彼にその気がないことは知っていた。それでも彼のことが好きだった。たったそれだけの話だというのに、周りの制止の声はやまない。やめたほうがいい。相手にされていない。仮にどうにかなれたとしてもロクな結末にはならない。そんなの私が一番わかっている。それでも彼のことが好きだった。たったそれだけだ。

一つ下の可愛くて格好良い後輩は、いつしか自分より年上に見えるくらい大人っぽくなっていた。煙草を何本も吸い、大っぴらには言えないような職に就き、遠くへ行ってしまった。もう隣にはいないんだなと街中の大きなデジタルサイネージを見て思うのはもう何回目だろうか。背伸びをして私の手を引いてくれた彼は、もう、どこにも。

ヨコハマの街は物騒だ。夜に一人で人通りの少ない場所を歩くのは良くない。女なら尚更そうだろう。けれど私は、仕事が遅くに終わった日に歩いて帰路に着くことをどうしてもやめられなかった。遠回りをして明かりのない方を選んで歩く。物騒な声が聞こえてくるのにも、軽々しく声を掛けられるのにもすっかり慣れてしまっていた。力では適わないし、ヒプノシスマイクは持ち合わせていないが相手にしないことはできる。余程面倒な輩に捕まらない限りは大抵家に帰れるし、捕まってしまった時は防犯ブザーを鳴らせば良いだけだ。物騒なことがわかっているだけあって、政府の手もそこそこに行き届いている。よくお世話になる警察官さんは彼と同じチームの人間だ。またですか、と何度厭味ったらしく言われても、私はこれをやめることができない。彼にもう一度会えないかと全身の細胞が意思を持ってしまっている。副流煙を吸わせないようにと、少し離れて煙草を吸う姿がまるで昨日の出来事かの様に目に浮かぶ。もう1年、会っていない。画面越しに見ることはあっても、顔を合わせることはない。拒絶された訳でもなく、そうすることが当たり前かの様に彼は私の前から姿を消した。ゆっくりと、煙の様に。日ごと色を変えずに腐っていってしまったのだ。

交際をしていたのかと問われればイエスともノーとも言い難い。直接付き合おうなんて言う柄ではないだろうし、好きだと言われたことも極僅かだ。彼の横を歩く女の人は沢山いたけれど、彼の事務所で帰りを待つ女は私だけだった。彼の隣をキープできるのは自分だけだったはずだが、それすら自惚れだったのかもしれないと思えてくる。他の誰の意見も耳に入れず、彼の傍にいた。寄り添わせてね、と図々しくて言葉にはできなかったがそう思っていたし、彼は私がそう思っていることを知っていて黙認していた。幾度も夜を重ね、一緒に朝を迎えた。生活の一部になってしまった彼の存在は、1年経った今でも抜け落ちることはない。火を切らした時にいつでも差し出せるように鞄に眠っているライターが、彼が好んでいた香水の匂いが、彼が好きだと知ってからずっと短く切り揃えている髪の毛が。彼からもらったもので私はできている。彼の隣じゃないと、息をすることすらままならない。

明らかに柄が悪いです、という見た目の男に声をかけられる。無視をしてもひっついてきて、肩を掴まれた。釣り上げられた口角が気持ち悪い。防犯ブザーを鳴らしてしまおう、と手にかけた時に何度も脳内でリピートされている、耳に良く馴染んだ声が聞こえた。

「…オイ、テメェ。誰の許可とってこいつに触ってんだ、アァ?」
「ひっ、左馬刻…!?」
「様をつけろクソが」

普通の生活をしていたら聞くことはないであろう音が声をかけてきた男から鳴り響いた。吹き飛んだ先で怯えた顔をして、一目散に逃げ出す姿は情けない。何が起こっているかはわかるのに、体が動かない。最後に会った日から1日たりとも考えることを欠かせなかった彼が目の前にいる。真っ白な髪、透き通るように綺麗な肌、それに良く映える真っ赤な目。バチン。音が鳴った気がした。視線がぶつかって、目が離せなくなる。みるみるうちに目に涙が溜まり、視界がぼやける。彼の舌打ちの音を皮切りに体の自由がきくようになって、真っ先に視線を下へと逸らした。一歩ずつ近づいてくる音に、震えあがるみっともない体。じくじくと全身が痛む。誰より会いたくて仕方なかったはずなのに。

「おい、」
返事ができない。喉が張り付いてしまって、ヒュ、と息を吸う音だけが2人の間に落ちる。
「泣いてんじゃねえよ。銃兎に聞いてんぞ。ずっと探してたんだってなあ?」
「………う、ん」
「俺様じゃなくたっていいだろうが。お前には似合わねえ場所にいるのわかってんだろ」
「…でも、」
「馬鹿じゃねぇんだ、わかるよな」

まるで子供を窘めるような優しい声色。うん、わかるよ。わかっていたけれど、駄目だったんだよ、左馬刻。

「それでも……」
「こっち向け、なまえ」

視線を彼に向ける前に彼の手が顎に添えられ無理やり合わせられる。至近距離にある愛しい人の表情は、思い詰めている様だった。困らせてごめんね。心配かけてごめんね。でも、1年越しだったとしても、今日ここに来てくれたことが私は嬉しい。一生放っておくことだってできたのに、そうしないことを選んでくれたのが嬉しいんだよ。左馬刻は優しい。その優しさに付け込んでいる私は、優しくないね。

「守ってやれるとは限んねぇ。失うワケにはいかねぇだろ、これ以上。お前はこっちに来るべきじゃない」
「わたし、左馬刻の隣じゃないと、息ができないの」
「ハッ! 生半可な覚悟で言ってんならこれが最後だぞ。言っとくが、テメェ以外にも女はいんだわ」
「うん、平気だよ。左馬刻の隣は、私だけだと思う」
「チッ…。おい、いいんだな?」
「うん。左馬刻、連れてって。もう離さないで」
「勝手にしがみついてろ。待ってはやらねえ。………帰んぞ」

鞄をひったくられ、乱雑に手を繋がれる。ねえ左馬刻。私知っていたよ。プレゼントしたピアスをずっと付けてくれていること。指輪も、そう。私があなたを欠落させることができなかったように、左馬刻もそうだったんでしょう? でもそう言えばきっと機嫌を損ねてしまうから、言わないでおいてあげるね。私の方が1つお姉さんだから。ありがとう。待っていてくれて。ありがとう。迎えに来てくれて。左馬刻なりに、私のことを愛してくれている結果なんだよね。でも私、往生際悪いから。知っていたでしょう? 知っているから、折れてくれたんだね。空白を埋める様に、息をしよう。もう二度と、あなたの隣から離れないから。

「さまとき、」
「あ?」
「ありがとう。だいすき」
「……おう」

ごめんな、と言う声は私の口内に溶けていった。謝るのは私の方だよ。優しさに甘えてごめんね。

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