「恋人と日帰りの旅行にすら行けないのになにが人生だよ」

 やさぐれた少年がこぼした言葉は床に落ちて水たまりをつくっていく。泥水に見えて聖水のそれは触れるとまあるく弾けて虹色にひかるのだ。壁に背を凭れ膝を立てて座る姿は年相応の、寸分違わず少年と呼べる拗ね方をしているのに、題材だけが可愛くない。
 どうしてボーダーは、悠一がこの世界を救うと信じきっているのだろう。

「おやすみはもらえないの?」

 ことこと。鍋が立てる音に釣られてふらふらやってきた悠一に味見と称したつまみ食いをさせてやれば嬉しそうに笑った。我ながら酷い質問をしたと思ったがどうやら悠一は気に留めていないらしい。ボーダーは一応日本国にあるので、未成年を戦争に駆り出すくせに労働基準法をなあなあに守っている。週休二日制とまではいかないけれど未成年に無理をさせることは少ないし、トリオン体の回復のためにも休養は必須だ。好き好んでか思惑があってか日常の殆どを生身で過ごさない悠一は、この部屋だけでは無防備な姿で転がっている。おやすみはもらえないの、なんてしらばっくれた酷い言葉。彼が休日を休日として使えないことくらいわかっているのに、皮肉だって言ってしまいたくなるくらい、囚われているから。
 少し前に言っていた「視力がなくなっても未来が視えるのかな」という台詞がじわじわと、なぜか私の首を絞める。悠一のサイドエフェクトは"視える"ものだから、確かに失明してしまえば意味を為さないだろう。冗談に本気を27%だけ混ぜた言葉は紛れもない本質で、それはやけに現実味を帯びていた。

「一日だけでいいから、なまえと一緒にこの部屋で引きこもりたい」

 うそよ、と唇が言葉をなぞるけれど、それは音を鳴らさない。代わりに彼を包み込むのは私がつくる嘘。「そうだね」「そうなれたらいいのにね」「ボーダーに頼んでみようよ」「私はいつでも歓迎だよ」これら全て、なにひとつ、彼には響かない。そうすることが不幸へ一直線であると知っているから。私がボーダー隊員になるだけで解決する話なのに悠一は頑なにあの黒い扉を私にくぐらせることを拒んでいる。
 本当に聡明で、本当に愛おしい。

「私がボーダーに行ってお部屋をひとつ借りたらいいんじゃない? あの建物の中なら頑丈そうだし」
「は? 何言ってるの。冗談でもそんなこと言うなよ。ダメに決まってる」
「これは本気だよ」
「尚の事有り得ない、やめて、なんでそういうこと言うの? なまえはこの部屋でおれを待っててよ」
「もちろんそのつもりだけど、だって、悠一が言うから」
「おれはこの部屋でって言った」
「非現実的なんだもん」
「わかってても言うなよ」

 大きな大きな溜息が悠一からこぼれていって、シアワセが逃げたら困るから一生懸命吸い込んだ。悠一のしあわせは、悠一が持っているべきなのに、どうしてこの部屋に落としていくかなあ。

「ゆういちって私のこと好きなの?」
「はあ? あのさ、なまえ、おれだって怒るときは怒るよ」
「悠一にとって私は都合の良い"普通"の女の子なのかなって思うときがあるよ。私はボーダーのことはよくわからないし、未来とか、サイドエフェクトとか、正直実感沸かないし。悠一と私が一緒にいる未来って、視える? ちゃんとしあわせそうに笑ってる? なんでもいいの中のひとつじゃ嫌だよ。悠一にとっての唯一をちょうだいよ」

 彼に対して不満なんてひとつもない。けれど、偶にこうやってお水をかけてあげないと、いくら太陽を浴びたって枯れちゃうから。この言葉を吸って、いつか大きな花が咲く。それは私のおかげじゃなくて、彼を照らす様々な光のせい。だから私は、これでいい。養分になれるのなら怒らせたって別に良かった。

「なまえじゃないとだめなんだよ、わかるでしょ、わかるでしょ……」
「うん」
「おれに未来視がなくなったら、それって本当におれなんだろうかって思うんだよ。この世界に、少なくとも今いる居場所には必要とされないんじゃないかって、本気で思う。でも、なまえは、なまえだけはおれを見捨てたりしないんだよ。そうだろ」
「うん。私は悠一のことが好きだから」
「おれがおれでいられる理由なんだよ、頼むから奪わないでよ……。ねえなまえ、お願いだ。好きって言って」
「好きよ、悠一。この世の何より愛おしいよ。私の全部、過去も未来も、悠一にあげるよ。未来が視えなくたっていいよ。だってわたしたち、しあわせになることしか許されていないもの」

 勢いよく私を抱きしめた悠一が、肩に顔をうずめてわんわんと泣いている。ボーダーはいい加減、彼の弱いところに気が付いた方が良いと思う。悠一だって、他の誰とも変わらない、じゅうきゅうさいのおとこのこ。守るより守られる方がうんと似合う、ちいさなこども。真っ黒な扉はそれに気が付いていないのか、見て見ぬふりをしているのかわからないが、どっちにしたって最低だ。
 悠一が悠一でいられる場所がこの部屋だけだって言うのなら、私はもう、それだけで死んでもいいほど幸福だ。彼を彼と正しく認識する人は、きっと、私以外全員亡くなってしまっている。

「泣き止んだらごはん食べようね」
「……風呂も一緒がいい」
「はいはい、仰せのままに」

 背中を掴む手に力が込められたので笑って抱きしめかえしてやれば、ようやく安堵の息が首にかかる。さっきは酷いこと言ってごめんねって、明日の朝には言えるかなあ。

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