冷たい夜風が頬を切る。思ったよりも、寒い。さすがにまだ春はきてくれないか、と上着を羽織ってこなかったことを今更になって後悔した。この世界のあらゆるすべての物事は、悔いたって悔いたって、取り返せることなどただのひとつとしてないのに。

大袈裟に吊るされた立ち入り禁止の字に目もくれずにロープをまたぐ。監視カメラの死角をくぐるのにももうすっかり慣れてしまっていて、身についた動きがどうにもさびしい。言ったってどうにもならないから、と自分の中で折り合いをつけて廃ビルの隅に小さく座り込む。腕時計の針は約束の時間をとうにすぎた位置にあるのに、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
吐いた息が白いのを見て笑いがこみあげてくる。手に息を吹きかけながら、もう終わりかなあとひとり、おもう。そもそも彼女になれたこと自体が奇跡のようなものなのだから、こうして会っていることになんと名前を付けてよいものなのかわからない。心の奥深い、誰にも見えないところにしまった言葉はきっともう形になることはないのであろう。じゃり、と聞こえた足音に聞こえないふりをした私はゆっくりと目を瞑った。

少しずつ大きなってくる足音も、紛れもない彼の声も、塞ぎ込んでいる私の姿も、寒さも、ぜんぶぜんぶうそだったのなら、あなたは私といっしょにしあわせを掴みにいってくれる?

「なんでそんな薄着なんだよ。さみぃだろ」
「…うん」
「なまえさ、変なこと考えんなよ、頼むから」

なんの脈絡もない言葉に、思いっきり戸惑った。目の前の陽介は今までに見たことがないくらい弱々しい姿で、縋るように言葉をしぼっている。変なことの意図をなんとなく察しながら、結局この場の空気の悪さに耐えられずに頷いてしまった。冷え切った私の手が陽介の温かい手に包み込まれる。視線がばちりと噛み合って、くるしそうな陽介の笑顔がつらい。まるで壊れたおもちゃのように陽介はひたすらに同じ単語を繰り返す。私と陽介の手の温度がちょうどはんぶんこになったくらいに、陽介はようやく口を閉ざした。しおれたように見える彼の髪の毛にそっと手を伸ばして、触れる。

「陽介になにがあったかはわかんないけどさ、少なくとも私は、ずっと陽介の傍にいるよ」
「んー…」
「これから先も、ずっと、」
たとえ私たちの間に愛だの恋だのというものがなくなったって。
「だから、いいよ」

今までにないくらいの笑顔で、精一杯、受け止めてあげるという意味を込めて両手を広げれば陽介は素直に抱きついてくる。すこし痛いくらいに抱きしめられたからだはあっつくて、さっきまでの寒さなんてとうにどこかへ行ってしまったようだった。

こうして失われているなによりも大切ななにかに私達は気がつけないまま、大人になっていくのだろう。 たとえそこに、愛だの恋だのというものがなくなったとしても。


融解したのは一体なんだったのか

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