森の奥深く、木々は生い茂っていて人が通る道等有りはしない其処に、古びた洋館が建っていた。恐らくは忘れ去られた館なのだろう。外壁には蔦が這い、風によって舞い上がったのか土で汚れているそこはもう何年と、いや、何十年と人の手が入っていないだろう事が窺える。指の先で扉に触れれば、予想していた通り土で汚れてしまった。そして好奇心故か、何故なのか。自分でもよく分からないが自然とドアノブに手を掛け、それを回した。意外な程簡単に回り軽く軋んだ音を立て開いた扉の先にあったのは、広がる視界だ。外で見た時よりも遥かに広く、私一人しかこの場に居ないからか尚更広く見える。
だけど何だか一人では無いような気がして、少しこの場に立ち止まり、注意深く辺りを見回した。床にはボルドーのカーペットが敷かれていて、壁は白で統一されている。上を見上げれば、当たり前だが灯りが点いていない古びたシャンデリアがあって、それ以外にはこれと言って物が無い。あまり飾り気の無い館だ。そして灯りと言えば窓から差し込む太陽の光ぐらいしかないからか、かなり暗く、重苦しい雰囲気の館だという印象を持った。そして、少しの違和感も。
外から見た感じだとかなりの間放置されているようだったが、中は意外と綺麗だ。塵や埃はあまり無く、毎日とは言わずともつい最近掃除は成されたのではないかと言うくらいには清潔感がある。まるで、まだ人が住む場所だと言わんばかりに。
ふとさっきドアノブを握った手を見てみると、そこは汚れてはいない。扉自体は汚れていたのに、この違いは何だろうか。つい最近、外から人が来たという事だろうか。

「…」

息を潜め、ゆっくりと歩き出す。それでも靴の底から発せられる音は防ぎようが無く、静寂に包まれている館内にコツコツと足音が響いた。
広いホールを過ぎ、廊下を歩きながら窓を見る。ホールの所はカーテンが開いていたが、廊下の所はカーテンが閉まっていた。カーテンの裾から漏れ出た光が床を照らし、足下だけを明るくしている。あまり暗すぎると進むのが難しいから、今の私にとって有り難かった。
更に先に進むと、ある部屋の扉だけが開いていて思わず興味がそそられる。だけどそこで初めて、私はある事に気がついた。ホールからは両端に廊下が一つずつありどちらも此処に続くようなのだが、向こうの廊下は私が来た方の廊下と違い窓に取り付けてあるカーテンは長く、一筋の光も入っていない。何となくで此方を歩いて来たのだが、知らず知らずの内に少しでも光がある方へと導かれていたのだろうか。今開いている扉に近い方の道へと。
そう思うと、途端に悪寒が走った。良く分からない何かの意思が働き、導かれているかもしれないという事が。そして私がそれに掛かってしまったのかもしれないという事が、少しずつ感じ始めていた不安を煽ったのだ。
何となく此処まで進んで来てしまったが、やっぱり帰ろうかなと踵を返す。だが好奇心と不安感に揺れ、それから動こうとしない私の後ろ。開いていた扉の向こうから音が聞こえて、思わず振り返った。部屋の中と言うよりその床の下から、無機質な所で鳴る鎖が擦れ合う音。その音に恐怖心からどくんと心臓が跳ね、激しく鼓動を刻む。
何も無いのに、音が鳴るなんてありえない。例えば静かな所でやっと聞こえるくらいの小さい音だったら、鼠とかその類かと思う。だけどそんな小さな存在ではけっして出せない音が、今私が見ている部屋の奥からしたのだ。此処で逃げれば良いのに、私は寧ろそんな音を立てる存在など居ないと確かめて安心したかったのか、ゆっくりとその部屋へと近づいた。
びくびくしながら扉を開き、中を覗く。辺りには不審な点は無い。天井を見上げ何も無い事を確認し、床を見れば更にその下に続く階段を見つけた。一歩足を踏み出せば床が軋んだ音を立て、それが合図になったようにその階段の奥から再び鎖が擦れ合う音が響く。そしてひやりとした空気が足下に纏わりつき、その階段の下と此処では全く違う別次元の世界なのではないかと錯覚させた。一歩その階段へと踏み出したら、それは別の世界へと足を踏み入れる事と同じだと思ったのだ。そう思う程、私が今居る此処と階段の先は漂っている空気が違っている。

「…」

少しその階段へと近づき、後ろを振り返って扉がしっかりと開いている事を確認する。もし何かあった時、直ぐに此処から少しでももたつかずに出る為だ。
一度でも興味を持ってしまうとどうしても気になって、怖いと思いながらも進み出した足を止める事は出来なかった。一段降りて、また一段と階段を降りる。日の当たらない此処は上と違って涼しく、少し肌寒くも感じた。最後まで降りて足下から目線を上げ前を見ると、薄暗い石造りの部屋の中に橙に光る小さな灯りが点々としており、微かに此処を照らしている。灯りに照らされた其処は鉄格子が張り巡らされ、まるで何かを閉じ込める為の部屋のようだ。

「…誰か、居るのか…?」

この部屋がどうなっているのかが分かった瞬間、奥の方からそう声が聞こえてきた。低い、男の人の声。それと同時にジャラ、と鎖の音が聞こえて、さっきから聞こえていた音はこの奥に居るらしい人が発していたのだと理解する。
だけど人が居たという事実は、安心よりも不安を齎した。何故こんな場所に人が居るのか。誰も来ないであろうこの館のこんな場所に人が居るなんて、どう考えても普通ではない。鎖の音もしたし、もしかしなくても拘束されているのではないのだろうか。この場所から逃げられないように。

「…え、…っ」

漸く目が慣れてきて灯りが無い場所も見えるようになり、声と音が聞こえてきた方を見やる。鉄格子の奥、驕奢な装飾が施されたこの場に似つかわしくない椅子に男の人が座っていた。肘掛けの上に乗せられた腕には天井から伸びた鎖が長さの為か少し弛んで繋がっており、椅子からはあまり動けないようだ。顔を見てみると目のある場所は黒い布で覆われていて、何故かは分からないが目隠しをされているのが分かった。綺麗な形の唇の端には赤黒いものがついていて、もしかして血なのではと思う。それが意味するところはつまり、怪我をしているのかもしれないという事で。

「だ、大丈夫…です、か…?」

思わず心配の言葉が口から出ていた。私の声は小さかったがこの静かな部屋では充分なボリュームで、拘束されている彼の耳にきちんと届いたのか彼の唇がぴくりと動く。

「…居るんだな?誰か分からないけど、助けてくれないか…?」

拘束されている彼の声色は、特におかしいとかそう言った雰囲気は無い。焦りも無く、それが逆に大丈夫なのかと不安を煽る。
彼の言った助けてくれという言葉。それは普通に考えれば誰かによって本人が望まぬ形に、目の前のようにされたという事だが、逆に考えれば私と彼以外にも人が居るという事になる。今は此処に私と彼の二人しか居なくても、どこかにその未知の存在が居るという事はあまり下手な事は出来ない。どういうつもりで彼をこうしたのかは分からないが、それを何の関係も無い私がどうこうするのはどうかと思う。それに、人をこんな場所に拘束するような普通じゃない人に逆らうようなものだからだ。私はそこまで怖いもの知らずじゃない。せめてもう少し周りを確認してからだ。
それに、もう一つ気になっている事がある。特にそれを示唆するような事は無いのだが、やはりどこか引っ掛かるのだ。
だけど催促するように鎖を鳴らす彼に、止まっていた身体は勝手に動き出す。鉄格子に添えていた手に力が入り、前へと力を入れればキイ、と音を立て鉄格子が開いた。彼は椅子からあまり離れられないからか、此処に鍵は着けられていないようだ。
少し警戒しながら彼へと近付いて、鎖が繋がれている手首に嵌められた手錠に触り、彼に話し掛ける。

「…これ、どうすれば良いんですか…?」

見た感じは鍵穴など無く、外し方が全く分からない。鎖をどうにかして切らないと此処からは出られ無さそうだ。それに本当に拘束を解いていいのかという疑問が、行動を制限させた。だけどせめて、腕の拘束は解かなくても視界を遮るこの布ぐらいならと、椅子に近付いて彼の頭の後ろへと手を伸ばし、緩く結ばれたそれを解く。ぱさりと目隠しとして用いられていたその布が落ちると、彼の顔がやっと見えるようになった。閉じられていた目蓋がゆっくりと開き、そこにある瞳が姿を現す。此処が暗いからか少し光っているようにも見える、澄み切った金色の瞳。珍しくもあるそれは、素直に綺麗だという感想を抱かせた。思わず見惚れていると、不意に腕を掴まれ引き寄せられる。

「きゃ…っ」

図らずも彼の胸の中に収まった私は、いきなりの事に驚きを隠せず胸が騒ぐ。直ぐに彼の腕が私の背中に回り、ぎゅっと身体を密着させるように抱き寄せられた。

「あっあの…っ、い、いきなり何を…」
「助けて、くれるんだろ?」
「え?…あ、だ、だから手錠をどうにかしようと…」
「俺は別に此処から出してくれとは言ってないんだけど」
「え…」

確かに、彼はただ助けてくれないかと言っただけでどうしろとは言っていない。私は普通に考えてこの拘束を解いてほしいのだと思ったのだが、それは違うようだった。
彼の手が私の項に触れて、そこを擽るようにされれば身体から力が抜ける。首筋から肩口へと、焦らすようになぞられればぴくんと肩が震えた。

「ほら、分からないか?」

そう言って彼は唇を開き、そこを見せつけてくる。白い歯は歯並びが良いだけでそれ以外は特に…なんて思ったが、一部だけ他と違う所があった。鋭利に尖ったそれはまごうことなき牙で、彼の唇の端についているのは血で。近くで見てみると怪我なんて無いという事は、その血は他人のものの可能性があるという事で。

「…っ」
「…分かったか?」

少しだけ感じていた違和感は、どうやら当たってしまったようだ。第一に此処には私達以外の第三者の存在なんて無いという事。第二に此処は彼のものだと、この館の主は彼に違いないという事だ。拘束されているのに焦りもせず、寧ろそれが普通だと言わんばかりの雰囲気を持っていたのはその所為だろう。自分の城で自分がどうしようが、それは自身の良く知っている安全なフィールド内で遊んでいるようなものだ。

「見ての通り、俺は吸血鬼だ」

そう言った彼の表情は獲物を惹きつけて離さない、酷く魅力的な顔をしていた。それに見惚れてしまい動けなくなる事は想定内なのだろう。だからこそ目隠しをして顔を隠していたのだと、おかしい程に緩く結ばれていた布を思い出す。自分でしたらそりゃ、あまりきつく結べない訳だ。

「日の光に当たったら死んじゃうからな。俺はこの光が当たらない場所で人が来るのを待っている訳だ」

だからか、この館に入った時から感じていた導かれているような感覚は。

「勿論警戒心を抱く奴も偶には居るけど、俺が拘束されてれば何も危害は加えられまいと思って解いちゃう奴が殆どだ。あとは良心に働きかければこっちのモンって訳」
「ひゃ…っ」
「…こうして人に触るのも久し振りだ」

彼は私のカーディガンを肩からずらし、胸元のリボンを緩めブラウスの釦を外す。何をされるかなんて直ぐ分かったが、何故だか身体に力が入らなくて抵抗出来ない。ただされるがままの身体は彼にもたれ掛かる事で落ちてしまうのを防いでいる。

「すげえ渇いてるから、…少しだけ、我慢してくれな」

そう言うや否や彼は私の肩口に噛みついた。

[ 78/80 ]

[*prev] [next#]
[トップ]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -