左手の薬指に見慣れない金属がついてから早一ヶ月。一向に馴染むことなく違和感を持ち続けるそれには僥倖が詰まっていて、見る度に集中力を削がれてしまっていた。大・爆・殺・神ダイナマイトの衝撃結婚報告会見からも一ヶ月経過したが、驚くほど私の生活に変わりはない。勝己くん程のヒーローに私という存在が悪影響を及ぼしてはいけないからと、職場で使う名字を今まで通りにしているからだ。勝己くんは納得いかないとでも言いたげに色々言ってきたが、こればっかりは私も譲れなかった。結局私の「そのままの方が仕事が円滑に進むから」という一言で締結し、微妙な顔をしながらも頷いてくれたことは記憶に新しい。職場の人達にも同じような説明をして、結婚式には呼んでくださいね、の言葉に曖昧に笑っておいた。彼のファンからの追随から逃れられないだろうと覚悟していたが、勝己くんが会見で言った「あんま詮索すんな」が功を成したのか今のところは家の前にメディアが張り込んでいるくらいしか被害がないし、勝己くんが全力でキレ散らかしてくれているので大事にも至っていない。

「やー、めっちゃお腹空きましたね。先輩今日もお弁当ですか?」

 ぐっと伸びをしたギャルの後輩がチョコレートを一粒差し出してくれて、お礼を言ってから受け取った。今朝は勝己くんがオフの日だったから、ついつい一緒にギリギリまで眠ってしまってお弁当をつくる時間なんてどこにもなかった。朝ごはんも作れなかったんだった、と未だにしょんぼりしてしまう。勝己くんは「いい」って言ってくれたけれど、一緒に住まわせてもらっている身として、食の提供を怠ってしまったことが情けない。すっぽり私を抱きしめて眠る勝己くんの腕の中はとろけてしまうほど居心地が良くて、ついつい睡魔と遊んでしまった。反省だ。

「ううん、今日はコンビニかなあ」
「えー! 珍しいっすね!」
「ちょっと寝坊しちゃったんだよね」
「先輩も寝坊とかするんですね〜」

 お昼休みまであと数分の空気の中で私達の会話を咎める人は誰もいない。これくらいにしておこうかな、と作業していた手を止めてもらったチョコレートを口に含んだところ、電話を片手に持った上司に声をかけられた。

「ミョウジさん。今受付から電話あって、お客様が来ているみたい」
「へ、私ですか? アポあったかな……。今行きますね」
「上がって来てくれるみたいだよ」

 手帳を開いて確認してみてもアポの予定はどこにもない。急ぎで外部の人と打ち合わせしなきゃいけないことはなかったはずだし、社用携帯にメールや電話が来ているわけでもない。なんだろう? と思いつつ口の中に残ったチョコレートの匂いと一緒にお茶を流し込んだ。ていうか、お客様なのに簡単にフロアに来てもらって良かったのかな。せめてエレベーターまで迎えに行こう、と立ち上がろうとしたとき、わっと入り口から歓声。

「こんちは。爆豪です。ナマエがいつも世話になってます」
「……は」

 数メートル先で上司や部下達に軽く頭を下げているのは、私服を着た、勝己くんそのもののように見える。目を擦って、瞬きをして、頬を抓った。痛い。痛いし、勝己くんがいる。

 バチッと音を立てて視線が交わり、慌ててしゃがみ込んだ。デスクの下に入り込んで、さながら避難訓練である。「え? え?」とギャルの後輩が私と勝己くんの顔を交互に見比べていて、半泣きで首を横に振ることしかできなかった。
 ドスドスと足音が近づいてくる。間違えるわけない、勝己くんの足音だ。ざわめくフロア内の喧騒なんて気にもせず、まっすぐ、一直線。せめてもの壁にと置いていた椅子が勢いよく避けられて、勝己くんと目が合った。怒られる、と思って目をぎゅっと瞑るけれど、怒鳴り声が聞こえて来ることはない。数秒経って恐る恐る目を開ければ、目線を合わせるように同じくしゃがみこんだ勝己くんが、不思議そうな顔をして私の顔を覗き込んでいた。

「ん、やっとこっち見たかよ」
「か、か、か、かつきくん……」
「弁当。朝持って行かなかっただろ。作ったから食え」
「え」
「そんだけ。仕事ちゃんとやれよ」

 くしゃっと私の頭を撫でて、緩く笑った勝己くんの表情に釘付けになっている間に腕が引かれて机の下から引っ張り出される。私の腕を掴んだまま辺りを見回して、フロア内で一番偉い上司を見つけ、目掛けて進んでいく。腕を掴まれたままなので、自然と並んで上司の前に立つ形だ。

「こいつ、結構無理するんで、ちゃんと見てやってください。サボってたら容赦なくキレていいっす」
「勝己くん……!?」
「ここでは旧姓のままにしたいみてえだけど、爆豪なんで。……じゃあ、よろしくお願いします」

 勝己くんが頭を下げるので、わけもわからず慌てて私も頭を下げた。ぱっと顔を上げた勝己くんが、そっと耳に口を近づける。そうして、私にだけ聞こえる声で、言う。

「今日の晩飯はお前が好きなローストビーフ」
「えっ……!」
「んじゃ、頑張れよ。終わったら連絡しろ、迎えに来る」

 距離を取って、まるで何もなかったみたいに勝己くんが去っていく。きゃいきゃい騒ぐ新人の子達にも軽く手を振るファンサービスっぷりに、フロア中がひっくり返ってしまいそうだ。残された私は呆然と立ち尽くすことしかできなくて、何故かスマホのカメラをこちらに向けているギャルの後輩だけが優しい視線を向けてくれている。ああ、私、この後なんて説明したらいいんだろう。

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