汗で張り付いた前髪に気づかないふりをした。いつもの様にワックスできっちりセットした髪型でもなければ、洋服だって雰囲気が随分と違う。知り合いには会わない。そうすることで良くなる一日がある。ふらふらと街を歩きながら様々なら未来を見る。多種多様の分岐を数多く見るのは非常に疲れる。けれど、仕方のないことだ。だって、嫌だと言っても聞いてもらえないような世界だ。そもそも拒否することを許されていない。疲れた顔なんてした日には心配を買ってしまう。みんなは俺にやさしい。それは俺のことをやさしいと思っているからだろう。全部演技でした、と仮に伝えたとしよう。それでもきっと、それが真実ならばと飲み込んでくれる友人が思い浮かぶ。困ったもんだなあ。みんな俺のことを信じ込んじゃって。最善のために俺がいつまでも動く保証なんて、この世界のどこを探しても見つからないのに。いつまで駒のひとつでいればよいのか、わからない。反逆を起こすほど無知でも幼稚でもない。よくできた世界だ。

「あら、悠一?」
「えっ」

上擦った、素っ頓狂な声が出た。まずい、と思った時にはもう遅かった。ゆっくり振り返る、よりも先に自分の目の前を覆ったのは綺麗な女性だった。女性と言うよりは、少女という言葉が似合っている。以前顔を合わせた時より幾分も伸びた黒髪が綺麗だ。
まるで小さな星をいくつも閉じ込めたかのような瞳に釘付けになる。間抜けな顔して見つめていれば、白い手が口を覆い、その裏で口角が上がる。くすくす、という擬音がよく似合う笑い方をしたあと、鈴の鳴るように繊細な声色で「久しぶり」と微笑む。じわり、全身が熱を帯びる。こうなってしまえば、もう何も見えなくなってしまう。先程まで脳内を埋め尽くしていた未来が全て塗りつぶされていく。形容しがたい感情に襲われる。目の前が真っ白だ。

「あついねえ、ちょっと話そうよ」
「うん」
「ジェラート食べよ!」

当たり前かの様に手を引かれ、するりと指が絡まる。一瞬で噴き出した手汗が情けない。彼女はそれに何を言うわけでもなく、美味しいジェラートの店を探していた。彼女の手はサラサラだ。夏らしい露出の多い服装に眩暈がする。

気づかれるとは思わなかった。それが正直な感想だ。そもそも誰にも気づかれないためにいつもと違う格好をしている。それなのにも関わらず、三門市の中心部とも言える人通りの多いこの場所で、彼女は後ろ姿だけで俺を特定したのだ。素直に嬉しくて、恥ずかしい。彼女にだけは気づかれても良いとすら思えた。

俺は、様々な理由で彼女に惚れていた。


「んー…」
「あの店は? なまえが好きそうだよ」
「帰ろう!」

は? と口にできたかどうかすら怪しい。突然強い力で引っ張られて体が傾く。転ばないようにと自己防衛本能から足が動いていく。全速力で駆けていく少年少女に視線が集まる。ああ、知り合いに見つかったらどうするんだ。なんてチープな考えはすぐに吹き飛ぶ。半歩前で俺を引っ張る彼女の笑顔が眩しいからだ。帰ろうなんて、どこへ。



着いた先は彼女の家だった。もっとわかりやすく言えば、俺と彼女が以前一緒に暮らしていた家だ。高校生活をまるまる、俺はこことボーダーで過ごしていた。

「もう一年半くらい経つんだね」

玄関の先に足を踏み入れる。ひとりで来ることはこの先一生なかっただろう。連れられてきて、初めて入れる場所。自分の中では既に神聖な場所の様にすら思えていた。
記憶の中と実際の光景が寸分違わず一緒なものだから、思わず腰を抜かしてしまいそうになる。喉元まで出かかった声をなんとか飲み込んで、椅子に腰掛けた。カラン、と氷の音が耳を掠める。「今日もおつかれさま」と出されたインスタントでつくる緑茶に、覚えがありすぎる。「ありがとう、ただいま」と自然に口から言葉が零れていき、グラスに口をつけて一気にそれを飲み干した。机にグラスを置いて、数秒後にもう一度緑茶が注がれる。今度はグラス半分まで。違う色した同じ柄のグラスに同じように緑茶を注いでから、ガラスウォータージャグを冷蔵庫にしまい、俺の向かい側に座る。落として割ったら危ないからプラスチックにしようよと言ったのに、どうしてもガラスが良いと押し通されたそれがまだ割れていないことがこんなに嬉しいと思うなんて知らなかった。ゆっくりグラスに口をつけて、飲んだか飲んでないんだかいまいちわからないくらい水位を下げてからグラスがテーブルへ置かれる。壁に飾ってある写真も、10分早めてある時計も、格好付けて煙草を吸ってみせた時に泣かれて慌てて落としてしまった際に焦げたカーペットも、ふたりで悩んで揃えた食器類も、塗装が剥がれかけているフライパンも、鼻孔を擽る柔らかな匂いも、全て。一年と8ヶ月前から、なにひとつ。

「………言っていいのか、わからないよ」

何を、と問うのは余りに野暮で滑稽だ。困ったように眉を下げて、それでも笑顔をつくる愛しい彼女。そうやって笑う顔、知っているなあ。

「言ってよ」
「本当にしてくれるの?」
「なまえが、いいなら」
「ゆういちが、まだ、神様になろうとしてるなら……やだ」

ゴクリ。唾を飲み込む音が聞こえた。俺のものなのか、彼女のものなのかはわからない。伏せられた視線の先はテーブルを見つめている。上から覗く睫毛が好きだったよ。

「俺はヒーローにはなれないから」
「ならなくてもいいじゃない」
「駄目なんだよ、みんな困っちゃうでしょ」
「わたしは困らないよ」「そりゃ、なまえのは見えないからね」

俺は彼女の未来が見えない。それが何故かはわからないが、わかりたくもないので原因は知らない。調べるために彼女をボーダーに近づける方が嫌だった。
友人や、後輩の様に。ヒーローにはなれないと理解している。それに悔しさや焦りを感じたことはない。それでも、俺は、俺は―――

「帰ってきてよ、悠一」
「ん、」
「神様になれなくてもいいんだよ。私が証明してあげる。だって悠一も、私も、同じひとりの人間だもの。私の前だけでは、神様じゃなくていいの」

視界が滲む。汗なんだか、涙なんだかわからない。どっちでもいいような気すらした。そうか、俺は彼女の前だけでは、神様にならなくても良いのか。

「ただいま、なまえ」
「うん。おかえり、悠一」

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