簓さんのラップバトルを初めて見た。お付き合いをしてもう二年程が経とうとしているのに。マイクのスイッチが切られて禍々しいスピーカーが姿を消す。目の前には簓さんの大きな背中、見慣れたスーツ。地面に転がる知らない男の人達。振り返って安心したような柔らかい笑みを与えてくれた簓さんに、私が第一に抱いた感情は恐怖だった。
私に向けられるものとは全く違う表情、声色、何もかも。差し出された手には誰のものかも分からない血が少しだけついていて、その手を取る事を無意識に拒んでしまう。簓さんの困ったような、ショックを受けたような表情を見てようやく我に返った。まずい、折角私を庇ってくれたというのに。
「ごめんなぁ、こわかったよな」
「す、すいません」
「んーん、謝らんといて? そもそも俺が巻き込んでるんやし。ほな、かえろか?」
私が自分で立つのを待ってから簓さんはゆっくりと歩き出した。屍とも言える男の人達の上を何の気なしに進んでいく。すれ違った警察の人に「あとはよろしゅう」と言っているのを聞いて、ますます彼のことがわからなくなる。ラップバトルをするのは知っている。その昔碧棺左馬刻と組んでいたことも、今はオオサカを代表してテリトリーバトルに臨むことも。知ってはいたけれど、まさかこんなに過激なものだとは思いもしなかった。そもそも簓さんは私がそういった事に興味を持つのを極端に嫌がっていた。だから私も、自然とその話題は避けてきた。
「な、なまえちゃん。こっち向いてぇや」
喧嘩した後のようなしょんぼりした声色の方へ目をやれば、申し訳なさそうに眉を寄せた簓さんがいた。そんな顔をさせたい訳じゃない。守ってくれたお礼もまだ言えていないのに、ああ、なにやってるんだろう。
「ささらさん」
「うん?」
「ごめんなさい…。守ってくれてありがとう」
そう言えばゆるゆると頭を撫でられる。自分の情けなさと先程の事態の飲み込めなさに混乱して、簓さんの指先が優しくて泣き出してしまった。ぐずぐずと洟を鳴らしていれば、まるで壊れ物を扱うかのような優しい動作でゆっくりと抱きしめられる。嗅ぎなれた香水と煙草のにおい。ああ、ちゃんと私の知っている簓さんだ。
「泣かんといてぇや、な?」
「うっ…だっ、て、ささらさん、知らない人みたいで…っ」
「うんうん。びっくりしたなぁ。だーいじょうぶ、ちゃあんとなまえちゃんの簓さんやで〜」
ぽんぽんと一定のリズムで私の背中を叩きながらまるで幼子をあやす様に声をかけてくれる簓さんに安心して私の涙は止まらない。簓さんがラップバトルのことを頑なに私に話さない理由がわかった気がする。その線引きの意図は、あまりにも優しい。
頭を抑えられて簓さんのスーツが涙で濡れていく。ファンデーションとアイメイクが付いてしまう、と胸板を押し返すもびくりともしない。
「泣き止むまでこうさせてぇや。そんな可愛い泣き顔、他のやつらに見せられへんわ」
愛しいとでも言わんばかりに鼓膜に直接声が入ってくる。みるみるうちに体温を引き上げたのがバレたのか、簓さんが優しく笑う。それからいつものようにしょうもないギャグを言うものだから、彼に釣られて笑った。しょうもないって言うなや、おもろいやんけ! いつも通りの台詞が聞こえて、なんだかそれに酷く安堵した。
「ん、泣き止んだん?ほな、抱っこしたろか?」
「ちゃんと歩けます!」
「はっはっは。そりゃええわ!」
ぎゅう、といつもより強めに手が繋がれる。すいすいと進んでいく簓さんに置いていかれないように足を進めながら、ぎゅっと自分も握り返してみた。怖がらせないように避けてきてくれたこと。傷一つ付くこともなく守ってくれたこと。安心するように抱きしめてくれたこと。泣き止むまで待っていてくれたこと。いつも笑わせてくれること。全部、全部、大好き。と、この手から、伝わるように。
「なまえちゃん、ほんまずるい子やね」
「へ?」
「いや。ずっとそのままでおってな。俺もだ〜いすきやで」
ちゅ、と軽く音を立てて一瞬でくっついて離れた唇同士に腰を抜かしそうになる。ぐい、と簓さんに腕を引かれて尻もちをつかずに済んだ。まるで悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべる彼に、適わないなあと今日も思うのだ。
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