加減を間違えれば確実に折れてしまうだろう細い腕に袖を引かれる。言いたいことはすべてわかっていた。驚かないようにゆっくりと振り返り、自分より頭一つ分は低い場所にある目線に合わせて顔を寄せれば、決まってこいつは微笑んで、それからこの世のすべてをどろどろに溶かしてしまうのではないかというくらい、甘くやわらかな声を発する。

「まさとくん」

物心がつく前から隣にいた俺となまえ。高校三年生にもなって、舌っ足らずに俺を呼ぶ癖が抜けない。俺の返事は年齢と共にどんどんぶっきらぼうに変化していくというのに、なまえは、なまえだけは変わらない。いつの日にも、いつまでも、僥倖を散らして、火にかけた砂糖に水を加えた時のような弾け方をして。

「…ん、」

ひそひそと囁くように落ちる声色がこそばゆい。「まっててもいい?」と、断られることを想像もしていないのに、必ず確認を取るのはなまえなりの気遣いだ。待っていても良いどころか、待たせているのはいつも自分の方である。ボーダーに所属していないなまえは、二十時までにボーダーから出る時のみ、俺のことを近くの喫茶店で待っている。俺がボーダーに入ってから確実に擦り減っていったひとりとひとりの時間の埋め合わせ方。打開策を考えたのはなまえの方だった。

なまえの鞄の小さなポケットに手を突っ込んで飴を取り出してやる。ぱっと表情を華やかにして「ありがとう」と言う。袋を開けるのも、ペットボトルの蓋を緩めるのも、段差の時に手を繋いでやるのも俺の特権だ。何も言わずとも飴玉を取り出して口許に運ぶ。なまえはそれを、なんの違和感も感じずに口をあけてぱくりと食べる。

俺達には、境界線がない。

「まさとくんもたべる? コーラ味あるよ」
「あー…帰りにすっかな」
「はぁい」

冷やかされるのは気に食わないし、誰にもこいつを見せたくないという気持ちも相まっていつもわざと警戒区域を通ってボーダーまで向かう。上層部の奴らに見つかったら面倒くさいことになるのは目に見えているが、やめる気がない。未だ復興作業が始まってすらいないボロボロの住宅街。ほとんど廃墟同然になってしまったそれらの上を歩いては、小さな女が笑っている。繋がれている指先は白くしなやかで、いつか消えてなくなってしまうのではと思う程の儚さを帯びている。

「こっちの道通って行けよ。早めに終わらせる。終わったら連絡するわ」
「うん。むりしないでね」
「おー」
「行ってらっしゃい」

行ってきます、と照れ臭くて言えない俺は、いつも代わりに頭をぐしゃぐしゃに撫で回す。髪が乱れるというのにも関わらず、なまえはいつも嬉しそうにする。それから控えめに手を振って、俺がボーダーの中に入って、姿が見えなくなるまで後ろ姿を見つめているのだ。数度振り返り、早く行け、とジェスチャーするもなまえはいつも見ないふりをする。ポケットの中に突っ込んでいたマスクをつけて、居心地の良い場所からクソったれ共の視線を浴びる場所へ。なまえの隣は甘ったるくて、時々胸やけしそうになるが、それに慣れてしまえば恋しくて仕方が無くなってしまう。足早に人通りを抜けて隊室まで向かった。



「ホットココアと、あとこのチーズケーキをおねがいします」

まさとくんをボーダーまで見送った後、人通りが多くて安全な道を選んで歩き近くの喫茶店に入った。いつもと同じホットココアとその時に食べたいデザートをひとつ。おしぼりで手を拭きながらぼうっと机を見つめる。宿題でもやろうかなあ、と鞄からノートを取り出して開く。すぐに運ばれてきた頼んだものの誘惑に負けてノートをすぐに閉じて口をつけた。

彼を待っている時、いつも不安に押しつぶされそうになってしまう。まさとくんを信じていないだとか、疑っているだとか、決してそういう訳ではなく。私達は、なんでもないから。
昔から私以外には荒っぽくて喧嘩っ早いまさとくんは敵をつくることも多く、周りは口を揃えて私に「関わらない方が良い」と言う。私はそれのすべてに、他でもない私の意思で首を横に振ってきた。私が選んで決めた彼の隣。それを、誰かに口うるさく言われる筋合いなどどこにもない。まさとくんは私が隣にいることに、なにも言わない。言葉を発せずとも、視線を合わせなくとも、伝えたいことが伝わる関係だった。まさとくんは自分に向けられている感情がわかる特殊な体質をしているが、私はそうではない。それでも、まさとくんの言いたいことは全部わかる。ごめんねも、ありがとうも、ぜんぶだ。だからこそ、泣きたくなるくらいしあわせだからこそ、恐ろしくなる。いつか、まさとくんが私に愛想をつかしたら。いつか、まさとくんの隣に私よりうんと素敵な人が並ぶことになったら。そうなったとき、私には引き留める権利がない。

まさとくんにとって、私はどの位置に存在しているのだろう。私にとって、まさとくんとは何なんだろう。友達? 恋人? 他人? 兄? 弟? そのどれもに、答えはない。
ただ、愛しいひと。ずうっと隣にいたいと思わせる、不思議な力を持ったひと。まさとくんの悲しいこと、苦しいこと、すべて私が肩代わりできたらよいのにと思う。そうすれば、そうしてしまえば、きっとずっと、隣にいられるのに。

「…なまえ」
「わ、まさとくん。はやいね」
「シフト変更。帰ろうぜ」

まだ半分も食べていなかったチーズケーキをフォークでぶすりと刺して、ばくりとかぶりつく。あっという間になくなってしまったケーキに慌てて温くなったココアを飲み干した。お会計を半分こにしようとするまさとくんを押し切って全額支払えば、不機嫌そうな視線が刺さる。視線を足元に落としてから、彼を再度見上げれば、ぶすくれた顔。思わず笑って、指で頬をつつく。まさとくんは拒まない。

「今日は何時に帰ってくんだっけ」
これは、私の両親のこと。
「朝方かなあ」
「ん」
短く切れた返事のあとに続く言葉は音にならない。けれどもそれに頷いて、一緒に彼の家を目指す。家来いよ、泊まって行け。明日の朝、なまえん家寄ろうぜ。かーちゃんに連絡しておけよ。そのどれもがわかるから、今はまだ、彼の隣にいても許されるでしょうか。

「さみぃな」
「ね。冬だね」
「おう」

繋いだ指はあったかいのに、吐いた息は白くって。とりとめのない会話で見ないふりをする私達を、お月様がじっとりと照らしている。待ってね、待ってね、もう少しだけ。もう少し、私もまさとくんも大人になったら。そうしたら、きっと、私達の関係性に名前がつくかもしれないし、それを飛び越えてふたりの世界に行くのかもしれないから。だからいまは、この手だけを頼りに生きることを、どうか許してね。

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