「待って、どこいくの」
「待たん」

痛いほどに強い力で腕を握られて、どんどん前へと進んでいくのはかつての恋人だった。久しぶりに会った彼は怒っているようで、私の言葉を聞きもせずにどこかへ向かっていく。別れてから一年と数ヶ月、彼のことを考えない日はなかったと言えるほど私は彼に好意を寄せたままだった。もう二度と会うことは無いと思っていたものだから、なんというか、素直に嬉しいと思ってしまっている。

「いたいよ」
「っ、ああ、すまん」

しばらく道を進んだ頃、ようやく足取りが緩やかになったのでずっと思っていたことを口に出せばぱっと離れていく腕。申し訳なさそうに眉を下げる表情には覚えがありすぎる。

「久しぶりやね」
「え? ああ、うん。そだね。…助けてくれてありがと。それじゃ」「いや待たんかい。行ったらあかん」

今度は痛くない強さで腕を掴まれて脚が止まる。買い物をしていたところガラの悪い連中に絡まれたのを助けてくれたのが盧笙だった。たったそれだけで、私達にはもうそれ以上何も無い。ここで何かあって良い訳ない。

「帰るから、わたし」
「…話したい。あかんか?」
ほらね、ずるい。君のその困った顔に、私が弱いこと知っているくせに。
「話すこと、なにもないよ」
「俺はあるんやけど、ええか?」
必ず確認を取る律儀なところ、変わらないね。
「………うん」
「ずっと探しとった。今でも好きなんやけど、せめて別れの原因くらいは教えてくれへんか」

真っ直ぐ、熱い視線に撃ち抜かれて思考がぴたりと止まる。それから酸素が足りなくなって、頭がくらくらした。

盧笙のことが、好きだった。それは今も私の足を引っ張るように重たい感情となって持ち合わせている。ならばなぜ別れを選んだのか? 答えは明白である。

「盧笙の足を引っ張りたくなかったんだよ」
「…は?」
「お笑い芸人として、先生として、ディビジョン代表として、頑張る盧笙の足をいつか引っ張ってしまうと思ったから。それだけだよ」
「いつかって、そんなのわからへんやん」
「うん。でも、いつかは分からなくても、いつか絶対にそうなると思ったから」

頑張り続ける盧笙の隣を歩けなくなったのはいつからだろうか。いつしか、遠いところにある背中を追うようになっていた。階段をひとつひとつ、ふたりで手を繋いで登っていた私達ではなくなっていたのだ。それに気づいてしまったから。そして、盧笙が優しいから。盧笙は絶対、どこまで遠くへ行っても私のことを待ってくれるだろうし、あまつさえ私を迎えに戻ってきてしまうから。

「引っ張ったらええやん」
「…なに、を」
「俺は完璧な人間には程遠い。やからきっと、お前の足を引っ張ってまう時があると思う。お前かてそうや。…それでええんとちゃうの?」
「な、なに言って」
「足引っ張り合って、手を引き合って行けばええやんか。…なぁ、俺、お前のことが好きや」

今でもずっと。と、彼の唇が続いた。力なく泣き出した私を見て盧笙は笑う。いつもは吊り上げられている眉と目尻を下げて、幸福だと言わんばかりの、私の大好きな顔で。それから包み込むように優しく抱きしめられる。私はそれを拒まない。

「…言えば案外簡単な話だったのかもしれへんね」
「うん?」
「いや、こっちの話。……帰ろか?」

返事を口にはせずに差し出された手を取れば上機嫌そうに盧笙の喉が笑う。繋いだ手の先に盧笙がいて、それが酷く嬉しくて、私も笑った。



*春の浴槽/Sori Sawada

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