六日目

兎に角私は普通で在りたかったのだと思う。普通とは間逆の位置に居たエレンの戻ってくる目印として。それに何より、私のプライドが許さなかったのだろう。普通じゃないから駄目だと、常識的じゃないから駄目だと周りの目を気にして。私自身は、実の所エレンにこうされていても嫌だと思った事は無かったのに。それを認める事が、私が普通じゃない証のようで怖かったのだ。

「…リル、食欲、無いのか…?」
「…うん、ごめん」

エレンがスプーンでスープを掬って私の口元へと運んでも、それを受け入れようとは思えなかった。何かを口にしようとは、何か食べようとは思えない。まだ整理しきれていない脳内が思考を働かせようと、考えようとする度に頭が痛むのだ。昨夜からずっと頭が重くて、空元気すら出せないでいる。

「そっか。なあ、リル。気分転換に、外行ってみるか…?」
「外…」

そんな私を思ってそう言ってくれたのだろう、エレンは実際乗り気では無さそうだが、その優しさに甘えるようにこくんと頷いた。これが最後の抵抗とでも思ったのか、私は外に其処まで行きたいとは思っていなかったが、身体が勝手に動いてしまった。

「なら、着替えてこいよ。ほら、手錠外してやるから」

此処で初めて、エレンから手錠の鍵を自主的に外してもらった。今までは生理的現象の時やお風呂の時ぐらいでしか外してくれなかったのに。
手錠が外された腕は軽くて、違和感を感じる。もうこの状況に慣れていたのだと思うと、複雑な心境だ。纏めた荷物から服とポーチを取り出して、洗面所へと向かった。
服を着替える際に、其処に在る鏡でそう言えばと思い出した事がある。こうなった最初の日に噛まれた肩、そこがどうなっているのかを確認するのをすっかり忘れていた。そこには血の固まりも無ければ、ただ傷跡が線のように残っているだけ。きっと直ぐ消えるだろう。傷口をさするように指をその上に滑らせれば、少し引っ掛かるような感覚がした。
取り敢えずは着替えて軽くメイクをして、エレンの所に戻る。寝室に戻ると私のバッグを渡されて、ポーチと財布を入れた。私のスマホは勿論、無かった。

「じゃあ、行くか」
「うん」

エレンと手を繋いで、玄関をくぐる。鍵を掛けて、エレンに先導されるままに進んだ。
久し振りの外は開放感があって、風が吹くのが気持ちよくて、新鮮だった。余程エレンの家の中での生活に慣れていたのか、懐かしいと言うよりも新しく感じて、胸が落ち着かないが。安心感を得るかのように、此処最近ずっと一緒に居たエレンと繋がった、握った手に力を入れた。

「…リル、俺が居るから安心しろ」
「…うん」

どうして、私の気持ちがエレンに分かってしまうのだろう。エレンがそう言って絡めた指先に力が入ると、ざわめく胸が少し落ち着いてほっとした。
マンションから出て、町ゆく人々の喧騒の中をかき分けながら進んでいく。色々なお店に目移りしながら、歩を進めた。それは雑貨屋さんであったり、洋服屋さんであったり、はたまたクレープ屋さんであったり。でも、入りたいと思うお店が中々無かった。こうしてエレンに手を繋いでいて貰う事が、今は大事だったから。そう思っていたが、次の瞬間いとも簡単に手を離される。いきなりの事で目をぱちくりとさせていると、エレンはにこっと笑って私から離れていった。

「リル、クレープ食べるか?」
「え」
「甘いの、好きだったろ」
「う、うん」
「苺のやつ好きだったよな?ちょっと買ってくるから、此処で待っててくれ。動いたりすんなよ」
「え、エレン…っ」

いきなりの事で、ただ言われる事に返事をするしか出来ない。エレンにとっては私を元気づけたい一心だったのだろうけど、私にとってはかなり落ち着かない出来事だ。エレンは私の為にクレープを買ってきてくれると言った。それに対して、行かないでと云う一言を口にする事は、私の為にしようとしてくれている事を止める事は出来なかった。
クレープ屋さんで注文をするエレンを遠目に見ながら、エレンの言う通りに此処で動かないまま、そわそわと落ち着かない胸にぎゅっと手を当て、早く戻って来ないかと足元をもじもじと動かす。早く、早くと心の中で呟きながら居ると、突然見知らぬ人に声を掛けられた。

「ね、君一人?」
「え、あの」

全然、知らない男の人。あまりにもフレンドリーに話し掛けてくるものだから、自然と返事をしてしまった。

「今ヒマ?」
「え、と。ヒマでは無い、です」

しまった、返事しなければ良かった。一度返事をしてしまうとそれから無視するのも良心がちくりと痛んで、話を続けてしまう。二人組の男の人に話しかけられて、どうやって逃げようかと及び腰になりバッグをぎゅっと握った。
何となく話を続けていると、あまり反応が良くないから最後の一押しだと思ったのか、相手は出身校の話まで持ち出した。相手の通っている学校は偏差値が高くて有名な所で、そういう話に疎い私でも知っているが、それで釣れるミーハーな人が居るのだろうか。私にはエレンが居るから、全く興味が無いが。
なんとか話を切り上げなければ押し切られそうで、もう話を遮ってでも断りを入れようとした時、ぐいっと肩を抱かれる。エレンに噛まれた方の肩だ。

「あ、あのっ」
「一緒に遊ばない?ちょっとした自慢になると思うけど」
「いや、良いです。離して下さい…っ」

なんか、凄いデジャヴ。前もこんな事があった。その時はエレンに助けてもらったのだけど。今回は、と思っていると突然後ろからぐいっと身体を引き寄せられて、踵が後ろにステップを踏むように下がっていった。何事かと、その原因を確かめる間も無く頭の上から聞こえる何時も聞いている声。

「すいません。こいつ俺のなんで」

顔を見なくても分かってしまう、エレンだと。こんな事を言ってくれる人なんてエレン以外に居ない。さっきまで不安だったのに、エレンに掴まれた腕から伝わる温もりと、背中に感じる何時もの温もりにほっとする。また、エレンが助けてくれた。その事実に、心から安堵した。
エレンが近くに居ないと安心出来なくて、近くに居ると凄く安心して。今だってそう。エレンの存在が無いと、私はいつの間にか駄目になっていた。
話し掛けてきた二人は直ぐにそそくさと姿を消して、エレンに掴まれた腕に縋るように身体を寄せる。

「大丈夫か?リル」
「エレン…っ、ありがと…」

感謝の言葉を口にして、エレンの袖を掴む。エレンはその手をぎゅっと握った。やっぱりこうしていないと、触れていないと安心出来ないのだ。

「…やっぱ、駄目だな」

何が駄目なのだろうと聞く間も無く私の手を引いて、エレンは今までに来た道を戻っていく。買ってきたであろうクレープの姿は、エレンの手には無かった。それでも甘酸っぱい苺の香りと甘い生クリームの香りがそこには漂っていて、もしかして落としてしまったのかという思考に落ち着く。
マンションに戻ってからはまたベッドの上に押し倒されて、エレンがその上にぎしりと軋んだ音を立てながら乗ってきた。それに対して、怖いとは思わなかった。

「え、エレン…」
「…怖かったか?」
「う、ん…」

多分さっきの事を言ってるのだろう。確かに、あの時は少し怖かった。エレンが近くにいないと、不安で仕方なかったのだ。

「リル、何時もああだ。隙ありすぎて、不安なんだよ。俺の前だけって、あんとき頷いただろ…?」

また、言われた。隙がありすぎると。私自身は普通のつもりなのだが、そんなに隙がありすぎるんだろうか。エレンが言うなら、そう…なんだろう。

「…此処なら、俺とリルしか居ないから、安心して良いからな」

そうして守るかのようにぎゅっと抱き締められる。少し体重が掛かって苦しいが、エレンに身体を覆うようにされているというのは安心する。
それより前にも、同じ様な事を言われた気がする。あの時はエレンにひっついただけだけれど、怖かったから、不安だったからそうしてると勘違いされたのだろうか。エレンに助けを求めてると思われて、安心させようとそう言ったのだろうか。
エレンはもしかして、今まで私を閉じ込めておこうとしていた訳じゃなく、守ろうとしていたのか。そう考えると今までの言動が全く違う風に受け取れる。近くに居ないと安心出来ないのは、私もエレンも同じのようだ。

「…リル」

夜、私を抱き締めないと眠れないのは何も私を拘束する事が目的では無く、自身の腕の中に収めておく事で守っている気になっていたのだろう。言わばエレン自身が盾の役割をしていたと云う事。
目を離したく無かったのだって、逃げるのを恐れていた訳じゃなく、ただ単純に目を離すと私がどうなるか気が気じゃ無かったから。
この家がどういうものか、私が思っていたのは私を閉じ込める檻で、エレンがしていたのは私を守る盾のつもりだったと云う、なんとも拗れた話だった。勿論、それだけじゃないだろうが。

「なあリル、どこ、触られた…?」
「か、肩、だけ…」

首周りの服を引っ張って、触られた箇所をエレンに見せる。そこは以前も触られて、そしてエレンに噛まれた場所だ。

「…また、か」
「う、うん…っ」

触られた場所をエレンの指が滑って、その感覚にぴくんと身体が震える。

「リルは動かなくて良いからな。俺が、消毒するから…」

そう言われて、そこにエレンの舌が這う。エレンには独占欲も多分にあると思う。だからこそ、跡をつけたがる。舌を這わせた場所に歯を立てられて、沁みるような痛みと共に耳元で囁かれる言葉。

「…やっぱり、リルを外に出すのは駄目だ。此処に居れば、俺がずっと守ってやるから。…な?」

結局の所、どっちが普通だとか、普通じゃないとか、良く分からなくなってきてしまった。

「此処に居れば、安全だろ…?」

だって、この言葉に心を動かされてしまった。一度壁を取っ払ってしまえば、私自身の気持ちを認めてしまえば、後は転がり落ちるように一つの結末へと向かっていくだけ。認めてしまえば、受け入れてしまえば堕ちてしまうのも怖くなかった。

「…うん」

だって、最初から私は嫌だと思って無かったのだから。普通じゃないから駄目だなんて、今となっては大した理由にならない。普通なんて、人によって違うのだから、これでも良いじゃないか。これが、私達の普通なのだ。

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