血の気が引く感覚と、ヒュ、と喉を通る息の音。それから吊り上がった恋人の目元。私と同僚の間に割って入るように足を捻じ込み、これでもかと言わんばかりに怖い顔をしている。元より力の強い盧笙くんが掴んでいる左腕が痛い。声にならない声が空気を冷やしているようだった。同僚は驚いて書類を落としてしまっている。

「…帰んで」

いつもより数段低いトーンで刺す様に呟かれた言葉に、油の足りない機械のようにぎこちなく頷いた。ぐいぐいと強く引っ張られ、彼の隣以外を歩くことを許されない。せめて同僚に謝罪を、と振り返ることすら許されなく。いつもは柔らかく手を包み込んでくれる盧笙くんの手が冷たい。私に対しては温厚な盧笙くんの怒ったところを初めて体験しており、困惑してしまって言葉のひとつも思いつかない。何から話せばよいのかも、何から聞けばいいのかも、何から正せばよいのかもわからないまま、あっという間に家についてしまう。

「いたい、よ」

玄関先、靴を脱いだ後にようやく吐き出した言葉がこれだ。音になるかどうかの瀬戸際くらいに小さく呟かれた言葉をいつも通り綺麗に掬ってくれた盧笙くんがハッとして、慌てて腕を掴む手を離してくれる。互いに無言のままソファまで向かい、定位置に座り合う。染みついた行動であるはずなのに、棘が刺さっているかのように痛い。

「腕、痛ないか…?」
「っ う、ん」

嘘をついた。彼がほっとしたように息を吐いたのを見て、バレていないことに安堵する。

「あの男、何」

絞り取られてしまいそうな問いかけだった。四肢が弾けるように痛む。数秒後、それは日焼けをした後に浴槽に使った時のようなひりひりとした痛みに変わる。盧笙くんの綺麗な瞳に映りこんでいる自分の顔はなんとも滑稽だった。レンズ越しに炎が揺らいでいる。

「仕事の…ひと、で、」
「ああ」
「最近おなじプロジェクトを任されてて、それで…その、そういうことを言われた、だけで…」

そういうこと、と言うのは恐らく盧笙くんが聞いてしまった同僚の台詞の事だった。彼氏いないんですか、今度ご飯でも行きましょうよ。遊園地でも水族館でも一緒に行かせてください。…その後、自分で言うには恥ずかしいくらいに甘い台詞。今後の業務に支障をきたすかもしれないことを一切配慮していない浅はかな言葉。明日も職場で会うものだから、返事をするのが遅れてしまって、それが良くなかったのはわかっている。わかっている、けれど。

「ろしょ、くんが……好き、なのに」
「っ、おい、なまえ」

嗚咽を漏らしてみっともなく泣きじゃくり始めた私を見て、ようやく盧笙くんの怖い顔が終わり、困った顔になる。乱雑に袖で目元を擦られて、優しくしているつもりなのだろうけれど痛い。アイシャドウできらきらした袖元を見て、ようやく呼吸ができたような気がした。

「すまん、泣かんといて…理由も聞かへん俺が悪かった。その…あれやねん、嫉妬してもうた、っちゅうか…」
「ろしょくんのわからずや…」
「ほんっっとにすまんかったて…でも、その、よかったわ…」

ぎゅうう、と抱きしめられて視界が暗くなる。すぐそばで盧笙くんの息をする音が聞こえる。ワイシャツにファンデーションがついてしまうことなんて気にも留めず、相変わらずの力加減だ。

「よかないわ。なんやねんアイツ。言えへんなら俺が言うたろか」
「…このボケ、とかいうからだめ」
「ぐっ…」
「私もちゃんと断りきれなくてごめんね。助けてくれてありがとう」
「………おん」

どこにも行かせない、と言わんばかりに抱きしめる力が少しだけ強くなる。痛いけれど、あたたかくて、痛くない。

「俺も好きや」
「なっ…。へ、へんじ、おそ」
「うっさいわ」

くく、と彼の喉が笑う。ああよかった、いつもの盧笙くんだ、と思えば自分も自然と笑顔になる。痛くて怖くてびっくりしたけれど、愛されていることを知れた今日のことは、悪い記憶にはならないらしい。

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