寝室からアラームの音が聞こえる。直ぐに止まって、何の音もしなくなる。壁掛け時計の針は彼が起きる時間を指していた。

「こうくん、おはよう」

パンを焼きながら声をかけてみても起きる気配がない。眠るのが遅くなってしまったから甘やかしたい気持ちもあったが、要件の内容を考えればそうすることは許されなかった。フライパンに蓋をしてから寝室へ歩く。朝が弱いのはいつまで経っても変わらない。

「こうくん、おはよう」

再度、同じ言葉。数秒してからもぞもぞと布団が動き出す。人ひとり分の空白を残したベッドは僅かに寂しさを含んでおり、心持ち私を待っているように見えてしまう。それは彼の優しさがそうさせているのだと、気づいてからもう何年経つのだろうか。

「んん…今日一限じゃないだろ」
「ボーダーで会議だよ」
「あー………」

既に端で止められているカーテンから漏れる陽の光を避けるように布団の中に潜り込んでいく彼の決して太くはない手首をそっと掴んだ。もう片方の手で布団をゆっくり押し上げていけば、皺が寄るほど目をぎゅっと閉じたこうくんがいる。ふたりでひとつの家に住み始めてから出来上がっていった日常のひとつを口に入れて、咀嚼して。それから味わうことは一緒が良いと彼を揺さぶり起こす。

「…はよ」
「うん、おはよう。ごはんできたよ」
「ん、さんきゅ」

漸く布団から這い出た彼が洗面所へ消えていくのを見守ってからちょうどいい具合に焼けているであろう目玉焼きが待つキッチンへ戻った。蓋を開けて、綺麗に焼きあがったまん丸を見てから、しまった、こうくんは卵焼きの方が好きなんだったとハッとする。せめて今日くらいはいちばん好きで溢れている日にしようと思っていたのに、侵食しきった日常がむず痒くも邪魔をしていた。

今日は世界に幸福が産み落とされてから、二十二回目の日だ。

カレンダーには赤い文字でケーキのイラストが描かれている。その隣に小さく黒いインクでありがとうと書いてある。年末になる度にお互いの誕生日の欄に何かを書き合う癖が抜けない。もっとも、もしも違う世界に生まれて違う生命を与えられていたとしても、この癖はなくなってくれるなとふたりは思い込んでいる。

「うまそう。今日どっち?」
「みかんジュース飲んでもいいよ」
「いや、いいよ。おれお茶〜」
「私もお茶がいいな」

ティーパックでつくられた緑茶がジャグから注がれていくのをしあわせだと名付けたい。跳ねた髪の毛、伸びきった寝巻き、あくびをする薄いくちびる。この部屋では私たち以外息ができないほど窮屈な空気になっている。

「何曜日?」
「月曜日。こうくんは四限からだよ」
「びみょうだなぁ」
「間に合わなかったら私が伝えておくね」

主語がない。これは、いつの日か誰かに言われた言葉。確か、ボーダーの人だった気がする。主語は、もっと言ってしまえば言葉すら、私たちの間では意味を持たなくなることが多い。伝えたいことすべて、きみがしっている。あなたにとって、わたしもそう。

「なまえ」
「うん」
「今日の飯なに?」
「ふふ、なんでしょう」
「うわまじかよ。楽しみにしてる」

毎年のことじゃない。という言葉は胸の奥にしまっておいたが、彼が笑ったので、きっと伝わってしまったのでしょう。
エビフライ、何種類かのコロッケ、手作りのケーキ。今年もなんら変わりのないメニューに、こうくんがいちばん喜ぶことを知っている。

「行きたくねえ〜!」
「途中まで一緒に行く?」
「あー、うーん、あー…そうすっか」

返事をせずに、いただきますの挨拶をした。ふたりで食べるごはんには大事がぎっしり詰まっている。会話は多くない。幸福は過多すぎる程だ。



「行ってきます」
「いってきまーあす」

玄関で靴を履いて、同時に家を出る。ふたりぼっちの家には、表札にひとつ分しか苗字が書かれていない。この苗字で呼ばれることにも、随分慣れてきた。

「んじゃ、終わったら連絡する」
「うん。太刀川さんによろしくね」

間延びした適当な返事に手を振って、ボーダーとは逆方向にある大学を目指す。提携大学に通わないと言いきったこうくんと同じ大学に通いだしてからあっという間にもう四年。冬には卒業を控える年になっていた。苗字を揃えたのは彼の希望。揃えただけで、他にはなんの変わりもない。私とこうくんは、未だ恋人でも夫婦でもない。もちろん友達でも他人でもないのだけれど。

「あ、お花買って帰ろうかな」

今日はきみが、世界でいちばんしあわせで在るべき日だから。





2020.09.21

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