佐久早くんが怒っている。それはもう、ものすごく。ぐっと寄せられた眉間にできている皺の深さがそれを物語っている。いつもは柔く名前を注いでくれる声色はずっと低く震えているし、優しく前髪を撫でてくれる大きな指先が今は強い力で握り込まれている。彼の全てが怒りを伝えているようでひゅっと喉が鳴る。一番困っているのは、怒らせるようなことをした覚えがないことだ。

 そもそも佐久早くんと会うのは三ヶ月ぶりだ。まず前提としてプロのバレーボール選手と一般社会人の生活リズムは中々合わない。それに加えて彼の性格のことを考慮して、おいそれと会いたいなんて口に出さないように努めていた。もしも私が原因で佐久早くんを乱すようなことがあったら。もしも私の連絡で佐久早くんの足を引っ張るようなことがあったら。佐久早くんにはいつだって穏やかでいてほしい。難しいのかもしれないけれど、それでも、できるだけストレスなく健やかに日々を送っていてほしい。そこに私が介入する必要は感じられないし、入りたいなんて烏滸がましいにも程がある。ただちょっと人と話したくなったときに。異性と触れ合いたいと思ったときに。彼のバレーボールの深いことを知らない人に会いたくなったときに。そういう時に使ってもらえるだけで、私はじゅうぶん、じゅうぶん、幸せだ。

 だから、佐久早くんがどうして怒っているかわからなかった。だって、何もしていない。先週末に、空いている日を教えてほしいと連絡がきて、仕事の日は夜なら、休日は全て空いていると素直に返して、じゃあこの日に家に来てと言われて、わかったよと返事をして。たったそれだけで、このやり取りのどこに不正解があったのかがわからない。
 でも、探さなきゃ、と頭の中は急速に間違いを求めていく。メッセージのやり取りに絵文字も顔文字もつけないようにしているし、誤字脱字だって入念に確認して一切ないようにしている。彼の視界を煩わせてしまわないためにとシンプルな色の柄がないワンピースを着てきたし、メイクだってラメは控えめにしてある。リップは密着力の高い擦っても落ちにくいものを塗ってきたし、履いてきたスニーカーは昨日洗ったばかりだ。インターホンを押す前にきちんと消毒ジェルを手に塗り込んだし、佐久早くんが開けるまでドアには触っていない。いつも通り、きちんと気をつけていたはずなのに。どうしてドアの向こうの佐久早くんが怒っているかわからないんだろう。最悪だ。彼を不快にさせてしまった原因ひとつわからないなんて。泣きそうである。でも、ここで泣いたらもっと彼を不快にさせてしまうのが目に見えているのでぐっと堪える。

「……座れば」
「あ、うん、ありがとう。……洗面所、お借りしてもいい?」
「うん」

 想像よりずっと普通に話しかけてきた佐久早くんは、いつもみたいな返事をするだけだった。怒っているのは明らかなのにまるで普通を装っているみたいで胸の奥がじくじくと痛む。気を遣わせている。私なんかに佐久早くんが遠慮をする必要も気を遣う必要もないのに。どうやって謝ろうかばかりを考えているうちに習慣化した手洗いうがいが終わり、できるだけ音を立てないようにリビングへ戻った。
 座れば、と言われたのでとりあえずいつも通り彼の隣に座る。いつもより距離がほんの少しだけ空いてしまったことに、気づかれませんようにと祈りながら。

「来週から仙台。二週間」
「あ、そうなんだ。体調気をつけてね」
「……土産。何がいい」
「えっいいよ気をつかわ」「何がいいか聞いてる」
「じゃ、じゃあずんだ餅を……」
「…………はあ」

 た、溜め息が返ってきてしまった。答えたのに。すっと背筋が冷えていき次の言葉を探すためにまた頭がフル回転する。ずんだ餅はメジャーすぎたのだろうか。でもここで牛タンとか言っても色気がなさすぎて幻滅されてしまいやしないだろうか。せ、仙台土産って何があったっけ? とスマホで調べようと思ったがちょうど手が届かない位置に置いてある。今立ち上がったら更に気を損ねてしまうだろうか。そもそも会話の途中でスマホをいじるような女は論外だろうか。ああ、わからない。彼の正解が今日もわからない。とにかくこれ以上怒らせないようにしなくては。

「……これ、こういうのは」

 佐久早くんが距離を詰めて、ソファがぎゅうと沈む。差し出されたスマホの画面には可愛らしいフォルムをしたクリーム大福が映っている。ずんだ味もあるし、生クリームもある。あ、ほうじ茶も美味しそう。なによりかわいい、と夢中になってページを読んでしまったことに気づきはっとして顔を上げれば、不思議そうな顔をした佐久早くんと目が合って慌てて視線を戻した。

「すごくかわいいね、おいしそう」
「うん。じゃあこれも買ってくる」
「ご、ごめんね?」
「何が?」
「あ、えっと。重いし、お土産とか、ほんとに全然、だいじょうぶだよ」
「重い訳ない。迷惑? いらない?」
「め、迷惑なんてそんな滅相もない……! うれしい、です、ありがとう」
「うん」

 表情がころころ変わる佐久早くんの会話についていくのにいっぱいっぱいだ。二週間、長いなあ。前に同じ仙台で行われる試合を観に行こうと新幹線のチケットを取ったことを伝えてこっぴどく叱られてしまってからは大阪と東京で行われる試合にしか観に行けなくなってしまった。大学で出会った佐久早くんと付き合ってもう七年。大阪のチームに所属するという彼についてきてからもうすぐ三年。未だに佐久早くんが私を大阪に連れてきた理由がわからないままだ。佐久早くんほどの人であれば、可愛い女の子なんて選り取り見取りだろうに。簡単に他人に自分を明け渡すような人ではないと知っているけれど、それでも不思議は拭いきれない。どうして私を選んでくれたんだろう。たまに、惰性なのかと思うときすらある。別になんの理由でも、佐久早くんが穏やかに生活を送れるなら良いのだけれど。

「観に来る?」
「えっ。い、いいの!?」
「新幹線これに乗って。降りたら迎えに行く。隣の席も一緒にとってあるから荷物置いて。誰かに話しかけられても無視して。約束できる?」
「でき、できます。でも、いいの?」
「前は突然だったから嫌だっただけ。一人で長時間移動なんて危ないし、チケットも自由席の自分で取っただろ。誰にぶつかられるかわかんない席で観るとか有り得ない。はいこれチケット」
「えっ、わ、え」
「当日宮の彼女も来るって言ってたから話通しておくから隣で観戦して。わかってると思うけど俺は団扇とか要らない。あと試合後会えるかわかんないけどちゃんと俺の列に並びに来て」
「は、はい、もちろんです」
「あと…………。ごめん」

 突然の謝罪に混乱して私の口から間抜けな「へ」という音が落ちていく。握らされたチケットが手汗でくしゃくしゃになってしまわないように机に置いて、じっとこちらを見つめている佐久早くんと恐る恐る視線を合わせる。居心地が悪そうに私の返事を待っている彼に怒りの様子はもう殆どなくて少し安心する。謝られる事柄にひとつも理由が見つからなくて自然と首が横に振られる。佐久早くんが私に謝ることなんてひとつもない。むしろ、何かあるなら私の方だ。

「全然会えないし、連絡もほとんどしないし。俺の我儘で大阪まで連れてきたのに、その、彼氏っぽいこと、してやれないし」
「そ、そんな、え、」
「今日も自己嫌悪で苛々したまま会ったから、最初怯えさせた。いつまでも気を遣うのは、俺のせいだろ」
「さ、佐久早くんが謝ることなんてひとつもない……! 何かあっても佐久早くんのせいなんてことはない、ないです。佐久早くんが気を損ねるとしたらそれはもう全部私が悪いので、悪いです。私です」

 佐久早くんに初めて意見を返してしまったからか、彼の綺麗な目が大きく見開かれている。そのまま数秒した後に、ぎゅっとまた眉間に皺が寄せられた。ああ、やってしまった。最悪だ。結局怒らせている。でも、本当のことだ。会えない時間が寂しくないといえば嘘になるけれど佐久早くんにはそんなこと気にしてほしくない。大阪に来たのだって佐久早くんの我儘じゃなくて私の意思だ。一緒に行ってほしいと言われて喜んだのは私だ。彼氏っぽいことをしてやれないと言うが、そもそも彼氏っぽいがなにかわからない。私にとっての彼氏は佐久早くんだけだし、後にも先にも彼以外はない。何かをしてくれようと思ってくれたこと自体がとんでもなく嬉しいし、同時に申し訳ない。佐久早くんが自分を悪く思う必要なんてひとつも、ひとつも、ないのに。

「それやめろ」
「ご、めんなさい」
「わかってないのに謝んな。……いや、違う。悪い、そうじゃない」
「…………っ」

 だめ、だめ、だめ! 泣くな、堪えろ、と何回も念じているのに体が言うことを聞かない。佐久早くんを不快にさせて、あまつさえ目の前で泣き出すなんて失態を犯そうとしている事実にすら泣けてきてしまう。泣くような面倒くさい女、佐久早くんは絶対に好きじゃないのに。

「……いつになったら俺のこと好きになる」
「っえ……?」
「七年もお前の時間を奪ってるのに、離せない。俺はなまえが必要。……泣くの我慢するなよ、でも目は擦るな。赤くなる」

 優しく目元にティッシュが添えられて、それが涙を吸っていく間、ずっと。彼の言葉を反芻して意味を考える。いつになったら、いつになったら? いつからでも、あなたのことが好きだというのに。

「す、好きだよ、ずっと、七年前から、ずっと」
「…………うん」
「本当に好きだよ。好きじゃなかったら、大阪ついてきたり、休みの日に全部予定あけてたり、しない、です。好き、だから、全部すきだから」
「もういい、わかった。わかったから、ちょっと待って。あー…………。俺今すごくださいからこっち見ないで」
「佐久早くん……?」
「見んな」

 彼の大きな手のひらがわっと私の顔を塞ぐ。指の隙間から少しだけ見えた佐久早くんの顔が赤く染まっているように見えて、口に出した自分の言葉を思い返してじわじわ恥ずかしくなる。全部本当のことだけれど、彼にこうして伝えたことは一度もなかった。重荷になりたくなかったから。でも、好きじゃないみたいに言われるのは心外だったのだ。

「元也に」
「こもりくん?」
「七年も縛り付けてるのにその対応はない。とっくに愛想つかされててもおかしくないだろって、言われて」
「あ、あいそをつかす」
「俺はなまえが大事だから、大事にしているつもり。めいっぱい。でも伝わってなかったら意味ないし、いつまでもなまえが俺と同じ土俵に来ないから」
「……?」
「休みの日は好きなことしてほしい。俺に不満があるなら言ってほしい。俺を優先してくれるのは嬉しいけど自分のことも大事にしろ」
「は、はい、すみません」
「ちゃんと好きって伝わってるか」
「っ!? は、はい、あの、はい。もちろんです」
「ならいい。…………やっぱわかってないだろ、おい、嘘つくな」

 元々ほとんどなかった距離が、ついにゼロになる。佐久早くんの大きな体がすっぽり私を包み込んだ。拗ねたように尖った唇。壊れ物に触れるみたいに優しく抱きしめる腕。首筋に彼が頭をうずめて、癖毛が触れてくすぐったい。

「俺は好きじゃないやつにこんなことしない」
「う、うん」
「土産も買って帰らない。試合観に来てほしいとも思わない。そもそも家に上がらせないし、連絡も取らない。抱きしめたり、キスしたいって思うのも全部なまえだから。なまえ以外には思わない。……会えなくて寂しいって思ってんの、俺だけなの、嫌なんだけど」
「ひっ、ぇ」
「なまえは?」

 確信犯だ、と佐久早くんの顔を見て思う。私がそう思っているとわかっていて、言わせたい理由が彼の行動からほんの少しだけわかって、顔どころか全身が赤に染まる。佐久早くんはずるい。

「さ、さみしかった」
「うん」
「電話とかしたいなって思っても、迷惑かなって思ったら、できなくて」
「俺は迷惑だと思った電話にはでない。そもそもなまえにされて迷惑なことなんてない」
「あいたい、とかも、重荷になるかと思って……」
「言っておくけど俺のほうが重いに決まってる。俺はなまえのこと、一生離してやれないと思う」
「さくさ、くん」
「なに」
「きす、したい、です」

 一瞬彼の目が大きく見開いて、すぐにふっと口許が緩む。後頭部に回された手のひら。そっと重なる唇は、私の涙で少しだけしょっぱい。

「帰ってきたら渡したいものがある。家で待ってて。合鍵つくったからもってて」
「う、あ、うん」
「あと佐久早くんってそろそろやめといて」
「えっ」
「どうせなまえも佐久早になるんだから、早く慣れた方が良い。時間かかるだろ」

 きっといま、世界一やさしい時間が流れている。

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