22時47分、突然携帯電話が長い音を立てた。今日の反省も明日の準備も既に終わりもう眠るだけのこの時間に連絡してくる存在に心当たりがない。怪訝な目でディスプレイを見れば、映し出されていたのは交際を続けてもう三年が経つ女の名前だった。事故、病気、別れ話。0.2秒で巡る嫌な予感を振り払うように手を伸ばして着信を取る。

「……なまえ?」

 騒がしくて彼女の声がよく聞こえないが、彼女は言葉を発していないようにも思う。後ろから聞こえてくるのは車の走る音で、そういえば今日は友達と飯に行くと言っていたことを思い出す。なんでこんな遅くになるまで外にいるんだよ、と若干苛立ちつつ再度彼女の名前を呼べば、聞いたことがないくらい蕩けきった声がした。

『きよぉみくん、きよおみくん、だあ』
「……酔ってんのか? 今どこ。一人?」
『んふふ! きよおみくんのこえ、するー』
「電話かけてきたのはお前だろ」

 質問に答えろよ、という言葉をてんで聞かない彼女に少し驚いている。なまえは、俺が言うのもどうかと思うが大人しい性格をしているし、俺に甘えてきたことが今まで一度だってない。三年と少し一緒に過ごして、ただの一度も。バレーボールが優先なことはいつだって変わらないし、なまえもそれをわかっていて何も言ってこない。そもそも比較対象ではないということを理解してくれている。我儘を言わなさすぎて腹立ってしまうくらいには何も言わないようなやつだ。そんな女からの突然の電話、しかも明らかに酔っていて、外。迎えに行かない理由がなく、急いで着替えて財布と鍵と、電話が繋がっているスマホだけを持って家を出た。タクシーを直ぐに捕まえてとりあえず今日行くと言っていた店の近くの住所を伝える。電話先のなまえは何度も俺の名前を読んでは、何が楽しいのか一人でくふくふと笑っていた。

「危ないからどっか座っとけ。動くなよ。店の近くにいんの?」
『きよおみくんのおうち、みえたよ』
「は? ……は? 待て、すいません。停めてください。今来た道戻って貰ってもいいですか」

 タクシー運転手のはいよぉ! と言う陽気な声を聞きつつ窓の外をこれでもかと言うくらい凝視した。もうろくに一ヶ月半も会っていないというのに、愛しい人を見つける能力は健在だ。

「ここでいいです。ありがとうございました」

 釣り銭を受け取る時間が勿体なくて多めに金を乱雑に置き、ふわふわと楽しそうに俺と電話をしている女の元へ走る。足音に気がついたのか、なまえも俺を見つけるのがうまいのか、すぐに視線が噛み合った。

「おい、何して」「きよおみくんだぁ!」

 嬉しい。そう顔に、全身に書いてあった。俺の方へふらふらと駆け寄ってきたかと思えば、両手を伸ばしている。抱きしめられるかと思ったが、突然ぴたりと動きが止まる。なんなんだ。

「……帰るぞ」
「だめ!」
「はあ?」

 彼女の手を取ってそう言えばすぐに振り払われた。俺を見つめる目は俺を好きだと訴えかけてきているのに、手を繋ぐのが駄目な理由がわからない。ろくに歩けもしないだろ、と今度は強引に指を絡ませると、彼女はなんと、泣き出した。

「はっ、はぁ……!?」
「きよおみく、きよおみくんに、きらわれちゃ、ぁ、」
「な、くな。おい、話聞け」
「ごめんなさい……っ、ひっ、ぅぅ、きらいにならないで、っ」

 なるわけないだろ、と大きな声が飛び出した。周りの視線を浴びてしまって居心地が悪く、こうするしかないと思ったので彼女の体を抱き上げた。さっきは手を繋ぐことを嫌がったくせに、今はぎゅうぎゅうと抱きついている。ツン、とアルコールの匂いがして、どれだけ飲んだらこうなるんだと頭を抱えたくなっている間もずっと彼女は泣いていた。

「立てるか」
「たて、ぅ」
「……ん」

 家に着いた途端、いやいやと暴れたので仕方なく降ろせば多少大人しくなった真っ赤な瞳と目が合った。蕩けた目をしたまま、玄関に置いてある除菌ジェルを手に刷り込み、その後に除菌スプレーを吹きかけている。染み付いた習慣のように見えた。
 黙って洗面所まで向かったなまえの後を着いて行き、手を洗おうとするのを後ろから抱きしめる体制で手伝ってやった。泡とふたりの手が遊んでいる間、正直俺はシャンプーのいいにおいだとか俺にすっぽり収まるやわらかい体だとかに心臓が高鳴っていたが、なまえの表情は至極真剣そのものだった。

 俺は明日も練習があるし、なまえも明日は仕事だろう。少量ではあるがなまえの物も置いてあるし、まあ、一晩泊まるくらいはなんとかなるはずだ。
言いたいことが沢山あったが、今聞いたってまともな答えが返ってくるとは思えない。それよりも、聞きたいことの方が多かった。

「なまえ」
「きょーぉみ、くん、?」
「うん。なまえ、今日はどうしたの」

 きょとんとした表情をした後に、にぱ、と無防備な笑顔を見せる。なんだよそれ、そんな顔見た事ない。動揺を悟られないようにするのに必死になってしまう。

「あーちゃんとね、ごはんたべてて、」
「うん」
「あーちゃん、かれしさんとけっこんするんだって! だから、おはなしきいてたらね」
「うん」
「きよおみくんに、あいたいなぁって、さびしいなぁって、なって、でも、きょー、みくんにはいえないから、」
「……なんで言えないの」
「きよおみくん、いつもがんばってぅ、から……わたしがあしひっぱったら、だめなの。でも、わたし、きよおみくんにきらわれちゃっ……、う、っ」

 再度泣き出したなまえに思考が追いついていかないままティッシュをくしゃくしゃの顔に押し付けた。なんで言わないんだよ、とか。足引っ張るってなんだよ、とか。色々言いたいことが尽きないが、まず、まずは、だ。

「なんで俺がなまえのこと嫌いになると思ってるの」
「きよおみくん、きたないのきらい」
「……? まあ、そうだけど」
「あらってないのに、て、つないじゃったの」
「……ああ」

 そんなことか、と声が漏れたと同時に襲ってきた安心感に自分のことなのに驚いてしまった。好きな女の泣き顔を見て動揺しない方が嘘だ。えぐえぐと泣くなまえがなんだか途端に愛くるしく思えてしまって正面から抱きしめる。やわい、ちいさい、壊れそう。

「あー、聖臣くんが、なまえのことが好きだから我儘言っても良いって言ってた」
「きよおみくんが?」
「うん。あと会えて嬉しいし、なまえが何をしても足を引っ張るなんてことはない。もしそうだったとしても、俺が手を引いていけばいいだけだ」
「う、ん」
「汚いのは嫌だけど、まあ後でいくらでも消毒とか洗濯とか掃除はできるし、なまえがいつも気をつけてくれてるの知ってるから。そんなことで嫌いにならない。……って言ってた」

 首筋に触れる呼吸がどんどん深くなって言って、うん、うん、と懸命に相槌を打つ姿が可愛らしい。ベッドに彼女を寝かせて、なまえがいつも使っているメイク落としシートを肌に滑らせた。普段はこのあともなにやら洗ったり塗ったりしているが、精々俺に今できるのはこの程度。同じ布団で眠って手を出さない自信があるわけじゃないが、一緒に眠らないのは嫌だった。

「なまえ、ありがとう」
「ん、ぅ、」
「俺はお前のことが好きだよ」

 なまえのことを汚いと思ったことはないし、なまえはきちんと気をつけてくれている。今日甘えてきてくれたことも、説教してやりたい部分は多々あれど、素直な気持ちが知れて嬉しいの方が勝っていた。

「あんまり会えなくてごめん。連絡も……そんなにしなくて、ごめん」
「きょ……ぉ、みく」
「うん」
「ぎゅ、して」

 もうほとんど瞼が閉じかけた最中の可愛いお願いに、思わず少し笑ってしまった。意識を覚醒させてしまわぬようにできるだけ優しく抱きしめれば、ふへへ、と笑みが返ってくる。

 酔った勢いでしか甘えられないなまえと、明日には記憶にない確信があって言う俺。これでおあいこ、と思ってしまうあたり相当惚れ込んでいる。

「きよおみくん、すき」
「うん。知ってるよ。……おやすみ」

 彼女の顔を見ていたら眠気が急激に襲ってきて一緒になって目を閉じた。俺が起きる頃なまえは起きていないだろうし、もしかしたらロードワーク中に起きるのかもしれないな、と思いながら頭を緩く撫でる。この記憶をなまえが忘れても、俺が覚えているから、それで良い。

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