やわらかい朝が降ってくるシブヤは静かだ。始発の向こう、早朝と呼ぶよりは夜中に近いような時間帯。まだ空が暗くて、おひさまがほんの少しも見えない。電車も眠っているのでタクシーで、眠たげな運転手さんの会話をぼんやり聞き流しながら彼の呼び出しに応じる。シブヤの喧騒からは離れたところにあるおうちの前、備え付けのインターホンを無視して扉をノックした。トン、トン、トン。次いで中から聞こえる優しい声。

「どうぞ」
「お邪魔します」
「遠かったでしょう。冷えてないですか」
「はい。夏も近いので」

 夢野さんは眠る前のような、ラフな和服に身を包んでいた。顔も眠たげであるため、きっとお仕事が終わったばかりなのだろう。心地よい温度の家に招き入れられて、既に用意されていたお茶に申し訳なく思いながらも口をつけた。お互いよく喋る方ではないので会話が中々始まらない。夢野さんのゆったりとした呼吸の音が響く室内で、私達は時折こうして逢瀬をしては、無言の会話を重ねているように思う。指の動きで、視線で、呼吸で、心音で。言いたいことを上手くまとめるのが苦手な私と、本音を言うのが苦手な夢野さんによく合う会話の方法。夢野さんが私と同じようにこの時間を無言の会話だと思っているかどうかは聞いたことがないが、きっと同じように思っていると思いたい。

 窓から差し込む光が白さを含んできた頃。私達はようやく、ぽつり、ぽつりと会話を始める。なんの取り留めもないような。機密重要事項とも思えるような。不思議な時間。

「今日は仕事ですか?」
「はい。でも、お休みをもらおうと思います」
「そうですか。業務は滞りませんか」
「緊急のものはないので、大丈夫です。夢野さんはお仕事終わりですか?」
「ええ、ちょうど先程書き終えまして。未だ担当からファックスの返事は来ていませんが、まあ、いいでしょう」
「おつかれさまでした」
「ありがとう」
「楽しみです。とっても。どんなお話ですか?」

 一つが始まれば、百まで行くのは簡単なこと。会話が始まらないだけで、始まってしまえば途切れることはあまりない。夢野さんの湯呑にお茶を注ぎ足して、自分の湯呑にも少しだけ頂いて。手土産として持ってきたおまんじゅうと金平糖を机に広げて二人でつまむ。疲れた体に甘いものが染みていると嬉しい。

「木々の隙間で言葉を食んで育む男女の話です」
「言葉を食べるのですか?」
「ええ。言語を食することで成長し、それをアウトプットすることで知識を蓄えていくんですよ」
「わあ、素敵。木々の隙間というのは…」
「言語の摂取は違法とされているので」
「なるほど。内緒の話なんですね」
「はい、そうですとも」

 にっこり。夢野さんが不意に私を見て笑うので、驚いて湯呑を置き、崩れかけていた正座を正しい形に戻した。

「少年は少女が持ってくる言語が大好物で、悪い悪いとわかっていながらも、少女に言語を持って来るよう仕向けてしまうのです。少女は無知で、言語摂取の違法を知らないものですから、毎度素直に持ってきてしまうんですよ」
「一概に悪いことだと言えないのがもどかしいですね」
「ええ。それでね、どんどん成長していった少年が不意に気づいてしまうのです。自分が欲しいのは知識なのではなく、彼女ではないのかと」
「……皮肉ですね、彼女からもらった知識で気づいてしまうのは」
「はは。やはりあなたは聡明だ」

 ぱちんと弾けて消えるシャボン玉のように物語の話が終わる。夢野さんはこの上なく上機嫌だ。

「ふたりは悲しいことに、悲しいという感情を持ち合わせていなかった。ふたりがふたりで在ることが、とっくに幸福を意味していたから」

 夢野さんの口から流れた言葉が、さらさらとこの部屋を満たしていく。

「……まあ、続きは本を読んでください」
「ふふ。夢野さんはいじわるです」
「いじわるなんてとんでもないことを言う。麿より優しい人なんてどこを探してもいないでおじゃる…」

 よよよ、と泣き真似を始めた夢野さんを見て笑い、釣られて夢野さんも笑う。素敵なお話が本になることを楽しみに思いながら、眠気が私達を打ち負かすまでお話をした。


 二ヶ月後、発売された本の帯に書かれていた「実体験を元に書きました。まあ、嘘ですけど」の文字を見て驚愕するのはまた別の話。

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