※記憶喪失ネタ


 意識が浮上して一番初めに、いつもの体温がない、とだけ頭に浮かんだ。眠ったときの記憶がない。ねむたい。目を開けて、数秒。真っ白な天井が目に入って違和感をおぼえる。ここ、どこだろう。

「っ、なまえ、聞こえるか、」
「落ち着いてください、患者さんが驚きますので」

 びっくりするくらいの勢いをつけて視界に飛び込んできたのは焦った表情をこれでもかって程浮かべている顔の整った男性だった。眼鏡にちゃらちゃらするやつがついている。

「無事でよかった…!」

 ぎゅうう。抱きしめられて、身動きが取れなくなる。看護師さんが私に抱きついた男性を引き剥がそうとしているのに、びくりともしそうにない。いたい、いたい、いたくない。彼の髪の毛からはちみつのいい匂いがした。状況が未だ一つもわからず、泣きそうなくらい搾り取るような声を漏らした彼をゼロ距離に置いて、目だけをぐるりと動かした。
 多分、病室だ。看護師さんがいるから間違いないだろう。ばたばたと足音が聞こえて、白衣を着たおじいちゃんがドアを開けて入ってくる。きっとお医者さんだ。

「離れてくださいねー。こんにちは、自分のお名前言えますか」
「こんにちは…。はい、えっと…」

 自分の名前、生年月日、住所を聞かれたので素直に答えた。私が言葉を重ねれば重ねるほど、看護師さんと抱きついてきた男性の表情が暗くなっていく。離れてくださいと言われているのに、抱きつくのをやめただけでずっと傍にいるこの男性は。

 一体、誰なんだろう。

「あの…わたし、どうしてここに」
「覚えてへんのか? 急に倒れたんや」
「きゅうに…」

 上司に連絡しなくちゃなあだとか、明日何時から仕事だろうだとか。目の前のことから逃避するかのように言われた言葉を飲み込もうともせず聞き流してしまう。

「あなたが助けてくださったんですか?」
「……は」
「ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございません。もしよろしければご連絡先をお伺いしてもよろしいですか…? 後日お礼に伺わせてください」
「住所」
「えっ」

 お医者さんが急にそれだけ言って、それから私と男性を交互に見る。じゅうしょ、と言われたので再度自分の住所を答えた。

「ちゃう、よな、今住んどるとこやで」
「……?」
「俺のこと、わからへんのか」

 心臓が、刺すような痛みに襲われた。わからないもなにも、知らない人ではないか。それでもわからないと声に出して言ってしまえば大事な何かが崩れて、さらさらと砂になって消えてしまうような気がして、何も言えない。銃に撃たれたことなんてないけれどきっと撃たれたときって、これくらい、痛い。どうしてそんなに悲しそうな顔をするの。

「……少し、話をしましょう。こちらへ」
「はい…」

 綺麗な男の人がお医者さんと一緒に病室からでていくのをただ見つめてしまった。看護師さんが困ったように笑って、それから閉まっていたカーテンを開けてくれる。陽の光が眩しい。どうやらこれから検査をたくさんするらしく、しばらくは入院になるようだった。職場にはもう連絡してくれたようで、上司から心配のメッセージが入っている。返事をしなければ、とロックを解いたところで手の中からスマホがひょいと抜け出した。顔を上げれば、看護師さんの苦笑。

「これは少しの間預からせてもらうね」
「えっ、はい」
「何かあったら困るから」

 何かってなんだ。現代社会に置いて若者の携帯電話への依存性を知らないわけではないだろうに。看護師さんはとても穏やかにこれからのスケジュールを話し始めて、それに黙って耳を傾ける。急に倒れた、と先程の男性は言っていたが倒れたときの記憶が全くと言ってよいほどない。それどころか、ここしばらくの記憶に全てぼんやり靄がかかっている。先程抱きしめられた感覚がずうっと体を離れなくて、すこしあつい。心ここにあらずの私を察したのか、看護師さんは私に伝えた全てを紙に書き留めてくれていた。三日間も眠っていたらしい。なるほど、どうりでお腹が空いているわけだ。

「もう少しで夕食の時間ですから、また来ますね」
「はい。ありがとうございます」

 病室を出ていく看護師さんを見送って、身の回りのものを手にとった。椅子の上に置かれていた鞄から財布を取り出し身分証明証を確認する。それからポーチの中に入っているコンパクトミラーで自分の顔を確認。どこからどう見ても私だ。私の知っている、私だ。
 ポーチの中に入っているグロス、口紅。見知らぬ鍵についた見知らぬキーホルダー。財布の中に大切そうに挟まれている日付も場所もバラバラの水族館のチケット数枚。自分では買いそうにない男物のハンカチ。心配性の彼を安心させるために持ち歩くようになった常備薬。寄って帰ろうと思っていたスーパーの中のコーヒー屋さんで使えるクーポン。手帳に自分の字ではない几帳面な字で書かれた見に覚えのない予定。
 あれ、待って。心配性の彼って誰だ。

「ろ……しょ、くん…?」

 口が勝手に吐き出したのは、口だけではなく、肌にも頭にも手にも足にも、とにかく全身に馴染みすぎている名前。これが名前であることは、どうしてか本能が知っている。ろしょくん、ろしょくん? 先程私を抱きしめた男性の名前だろうか。そんな気がする。ああ、でも、それ以外なにも思い出せない。なにも思い出せないんだよ。

「ろしょくん…っ、ろしょくっ、う」

 体の制御が聞かない。それを吐き出さなければ死んでしまうとでも言いたげに、何度も名前を呼んでは泣く。ろしょくん。ろしょくん。返事をしてほしい。傍にいてほしい。でもこれがなんでなのかわからない。くるしい、くるしい、くるしくない。ああ、わたし、きっとこの人のことが ―――

「なまえ!?」

 名を呼ばれる。何百回何千回、ううん、きっと何億回って呼ばれたことがある。

「ろしょくん……?」
「っ、ああ、そう……そうや、」
 私と一緒で、きっと言葉が勝手に吐き出されている。彼にそっと手を伸ばせば、ゆっくり彼の指が私の指に絡む。ああ、知っている。これを幸福と呼ぶこと。
「ごめんなさい、わたし、なにも…」
「ええ、そんなんっ、どうでも…っ、ええ」
 ぎゅううと強く抱きしめられて、お互いの服がお互いの涙で濡れていく。きっとどうでも良い訳がない。ああでも、私もどうでも良いって思ってしまうほど、あなたが愛しい。

 泣いて、泣いて、泣いて。それでも彼の手だけは離したくなくて。気まずそうなお医者さんの顔を見ないふりして。私達は馬鹿みたいに抱き合っている。そんなのどうでも良いって言ってくれる強さに、きっと救われてきた日々がある。

「がんばって、おもいだすからね」
「焦らんでええ。俺はどこにも行かへんから」
「…でも」
「焦らんでええって教えてくれたんや」

 おでことおでこがごちんとぶつかる。真っ直ぐ見つめられて、真っ直ぐ見つめ返す。きっと、ろしょくんとならなんだってできる。って、忘れる前の私も思っていたんだろうな。



「じゃあ、くれぐれも刺激しないようにしてくださいね」
「はい」
「次の来院は一週間後ですからね、忘れないように」
「はい」
「しばらくは絶対安静ですからね、体力も落ちていますから。しっかり見てくださいね」
「はい。ありがとうございました」
「ました!」

 入院から二週間、すべての検査が終わってようやく退院が決まった。結局記憶喪失の理由はきっかけすらわからないままだ。私はなんとも不思議なことに、今手を繋いでいる先の人、つつじもりろしょうさんのことだけをすっぽりさっぱり忘れてしまっているらしい。私が彼に対してこの二週間で思い出せたのはたった二つだけ。私が彼をろしょくんと呼んでいたことと、記憶を失う前に彼のこと愛していたということ。たったそれだけだ。

「家帰るんやけど…その、うち1LDKやねん」
「うん」
「嫌やったらすぐに言うてくれ、俺は実家があるから」
「お気遣いありがとう」

 二週間の中で、お医者さんが常に見守っている状態ではあったが色々な話をしてくれた。出会ったときのことから、つい先日の話まで。掻い摘んで、ネガティブな話題は選ばないようにしてくれたことように思う。
 記憶を失う前の私と彼は恋人同士であったらしい。同棲をして一年くらいが経過したそうだ。私の記憶が戻るきっかけになれば良いということで、家は私が倒れた日からずっとそのままにしてあるらしい。見ればわかるという彼に疑問符を返しつつふたりの家まで向かう。見覚えない道なので、彼と彼に関する話を全て忘れているのだろう。私にとっては見知らぬ人と突然二人暮らしが始まることを案じてくれたのだろう。起きてから、きっと起きる前も、ずっとずっと彼は優しい。
 カンカンカン。階段を上がる音が心地よい。鞄から鍵を出す彼の手をそっと止めて、自分の鞄から鍵を取り出して開けた。鍵についているキーホルダーは彼と揃いのものだった。

「おじゃまし」
「ただいま」
「……ただ、いま」

 遮られた。彼の、意地のようなものに思える。声色も表情も至極穏やかだが、握られている指先は少し痛い。不安を打ち消すような挨拶だった。私のではなく、彼の。
 一歩踏み入れて、靴を脱ぐ。そっと揃えれば彼の小さな笑い声が聞こえた。ドアを開けてリビングらしき部屋へ。見知った化粧品が机の上にぐちゃぐちゃに散らばっている。なんだこれ。

「…何遍言っても聞かへんのや。片付けはどうも苦手でなあ」
 言葉の意味とは全く違った、愛しいものを見つめる目。
「色々考えてんねんけど、やっぱり俺は普通でおろうと思う」
「ふつう」
「今のなまえからしたら俺はただの知らん人やんか。知らん人と一緒に暮らすんしんどいと思うし、恋人として接さないほうがええかと思った」
「うん…?」
「やけど、俺となまえは、どうしようもなく俺となまえやから」

 ああ、これはきっと彼の言葉ではない。いかにも私が言いそうな言葉だったから。恋人として接してくれる彼のことを、私はどう接したら良いのだろう。だって、私が今彼のことを好きになって、恋人として接したとして、彼は私のことを私だと思えるだろうか。彼が好きな私は、彼のことが好きな私であって、記憶を失う前の私であって、今の私ではないんじゃないか。

「どんななまえもなまえだよ」
「えっ」
「これも教えてくれたことがあんねん」

 慣れた手付きで鞄を降ろし、当たり前のように手が繋がれる。向かう先は洗面所で、手洗いうがいを促された。リビングから洗面所までたった、たった、数歩だ。その数歩を、数秒を、手を繋ぐ優しさがこの家には染み付いていた。違和感がないのは本当に私がここで暮らしていたからだろう。ハンドソープじゃなくて石鹸を使用するのは、彼も私も相違のない拘りであり、それの一致に喜んだことを覚えている。

「あ」

 するすると紐がほどけていくようだった。こういうのは一度ほどければ早い。突然動き出した私に驚いたのか、彼は目を見開いて数秒動きを止めていた。

「タオルは棚の上。洗濯物はカゴにちゃんと入れる。化粧品は散らかしてもいいけど帰ってきたらすぐ片付けなさい」
「…な、」
「靴は揃えて端に寄せる。火の元と戸締まりだけはほんまにちゃんとやってくれ。…あんまり心配させんなや」

 ぜんぶ、彼からもらった言葉だった。思い出したことを留めておけなくてどんどん口から言葉が吐き出されていく。しょっぱい味がする。きっと涙も溢れている。

「わたし、きっと生まれ変わってもろしょくんのこと好きになるよ」
「っ、なあ、」
「だって、私とろしょくんは、どうしようもなく、私と、ろしょくんだから」

 言い切って、頭を撃ち抜かれるような感覚に思わず蹲った。いたい、いたい、いたくない。頭の中に勢いよく流れてくるのは彼ばかりで、ああどうしてこんなに大切なことを忘れてしまっていたのかと悲しくなる。でも、思い出せたことの嬉しさと、彼が私との道を選んでくれた嬉しさが勝ってすぐになんでもよくなってしまった。目が覚めたときと同じで、ろしょくんが私を抱きしめる。このにおいを、感触を、体温を、わたしはきちんと知っている。

「ろしょくん、ごめんね」
「なにっ…なにがや…」
「なかないで」
「泣いてへんわ……」
「うん、だいすきよ」

 噛み合わない会話。一緒になる体温。私達はこれで良いんだと積み重ねてきた時間が自信を持って教えてくれる。

「どんななまえでも好きや。やけどなあ」
「うん」
「なまえが一番好きなんや」
「なにそれ」

 意味分かんないよ、と笑う私にろしょくんは眉間に皺を寄せながらも笑っている。おでことおでこをくっつけて、二人で泣いてるんだか笑っているんだかわからない表情を浮かべて抱き合った。全てを思い出したか、忘れたままなのかなんてことはもう既に、きっとどうでも良くなっている。この世界にふたり、あなたとわたし。ここにいて、好き合っていることの幸福よ。

「病院行かなきゃね」
「……もうちょい待てや」
「うん」
「心配させんなや…ほんまに……」
「いつも心配してくれてありがとう」
「こういう時だけしおらしいのやめえ…」
「あはは! ひどい言われようだ!」
「愛しとる」

 突然のアイラブユーに時間が止まっちゃった。私なんかより、きっと、ずっと不安で苦しかったよね。ごめんね、ろしょくん。

「わたしもだよ」

 ずっと一緒にいようねって、検査が終わったら言わせてね。

戻る
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -