デートに行けないことなんて知っていた。彼がこの国の中でもトップレベルの多忙を極めているのはわかっていたつもりだったし、それでも良いと言ったのは他でもない私だった。彼が私と付き合うときに前置きとして、お願いのようなものをされていた。それの中のひとつに「あんまり時間がとれへんと思う」というのがある。私はもちろんそれを承諾した身であるから、彼に会えないことも、彼からの連絡がほとんど返ってこないことも、私を放って元相方の家に行くことも、その他諸々、なんでも、言えない。言えるわけがない。というより、不満に思ってしまうことすら良くないことなのだ。だから、私の家の冷蔵庫にずっと眠っているメロンソーダも、大きめのパックに入ったバニラアイスも、それを可愛く乗せるためだけに買われた少し値の張るスクープも、彼が出ている番組全てを記録してぱんぱんになっているレコーダーも、それら全てを胸に抱えて泣きながら眠る私も、彼は知らなくて良いし、知ってもらいたいと思うこともあってはならない。

 それでも彼のことが好きなのだから、仕方ない。私にだけに寄せられる、あの温度が、声が、言葉が、私を捉えて離さない。

「ただいまあ〜!」
「エッ」
「あれ、おらんの〜? ただいまあ〜」
「えっ!?」

 ベッドに横たわってスマホを見つめていた私に、痛いくらい眩しい声が聞こえてきて、頭がぐわんぐわんする。勢いよく飛び起きた拍子に掛け布団が床に落ちたが、そんなの今はどうでも良い。紛れもない彼の声、紛れもない愛しい人の、ささらの、

「ささら!」
「あ、おるやん。ただいまぁ」

 にへらぁ、と笑ってマスクを下げて、嬉しそうにしながらとことことこちらに近づいてくる恋人に動揺を隠しきれない。黒いリュックとキャップを置いて、彼が大きく腕を広げる。

「ぎゅーってして」
「エッ?」
「して〜」

 にこにこにこ。彼の考えていることが読めない。そもそも今まで読めたことなんて一度もないような気もする。飛びつけるような勇気も可愛らしさもないので、ゆっくり歩いて、距離を縮める。ぎゅってして、と言いつつ手を広げて抱きしめる体制をつくっているのはささらの方なのだから、ささらは、ずるい。きっと私のことをわかってやっている。ご機嫌取りやサービスの一環のようなものだと思う、でも、もしそうじゃなかったら嬉しいと思ってしまうし、そうだとしても結局嬉しいと思ってしまう。戦う前から負けている。私とささらは、いつだってこうだ。

「寂しくさせたなぁ」
「……ううん」
「今日はもうこのあと仕事あらへんから、明日の朝までは一緒におれるよ」
「うん」
「お利口さんにしとってえらいなあ」

 ささらのしなやかな指先が、私の頭をそっと撫でる。至近距離で交わされる会話、視線が私にじっと語りかけている。彼の言葉のひとつ、動きのひとつ、視線のひとつ。すべて。私をぐちゃぐちゃにしていく。

「好きや」
「っえ」
「ほんまに」

 日頃言葉を吐き出しすぎて少しかさついた彼の唇が、私の唇を荒く塞ぐ。私からの返事なんてわかりきっているから要らないとでも言わんばかりに、彼の指が後頭部を抑えて離さない。そんなことしなくても押し返したりするわけなにのにと、言えるはずもない負け台詞。

「離さへんでね」

 こっちの台詞。

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