はいどうも〜、とお決まりの台詞を朗らかに告げて舞台袖から出てくる姿に息を呑む。周りの歓声と拍手の音にハッとして自分も同じようにした。前から四列目の左端。決して悪い席ではないが、キャパが小さい箱にしては良い席でもない。お笑い芸人白膠木簓のトークショーに、意を決して訪れていた。

彼の存在を知ったのは最近も最近のことで、オオサカディビジョンを代表するMCが発表された時だった。東京生まれ東京育ち、今も東京に住んでいる自分がオオサカの応援をするのはいかがなものかと思ったが、一目見て心奪われてしまったのだから仕方ない。大人気という事もあってなかなか取れないチケットを、友人や会社の同僚に協力までしてもらって勝ち取った。一人で遠出するのは勿論のこと、一人でなにかのイベントに行くことも初めてだったが、簓くんに会えるなら怖くない、と言い聞かせて勢いひとつでオオサカまで来てしまったのである。

テンポよく進んでいく会話に耳を傾けて、視線をこれでもかと言うほど彼に張りつけて一挙一動を脳に刻み込む。息を吸う姿も、笑う表情も、会話の間すらも、愛おしい。観客ひとりひとりに目を向けて(開いていないように見えるから視線が交わることはないんだけど)トークを進めていく簓くんは、キラキラしていて、楽しそうだった。ああ、推し、最高。生きててよかった。全生物に感激感謝。心の中で何度も拝むポーズをとりながらも挙動不審になって目立つ訳にはいかないので実際にしてしまうのをぐっと堪える。こんなに面白おかしく笑う人がラップバトルの時はバチバチに韻を踏むギャップが良すぎる。ありがとう簓くん、生きてて良かった。
と、感謝していればあっという間に終わりの時間が来てしまう。名残惜しそうな簓くんの表情と、寂しそうな観客の声。

「今日はほんまにおおきにね〜!離れるの寂しいから、また来てくれると簓さんうれしいわあ!ほなね〜」

ほなね〜〜〜(大泣き)といった歓声が沸く。周りを見れば過激派の方々は泣いているし、みんなしみじみとしながら熱っぽい視線を簓くんのいなくなったステージに向けていた。かくいう私も恐らくその一員で、スタッフに誘導されるまで席を立てないでいた。たった2時間のトークショーが、あと3年は生きられる糧になっている気がする。今日はこのままオオサカを観光して、明日の夕方の新幹線で東京に戻る予定だった。簓くんがロケで行ったところやコラボした場所などを巡る、所謂聖地巡礼をするつもりである。

「すいません、お客さん」
「はい!?」

背後から突然かけられた言葉に思わず大きな声が出る。勢いよく振り向けば入場の際に誘導していたスタッフだった。落とし物でもしてしまったのだろうか、と言葉の続きを待っていれば、手のひらを取られ、小さな紙を握らされる。「えっ、えっ」と漏れる声をほとんど無視したスタッフは「すぐ見たってくださいね」とだけ言って去っていった。ぽつんと残された私は唯々立ち尽くすばかり。他のスタッフに退場を促され、慌てて外へ出る。建物の入り口で漸く握りしめた拳をほどき、紙きれを開いた。

「ぬ、る、で、さ、さ、ら………?」

私の視界に入ってきたのは間違いなく彼のサインと11桁の数字。連絡してな(ハートマーク)。それが電話番号だと理解するまで相当な時間を要した。新手の詐欺だ、と思ったが、すぐにサインの筆跡がそれを否定する。サインの筆跡まで覚えている気持ちの悪いファンだということは置いておいて、恐る恐る11桁を携帯電話に打ち込む。なにそのあざといハートマークは。記号ひとつで人が死ぬんですよ。画面に触れる指が震えた。4コール程置いて繋がる通話。画面越しから聞こえてきたのは、聞き間違えるはずもない好きな人の声。

『はいはい〜どちらさんっと』
「あっ……あ、え、…さ、さら…く、さん………?」

息も絶え絶えである。数秒無言になり、まずい、取り繕わなければ、と息を吸ったところでネタを披露している時より数段柔らかいトーンで『どこにおる?』と聞かれ、現在位置をやっとの思いで伝える。裏口へ続く道の前にある階段まで来てほしいと言われ、通話が切れた。がくがくと震える足をどうにかこうにか前に踏み出し階段を目指す。未だ何が起こっているかわからないまま、全身の沸騰しそうな温度だけが私を埋め尽くしていた。

「あ、おったおった!こっちこっち〜!」
「っ…!っ、さ、」
「シーッ」

人差し指を口許にあてがい、にっこり笑ったかと思えば私の手を引き関係者以外立ち入り禁止の先へ。一張羅を脱ぎ、パーカーにサルエルパンツ、マスクをしている簓くん。待ってくれ、なんだこれは。とりあえず眩しすぎて直視ができない。心臓の音がうるさくて、多分あと数秒で止まるのだと思う。絶対に止まる。死因、推し。本望だ。

「ごめんなぁ!突然。用事とかなかった?」

簓くんを目の前にして用事があるやつなどいるのだろうか? いない。例えめちゃくちゃ大事な用事があったとしても簓くんの前では無になる。無だ。ぶんぶんと勢いよく首を横に振れば、パッと表情が明るくなる。音符が出そうな程上機嫌な様子を隠しもせずに、簓くんは私の手を握ったまま、どこかへ向かって歩き出す。ようやく少しだけ状況が飲み込めてきた自分はと言えば、この手の先に簓くんがいることに大パニックを起こしている。

通された先は控室のような場所で、そっと小上がりの上の畳に座らされる。座布団がふかふかしている。じゃなくて、そんなことはどうでもよくて、どうして簓くんが、どうして私を、

「オネーサン、俺のファンやろ〜」
「は、はい」
「そらそうやんな〜!ファンやからトークショー来とったんやもんな!ほんまありがとうな〜」
「いえ、そんな、こちらこそ…っ!」

簓くんのおかげで仕事ができているし、簓くんのおかげで今日も生きていると言っても過言ではない。お礼を言うのはどう考えても私の方である。私の発言がツボに入ったのかお腹を抱えて笑う簓くんは楽しそうだ。ああきっと今日が命日なんだろうな、とどこかで悟る。我が人生に一片の悔いなしである。

「マネージャーさんにお願いしとってん」
「…?」
「えらいべっぴんさんが何番の席に座ってたから、俺の連絡先渡しといてくれへん?って」
「…??」
「あっつ〜い視線、ちゃんと届いてたで!めっちゃ好みの女の子が俺の事好き好き好き〜っていう目で見とったんやもん」
「…???」
「そら簓さんもぐっときてまうわ〜っちゅうはなし!」

私のすぐ横に腰を下ろした簓くんに顔を覗きこまれて、いよいよ体のどこも動かなくなってしまう。マスクをとった彼の端正な顔で視界がいっぱいになり、簓くん以外の単語を忘れてしまった。真っ赤な顔で制止したまま動かない私の頬をつんつん、と簓くんがつつく。頬から火が出そうだ。

「なあ、俺と友達からでええから始めてみぃひん?」

ああ、本当に、死んでしまうのだろう。もしもこれが夢ならば、一生覚めないでほしいと切に願った。

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