家を出る前に姿見鏡の前でおかしなところがないかを確認する。いつ見てもパッとしない服装と顔だけれど、常識の範囲から逸脱しているわけではないのでオッケーである。自分に自信がないのもそうだけれど、彼の隣を歩くと決まっている日はより一層目立たない服を選んでしまう。自分は無害ですよって、彼になんの影響も与えていませんよって、誰に問い詰められたわけでもないのに誇示したくてたまらなくなるのだ。もちろんこれを言えば彼は怒るだろうし、薄々気づいてもいると思う。それでも私を選んで、隣に置いてくれる彼に、せめて迷惑をかけないようにと生きることで精一杯だ。

 待ち合わせ場所に着いたのは示し合わせた時間の十五分も前なのに、どうしてか彼はいつも既にそこにいる。十五分以上早く着くと早く来るなと怒られてしまうので、今日も待たせてしまったと申し訳なくなった。柱に寄りかかってスマホをいじっている、どこにでもいる人のポーズなのに、世界でいちばん格好良くて、様になっていて、周りの視線を集めている。オフのダイナマだ、なんてひそひそ声が聞こえてきて、そうだよ、って心で返事をしてから一歩踏み出した。私が声をかける前に必ず気づいてくれるのは、愛だからなんでしょうか。そうだと嬉しいな。

「おう」
「ごめんね、お待たせしました」
「待ってねぇ」

 冬があんまり得意じゃない勝己くんの首元にはブランド物でもなんでもないマフラーが大切そうに巻かれていて、もう三年も前にプレゼントしたものなのに、大事に使ってくれていて嬉しいやら、申し訳ないやら。有名ブランドが並ぶ通りを歩いている間、ウィンドウに映ったふたりは不釣り合いで目を逸らすように彼の背中を見つめた。何もかもが違うあなたとわたし。あなたが選んでくれたという事実だけで成立している関係。愛の重さも大きさも、きれいな形も感情も、きっと私より多く強く持っている人がいる。それくらい勝己くんはすごい人。手が届かない場所にいるのに、いつだって私の手を引いて、ここにいると証明してくれる人。
 どうして私なんだろう、なんて何億回も考えたことを拭いきれるわけじゃないけれど、勝己くんに失礼になってしまわないように、私は私で、私のことも大事にしたいと思っている。だって他でもない、あなたが大事にしてくれているわたしだから。

「ンー……」
「今日はどこ行くの?」
「あー」

 突然ぴたりと立ち止まった勝己くんに合わせて自分の足も止まる。ぴかぴかに拭かれたガラスに映るふたりを見ている勝己くんに首を傾げた。このお店、勝己くんが好きなブランドではないはずだけれど、新しい鞄や靴を買うのかな。

「行くとこ変更していいか」
「うん? うん」
「ン」

 元々どこに行くとも言っていなかったけれど、彼の中で予定変更が行われたらしい。私は常に勝己くんが必要としてくれるのならばどこでも、というスタンスなので構わないけれど計画的な彼にしては珍しい。さっきまで見ていたお店を通り過ぎ、有名な百貨店に入ったかと思えば地下へと降りていく。フロアに足を踏み入れた瞬間、ふわっと花の匂いがして、まさかこの匂いを勝己くんと共有する日がくるとは思わなかった。
 化粧品売り場には平日の昼間でもそこそこの人がいた。様々なブランドが大きく名を連ねた看板と目立つディスプレイで存在を主張している空間は、他のどこでも味わうことはできないものだよなあ、なんてぽつぽつ思いながら勝己くんの後ろを着いていく。事務所の人へお誕生日プレゼントでも買うのだろうか。女性の来賓でもあるのだろうか。勝己くんってどういうブランドが似合う女の人が好きなんだろう。外資系の強そうなブランドかな。真っ赤なリップが似合う人かな。なんとなくそんな気がする。

「お前が好きなんあれであってるか」
「うん。……うん? わたし?」
「他に誰がいる」
「え、や、うん、そうだね? うん、合ってる、けど」
「行くぞ」

 そう行って踏み入ったのは私が好きな、シンプルなロゴがヘルシーでかわいい、どちらかというと派手とも強そうとも言えないブランドのお店だ。店員さんがみんな、同じニコニコの笑顔で出迎えてくれる。こんにちは、とかけられた声に返すのが精一杯な私と違って、勝己くんは興味深そうに店内を見回っていた。勝己くん、と声をかけようとしたところで彼が空いているカウンターの椅子を引く。座れ、と視線で促されて体が自然と従った。

「本日は何かお探しでしょうか」
「え、えっと」
「くち。あと目も」
「かつきくん?」
「あんま肌強くねえからそこんとこ頼むわ。あと派手すぎんのは似合わねえから却下で」
「かしこまりました」

 いやなにもかしこまってないんですけど!? と言わんばかりの顔で目を見開いている私と鏡越しに目が合った。勝己くんは隣のカウンターから椅子を引っ張ってきて、ふてぶてしく頬杖をついて座っている。店員さんが三人、私をぐるりと取り囲んで緊張する。なんだか店外がざわついているのは気のせいだと思いたい。
 あれよあれよという間に前髪がクリップで留められてコットンにクレンジングが含まれていくのを呆然と見守っていた。

「あー、ちょっと待て。こいつベースメイク気合入ってんだよ、あんま落とさねえでできるか?」
「それでしたら、お求めの口元と目元のポイントメイクだけ落とさせて頂きますね」
「悪ぃ、助かる」
「仕上げのご希望やイメージはございますか?」
「あ、あんまり目立たない感じの……」
「背筋が伸びるヤツ」
「え?」

 私より勝己くんの言葉を理解するのがずっと上手な店員さんが、また笑って「かしこまりました」と返事をしている。私を置いて選ばれていく化粧品と、施されていくメイク。勝己くんと店員さんのやり取りはスムーズで、どことなく楽しげだ。ていうか、勝己くん、私がベースメイクに気合を入れていたことを知っていたのか、と恥ずかしくなる。肌が弱いなりに、派手を選ばない代わりに、肌の見え方や綺麗さにはこだわっているつもりだったが、まさか知られているとは思わなかった。……よく見ている。
 気付けば目元のメイクが終わっている。太陽みたいに柔らかいオレンジ色が、控えめなラメと一緒に煌めいていて、とっても可愛い。勝己くんの色だ、と無意識に指が伸びていくのをそっと彼に制される。私の一重を愛おしむように、勝己くんのごつごつとした太い指が一瞬だけ瞼をなぞった。

「リップはこの中からお選びいただけると合うと思うのですが、お気に召すものはございますか?」

 そう言って差し出された六本のリップは既に店員さんの腕にスウォッチされていた。これも勝己くんが選ぶのかと思ってちらりと彼を見るが、どうやらこれは私が選ぶらしい。いつも主張ができるだけ少ないようなメイクを選んでしているから、こういった濃い色を選ぶのは新鮮だ。アイシャドウに引っ張られてなのか、鏡の中の自分が自分ではないみたいだからなのか、私が選んだのはオレンジがかった、勝己くんみたいな色だった。

「ッシ、ここまででいいっす。それは自分で塗らせるんで」
「かしこまりました。本日お使いいただいた中で宜しければ何かお買い求めになりますか?」
「使ったの全部買うわ」
「え!?」
「ありがとうございます!」

 私の手の中に私が選んだリップを持たせて、店員さんが準備のために一度下がっていく。え、え、と状況を飲み込めずにあわあわする私を置いて勝己くんは近くにいた店員さんにクレジットカードをぽいと渡していた。それからこちらに戻ってきて、そっとリップを指差して、言う。

「それ、塗んねえの」
「へ、い、いま?」
「今」
「ぬり、ます」
「おう」

 傍らに置いてあったブラシチップを手にとって、恐る恐るサンプル品のリップを唇にのせる。いつもどうやって塗っていたのかわからなくなってしまうくらい混乱している私を見兼ねた勝己くんが、ふ、と小さく笑ってブラシチップを奪い取っていく。
 そうっとなぞられる唇と、真剣な眼差し。彼によって、彼の色に、彩られていく。全身から火が吹き出てしまいそうなほど熱が上昇する。震えた唇に気づいているはずなのに、勝己くんは何も言わなかった。

「ん、いい」
「ありがと、う」
「可愛い」
「ッ……!?」

 そうっと、私にだけ聞こえる声量で囁かれた言葉に、言語を喪失してしまう。準備が済んだ店員さんが戻ってきて、何事もなかったかのように勝己くんが会計の手続きを進めていく。とってもお似合いです、と違う店員さんに話しかけられて、はくはくと息をこぼしながら、お礼を言うので必死だ。

「ありがとうございました、またどうぞお越しくださいませ」
「あ、ありがとうございました」
「どーも」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 勝己くんの腕にショッパーがぶら下がっていて、慌ててそれをもらおうとするも叶わない。と言うかお金、と財布を出そうとするも、それもやっぱり叶わない。

「か、かつきくん! な、なに、いったい」
「ふは、お前ちょっとよく見せろ」
「ちょっ」
「ん、かわいーじゃん。俺の色、ってか?」
「なっ……!」
「いんじゃね? 俺の女なんだから」

 上機嫌そうに歪められた顔に驚いてしまって言葉が詰まる。ちょびっとだけラメがついた指先が、私の手を握り込んで離さない。そうして少し歩いたところで、勝己くんがまた、ぴかぴかに拭かれたガラスに映るふたりを見ている。

「どっからどう見ても俺の女だなァ?」
「……!」
「次は服買うぞ」

 有無を言わさず進んでいく彼に着いていく。ぴかぴかに拭かれたガラスには、目元に太陽を、口元に熱を宿した自分が、勝己くんの隣で、背筋を伸ばして立っていた。


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