟まれていた。剥き出しに下げられ存在を示す武器に、レイチェルがびく、と震える。
 気付いているのかいないのか、沈黙の隙間を無くすようにヴァルツァが口を開く。

「彼は暫くかの帝国の騎士団に所属していたから腕も立つ。剣の腕を磨きたいなら彼に指導を仰ぐと良いよ」
「まぁ大した腕じゃあないけどね」

 ヴァルツァの言葉にリッヒテは照れたように笑った。穏やかそうに見えるこの青年も、隠している牙は鋭い。
 既にその片鱗が、猛禽類の目に滲んでいる。
 遠慮勝ちな言い草に、ヴァルツァは意地の悪い笑みを浮かべた。

「まァたまたご謙遜を…おっと、風向きが良い感じだね、出そうか」
「そうだね、海は気まぐれだから。ねえところで、女の子を乗せちゃっても良いのかい」

 足早に甲板を進みながら問うリッヒテに、ヴァルツァはボルドーのショートブーツを踊るように響かせながら「構わないでしょ」とだけ言う。
 高いヒールで、揺れる甲板を舵まで真っ直ぐに進んでいくヴァルツァの背を、ロベルトとレイチェルが追いかける。
 一杯に張った帆が風を孕み、船が滑るように動き出した。
 あまりにもあっさりと大海への一歩を踏み出した新参者二人は、ただ唖然とした顔で闇に塗れる水平線を莫迦のように見晴るかした。
 月光を集めたような白銀の髪を揺らしながら二人の方へと振り返るヴァルツァ。
 大きく揺れる船の上だと言うのに、相変わらずふらつく素振りは見られない。

「そういえばお二人さんって船酔いとか大丈夫かい―――って、訊くのが遅かったかな?」
 孔雀色の瞳に映ったのは口元を抑えて蹲る、顔面蒼白なロベルトとレイチェルだった。
 
 
 
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