※バレンタインがなまえの誕生日設定

 窓の外からあまい香りがしたような気がした。鼻を抜けるのはいつもより特段あまい気がする。換気の意味を込めて、と言い訳して開けっ放しにしていた窓をそっと閉める。小さく音がなって、外にいる何某かの肩が跳ねたのを予想し、予想だけで笑えてしまうのだから私にも随分彼女が浸透してしまったものだ。

「開いていますよ」

 声を張り上げたりはしない。大きな音が、私も彼女も苦手だからだ。部屋から玄関までは少し距離があるが、この小さな声でも彼女には聞こえることだろう。はい、とか細い声が聞こえて腰を上げてお湯を沸かしに向かう。今日は何にしようか、彼女の好きな茶葉か、自分の好きな茶葉か。紅茶がないこの家に文句の一つどころか感嘆の声をあげて嬉しいという表情を浮かべたことを思い出しては胸の真中がじんわりあたたまる。

「夢野さん、こんにちは。突然の来訪すいません」
「いらっしゃいまし。三日前に連絡を頂いていてので突然というには周到ですよ」

 遠慮がちに部屋に入ってきた彼女に定位置に座るよう視線で促し、それに大人しくしたがったのを確認してからお茶を湯呑に注いだ。客人というほど余所余所しい関係ではないが、恋人と胸を張って言えるほど甘だれた関係でもないのだ。

「さて、今日は何用で」
「お忙しいところすみません。…その、夢野さんはこういった、俗に言うイベント事はあまり好きではないかなと、思ってはいたのですが…」

 そっと差し出されたのは可愛らしい色でラッピングされた小さな四角形だ。ご丁寧にリボンまでかかっており、切れ端の形には彼女の几帳面さが覗いている。
 手短に済ませようとしているのがどこから見ても伺える。大方、今日という日を自分の日だとはひとつも思っていないのだろう。今日は彼女にとってはきっと、乱数の誕生日とでも言ったところだろうか。

「へえ、ちょこれいとですか」
「…はい。お口に合えば、良いのですが」

 二月十四日はバレンタインデーだ。日本では女性から男性へチョコレートを贈るのが定番となっている。さきほど彼女が言ったとおり、自分も、彼女も、さほどイベント事が好きではない。嫌いだというわけではないのだろうけれど、特別な日に特別なことを、特別に仕立て上げるという行為に苦手意識がある。特別なんていらないと、いつでも祈っているのは彼女の方。

「ありがとうございます。いただきますね」
「はい、いえ、ありがとうございます…!あの、それでは私はこれで、」
「ああ、待ちなさい。これを」

 懐から小包を取り出してそっと彼女の手の中に置いてくる。唖然呆然開いた口。滑稽な顔も可愛らしいと思うのは、惚れた方がなんとやら。

「エッ、ゆ、ゆめのさん…こ、れは」
「贈り物です。プレゼントですよ」
「ぷれぜんと」
「ええ。今日はあなたが生まれて来た日でしょう。何回目、というのは野暮ですね。おめでとうございます」
「はっ、は、え、わ…」
「ふふ」

 人差し指で鼻先をつん、とつつけばたちまち硬直する体。なんとも不便で面白いことでしょう、とまた笑う。大きな目をぱちぱちと瞬かせて、次第に彼女の目には涙が溜まっていく。溢れる前に唇をつけて、そっと吸い込んでやった。ちう、と小さな音がなる。塩辛い。

「バレンタインや乱数の誕生日も間違いではないですが、あなたの誕生日だということもまた間違いではありません。今日、来てくれて嬉しかったですよ」
「…っ、あ、はい、」
「送ります。泣き止んだら行きましょうか。ああ、急がなくて良い。今日くらいは我儘で良いんですよ」

 君は今日という日を特別だと思うだろうけれど、私にとっては当たり前にしたいものだと言うことを、伝えればまた泣くのだろう。そういうところが、愛おしい。

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