背を向けている間は引いている頬の赤みに気づいたのは恋心を自覚した後だった。震えた声で話すのに、チョークが滑る黒板の字は綺麗だ。先生が着ているのは指定の制服ではなく、私が着ているのは指定のセーラー服だ。先生のスラックスには名前の刺繍がされていないが、私のスカートには名前と校章まできっちり縫い付けられている。数学のテストだけやけに点数が良い私を見て、嬉しそうな、複雑そうな表情を浮かべる先生に、私なんかよりうんと聡明な人なのだと突きつけられたのは最近のことだ。

 高校三年生。何をするにも『最後の』という言葉が纏わりつく、恐らく人生で一番楽しくて、一番大事な365日。受験戦争は想像よりもずっと過酷で、切磋琢磨、なんて可愛い言葉は似合わない程だ。これは本当に戦争で、私達は軍隊でありながら一人一人が殺し屋なのだと思い知らされる。模試の結果が、中間テストの点数が、じわりじわりと首を絞める。

 戦争に恋愛を持ち込むな。これは学年一位の成績を持つ友人が私に言った言葉だ。わかっている、わかっているよ、恋はきっと一過性で、この戦争に打ち勝つことが今後の人生に大きくプラスになることなのもわかっている。それでもこの気持ちを抑えきれないのは、それこそこれが恋であるからだ。

「いつまで残ってるんだ、早く帰りなさい」
「つつじもりせんせい」
「…なんや、問題集解いてたんか」
「はい、でも、ここがわからなくて」

 質問をすれば必ず丁寧に答えてくれることを知っていて、ずるいことをしたと思う。私の下心にちっとも気づく様子もなく、問題集の文字に目を通していく躑躅森先生の横顔を見つめる。胸元に引っ掛けていたボールペンを流れる動作でノックして、いつ取り出したかわからない付箋にスラスラと書かれていく綺麗な文字。インク伸びをしそうでしない、濃い黒色。紙に吸い込まれていくインクのように、私もあなたに吸い込まれてしまいたい。

 放課後の教室で一人残っていると、見回りの先生がいつも来る。日によって誰が来るかはわからないけれど、稀にこうして躑躅森先生の順番が巡ってきては会話をできる喜びを感じて、いくつか質問をしてしまうずるくて浅ましい女。

「と、いうわけや。やからこの問題を応用して…って、時間やったな。今日はもう帰りなさい。親御さんが心配する」
「……はい。ありがとう、ございました」
「こちらこそ、いつも質問してくれたてありがとう。気ぃつけて帰りよ」

 ひらひらと手を降った躑躅森先生に対し、気軽に「また明日ね〜!」と手を降って階段をご機嫌で降りるような可愛げが私にもあったらな、ともう何度思ったかわからない。敬語も外せなければ下の名前で呼ぶこともできない。臆病で、小心者で、生真面目に在るべき生徒のカタチを守るいい子ちゃんをやめられない弱い子供。

「つつじもりせんせい、さようなら」
「はい、さようなら。また明日学校でな」

 一礼してから教室を出る。重い足取りで階段を踏みしめ、今日も何も聞けなかったと落胆する。本当は、私だって××ちゃんみたいに「ろしょうせんせい」と甘ったるい声で呼びたい。「せんせぇ彼女おるん?」なんて、笑顔で聞いてからかってみたい。いつだってクラスメイトに心の底から尊敬と、嫉妬をしている。生徒が先生に聞くべきである正当な、勉学という理由でしか躑躅森先生と会話をできない私に、勝ちの目なんて一生回ってこないのだ。負け戦なのに、争うことは避けられない。どうして躑躅森先生のことを好きになってしまったんだろう。先生は、どうしようもなく先生で。先生にとって私は、どうしようもなく生徒だ。

「ちょお待ち、みょうじなまえ!」

 フルネームを呼ばれて驚いて振り返った。視線の先には息を切らした躑躅森先生がいる。走って追いかけて来たのだろうか。愛しい人に呼ばれた名前のはずなのに、心がじわじわと傷んでいく。私が盧笙先生と呼べないように、躑躅森先生も私のことを名前では呼ばない。

「すまん呼び止めてしもて。今日、元気ないんとちゃうんか。具合悪いんか」
「えっ、え」
「この時期は特にしんどなるやろ、俺は一緒の目線には立ったれないけどな、力になりたいとは思っとるから、なんでも言うてくれ」
「なんでも」
「そう、なんでもや。数学の質問でも、わからんかもしれへんけど他教科の質問でもええ。進路先について悩んどることがあったらそれでもええし、友達と喧嘩したとかでもええねん」

 ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。自分の喉からだ。

「せんせい、」
「おう。なんや」

 たった二文字で伝わるはずなのに、それを拒むのは紛れもなく私だ。言ってしまえばもう二度と、他の質問が許されなくなる。躑躅森先生は優しいから、きっと困った顔をするし、それから私を傷つけないように言葉を選んでくれるだろう。事実、そうされた生徒が何人かいることを知っていた。トイレで泣きながら友人達に報告する所謂カースト上位の彼女たちの話を偶然聞いてしまう度に凍りつく体躯。生徒を大切に想っているからこそ、絶対に気持ちを受け取るなんて真似はしないのをわかっていて、それでも言いたくなってしまうのが女子高生の、らしさとも言える部分なのかもしれない。


「………明日もまた、数学教えてください」

 一拍置いて、躑躅森先生の目がまあるく見開く。数秒何かを考えた後、ぽん、と大きな手のひらが頭に乗った。

「大歓迎や。待っとるで。復習はしっかりせぇよ」
「はい。ありがとうございました」

 きっと、大学に合格したって成人式で再開したって言えないこの気持ちをせめて大事に持っていることくらいは許してくださいと、誰に許してもらえる訳でもないのに思うのだ。



*地獄先生/相対性理論

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