刺すような痛みを持った夜だった。オオサカの街は眠らない。行き交う人々は皆幸せそうに見えて、惨めな気持ちばかりが私を埋める。左手の薬指に我が物顔して輝いている指輪をそっと抜き取って、それから目の前に広がる水に投げた。緩やかな流れの川だけれど、この高さから投げてしまえばもう二度と見つかることはないだろう。いっそここから身を乗り出して、私も一緒に落ちてしまおうか。あ、それ、いいかも。一度思いつけば止まらない思考が私を支配して、足の先までその考えに支配される。柵に手をかけて、身を乗り出して、足を上げて。どうせ、もう何も残っていない。ここで死んでしまった方が、この先苦しみながら生きていくより幾らかマシだろう。

「なっ、にしとんねん!」

ぐい、ぐらり。後ろからものすごい勢いで手を引っ張られてバランスを崩し、そのまま後ろに倒れ込んだ。不思議と痛くない。私の下に、誰かいる。

「何考えとんねん!」

ガツン。殴られるような痛みを帯びた怒鳴り声に目を見開いて肩を震わせた。誰、この美人は。どうして怒られているんだろう。ああ、助けてくれたのか。と、状況を一つずつ整理しながらどこか他人事のように置かれている場面を理解する。

「やだなあ。殺してくれればよかったのに」
「…命を粗末にしたらあかん。例えどんな理由があったとしてもや。君、名前は? 親御さんは一緒じゃないのか」

子供だと思われている? と首を傾げてみれば、勘違いを続けたままの美人さんは私の腕を引っ張って立たせる。両肩をがしりと掴まれて、背の高い彼が視線を合わせるように屈む。近い。向けられた視線が、思いが、あまりに真っ直ぐすぎて。じわりと涙が滲んだ。

「家に帰りたくない理由でもあるのかい。目、擦ったらあかん。腫れてもうたら可愛い顔が台無しなるで。ほら」

差し出されたのは綺麗にアイロンの線がついたハンカチだった。恥ずかしげもなく恥ずかしいことを言った美人さんは私の言葉を待っているようだった。このまま子供のふりをしていた方が色々と楽かもしれないな。警察に連れていかれても困るし。ぐるぐる思考を巡らせていれば、彼の足が進む。腕を掴まれたままなので、自然と私の足も進む。しばらくして着いた公園のベンチに座らされ「少し待っていなさい」とだけ残してどこかへ行ってしまった。…この隙に私が逃げ出すとは考えないのだろうか。抜けた人だ。

「はい。どっちがええ?」

しばらくして戻ってきた彼が持っていたのは自動販売機で買ったであろうアイスココアとりんごジュースの缶だった。少し迷ってからりんごジュースを指させば、柔らかな笑みを浮かべてプルタブを引いてから、私の手の中にジュースを置いていく。当たり前のように自然と隣に腰かけて選ばなかったココアを飲み始めた。月明かりに照らされて、あまり見ない色の髪の毛が光っているように見えて、綺麗だな、なんて。

「生きとったら色々あるけどなぁ、君にはこれから先も続く人生がある。今捨ててしもたら、勿体ないって俺は思う」

時々見える不自然な喋りは方言を自制しているのだろうか。ああ、私が結婚する予定だった人も、こういう人だったらな、なんて馬鹿なことを考えてしまう。こうして視線を合わせて、同じ距離で、同じではない感情を少しでも同じにしようと近づけてくれるような。嘘をつかなくて、真っ直ぐな気持ちを持っていて、見ず知らずの誰かにも優しくできるくらい心が広くて、私の欲しい言葉を当たり前かのように吐き出してくれる。こんな、人だったのならば。

「人って案外変われるねん。…俺も昔は、君みたいに思い詰めとった時期もあった。でも、死んでしもたら変わることもできん。下手くそでも、不器用でもええから、まずは生きとってほしい。…見ず知らずのおっさんがなに言うとんねん思うかもしれんけど、どうか聞き入れてほしい」
「手、触って」
「は」

左の手の平を彼の前に伸ばす。目を見開いてから、訳がわからない、という表情をしつつもそろりそろりと手が伸びてくる。あと数センチ、というところでぴたりと手が止まった。迷ったような視線が注がれて、目を逸らす。しばし迷ってから、ぴったりと手の平がくっついた。ごつごつした手は、私のよく知るものとは違う。当たり前だ。何をしているんだろう、と羞恥で頬が火照る。ごめんなさい、と零して手を離そうとすれば、彼の指が綺麗に折りたたまれた。手を握りこまれて、指の感触がぐつぐつと胸の奥を煮立たせる。あっという間に泣きだしてしまった私の口から漏れたのは、今朝方振られたばかりの男に対する愛の言葉ばかりだった。



私が泣き叫んでいる間、目の前の男は何も言わなかった。苦い表情をして、唯々私の暴露を聞いていた。手は握りこまれたままで、すっかり熱を持ってしまっている。漸く涙も感情も落ち着いた頃、再度謝罪の言葉を浮かべれば、静かに彼が微笑んだ。

「立ち止まってもいい。泣いたっていい。立ち直るのは今日や明日じゃなく、来年でもその先でもいい。君が諦めなければ、きっと幸せになれる。自分に誠実でおってほしい。…なんや偉そうになってしもてすまん」
「…いえ。ありがとう、ございました」
「礼言われるようなことはしてへん。でも、どういたしまして。一人で帰れるか? 家まで送るで」
「大丈夫です。あの………また、しんどくなったら、」
「ああ。ええよ。はい、これ電話番号。いつでも連絡してや」

手帳を開き、11桁の数字をさらさらと書いて切り取って渡される。個人情報をこんなに簡単に…。と驚きつつも、素直に受け取って頭を下げた。彼に言われた言葉の数々が、私の胸をいっぱいにしていた。

「ああ、俺は躑躅森盧笙、言います。君は?」

名前を言って、彼と別れた。不思議な出会いだったけれど、彼に今日、見つけてもらえてよかった。
とりあえず、明日も生きてみようと思う。


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