「ただい……え」

 終電、帰宅、二十四時過ぎ。玄関のドアを開いた先に見知った靴がばらばらに投げ出されていて驚いた。きちんと鍵を開けて入ってきたし、家の鍵は私が今持っているものと、東京にある実家に置いてあるものの二つだけ。鞄の中のスマートフォンをちらりと確認してみても新しい通知は届いていない。十中八九想い人の靴であることは間違いないので恐怖に襲われることはなけれど、疑問は募る。どうやって入ったんだろう。というか、仕事。昼間のニュースでは東京にいる様子が映し出されていたし、確かにあれは生放送だったはず。

「啓悟?」

 リビングのドアを開けてみても、物音のひとつさえしない。台所が弄られた様子も、洗面所を使用した形跡もない。けれどスリッパが一組なくなっている。電気をつけて、ぺたぺたと裸足で寝室まで急げば、そこにはシングルサイズのベッドで窮屈そうに身を丸めて眠る恋人がいた。
 清々しい顔をしている。すぅすぅとほんの小さく寝息を奏でて、ぐっすり夢の中に落ちているようだった。そっと近づいて至近距離から顔を覗き込んでも起きそうになくて、珍しいな、とぽつり。顔を見たらなんだか愛おしくなってしまって、聞きたいことも言いたいことも、感情全てがすっと穏やかになっていく。ああ、そうだ。この人の好きなものをいつだって用意できるように常備してあるんだ。と、手洗いうがいをしてから冷凍庫を開けて食材を取り出した。出来上がる頃には起きるだろうか。こんな夜中に食べないと言われるだろうか。どれでもいいから、この愛を消化したくて。

 電子レンジの音でも、食材が煮える音でも起きてこない。作り終わったご飯を置いて寝室まで戻り、床に膝をついて顔をじっと見つめる。職業柄、というか個性柄、音に敏感な人なのに。よっぽど疲れているのだろうか。連絡はろくに取らないし、会うのだってもう随分久しぶりな気がする。プロヒーローというお仕事の重圧は私にはわからないけれど、想像だけでぞっとするほど大変だ。せめてこの家の中では全部忘れて、ただの啓悟であってほしい。この世のしがらみ全部まとめて食べてあげることはできないけれど、手狭な1LDKの中でくらい、めいっぱいの幸福で満たしていたい。
 ここにはあなたと私しかいないから。

 ――ピピピピピ!

「はい、お疲れ様です、いんや大丈夫ですよ。え? ああ、はい、オッケーです。確認しておきますね」

 けたたましい音を立てて鳴り響いたのは彼の仕事用携帯電話。すぐに電話をとって、つい数秒前までぐっすり眠っていたことなんてなかったみたいに仕事の話を繰り広げていく。呆気にとられているのは私の方で、啓悟は視線だけこちらに寄越しては優しく微笑んでいた。ぼけっと電話を待つこと数分。ちょいちょいと啓悟の手が私を呼ぶので身を寄せれば、髪の毛を撫でられて、手持ち無沙汰になっていた指が遊んでいる。

「はーい、失礼します」
「……終わった?」
「うん、終わった。おかえりい、寝とったわ」
「知ってるよ。ごはん食べる?」
「えー、いい匂いすると思ってた。つくってくれたん? ありがと」
「どういたしまして」

 ぽい、と携帯電話を投げ出して後ろからぎゅうぎゅうと抱きしめられ、されるがままにしていれば首筋にぐりぐりと頭を押し付けられる。あまえんぼの気分なのかな、と思いながら回されている腕をぎゅっと掴んで目を閉じた。職業柄、年がら年中連絡が来るのは仕方ないことなんだろうけれど。啓悟にだってお休みくらいあって良いのに、こんなに毎日頑張っているのに、プロヒーローって言葉の華々しさとは裏腹に、かなりのブラックだ。

「けいご、食べないの? 冷めちゃうよ」
「あっためなおしてよ、今は充電させて」
「わかった」
「……なんで来たんか聞かんの?」
「うん。それより明日の仕事が大丈夫なのか気になってる。こっちでならいいけど、東京なら新幹線までに起きなきゃでしょ」
「めっちゃ冷たか……」
「うそ、そんなことないよ。啓悟のことが好きって意味だよ」
「わからん、伝わらん」
「……あまえんぼ啓悟くんは顔洗ってきてください」

 ぴえん、と泣き真似をする啓悟をべりっと引き剥がして洗面所まで引っ張った。何よりまずご飯を食べたほうが良いし、電話の雰囲気からいってきっと明日も仕事なんだろう。私が彼にしてあげられることは、彼が世界にしていることに比べれば、本当にちっぽけなことだけど。それでもあなたのその肺を、優しさで満たす手伝いがしたい。

「なあ俺の化粧水どこ〜」
「あ、ごめん。取りやすいように場所移したんだった、こっちだよ」
「全然来んのに取りやすい場所に移したと?」
「うん。いつ来ても快適がいいじゃない」
「連絡の一つも寄越さんのに?」
「…………啓悟、何か嫌なことあった? 大丈夫、私はいなくならないよ」

 同じ方向を向いているから彼の表情が見えなくて、それがもどかしい。

「この部屋でいつでも啓悟を待ってる」
「……ありがとぉ」
「うん。はい、化粧水。ごはんよそっちゃうから早くね」
「も〜〜……俺のこと好きすぎん?」
「今更だなあ」

 ふたりの笑い声が重なって、弾ける。こうして素直に甘えてくれることが嬉しくてにやける頬を下げるのに必死だ。がしがしと頭をかいて食卓へ腰掛けた啓悟の、きらきらの視線が料理に向けられていて、結局破顔してしまうのだからどうしようもない。啓悟のことが好きすぎるなんて、本当にそれこそ、今更の話。

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