ポラリス少佐から、サカズキたちが帰って来たと報告があった。本当は先にアリエルに会いに行きたかったけれど、今は無理だと止められて仕方なくサカズキの部屋へ行く。書類を握り締める手がどうしようもなく震えていた。
「…サカズキ」
「一体何の用じゃァ、クザン」
わしは忙しいと、こちらには目を向ける事すらせずペンを動かす。サカズキはこんな奴だと分かっているはずなのに今はその態度に腹が立った。
(それは無いんじゃないの?)
手にしていた書類を、怒りと共に机に叩き付ける。
「サカズキが、サインしたの?」
「何か問題でもあるんか?」
「俺に、一言あっても良いよね…」
これじゃまるで自分の物に手を出されて喚く子供だ。でもアリエルを預かっているのは確かに俺で、何の相談も無く、しかもアリエルを彼らに差し出すような真似をされて感情が激しく揺れる。本当はこんな事を二度とさせたく無いのに。
「センゴク元帥の言う通りじゃァ」
「…センゴク、元帥?」
「貴様に女なんぞ預けるから情がわいて使い物にならんようになる。まったく親子そろってとんだ疫病神だな」
刹那、俺は耐えきれず握り締めた拳を振り下ろしていた。冷気を纏い、溢れたそれに一瞬にして室内は凍てつく極寒の世界へ変わる。だが正反対の灼熱の力を持つサカズキと俺では、当然であるが決着など付くはずもなかった。
「…海軍大将が聞いて呆れる。あの女に随分と飼い馴らされたもんじゃァ」
とんだ腑抜けになったものだと、元から鋭かった眼光をさらに鋭くしてこちらを睨み付ける。
「忘れるなクザン。あれは乙姫、わしらとは異なる存在。お前とは生きる意味もその世界も違うちょる!…悪い事は言わん、あまり深入りするな」
「…サカズキ?」
「全ては絶対的正義のため…」
不意にその瞳が、それまでとは明らかに異なる色を映した。何だかとても切ない瞳で。突然大人しくなったサカズキにどうすれば良いか分からず、思わず帽子の鍔に隠れて見えない顔を覗き込む。しかしそこにはもう何も無くて、彼はただ黙って再び仕事に戻った。
偽りだらけの世界なら
海軍本部へ戻ってきたその日の内に、アリエルは研究棟から同じ敷地内にある海軍病院の方に移されていた。サカズキとの事もあって少し躊躇ったがすぐに会いに行く。海の見える個室だった。
「…アリエル?」
部屋に入り、窓の外を眺めていたアリエルの名前を呼ぶ。できるだけ優しく。
「クザンさん…?」
「その、お帰りなさい」
一体何を言ってるんだ!別にこんな事が言いたいわけじゃないのに。俺の言葉にアリエルはキョトンとしながらも、笑顔でただいまと答える。でもそれはいつもと違って少し引きつっていた。
「聞いて下さい、クザンさん。私久し振りに海に入ったんですよ」
「へぇ、そうなの?」
「ここに来てからは初めてで…」
きっとアリエルだって、俺が全部知ってると気付いてる。でも彼女は優しいからこんな時ですら周りに気を使って。
「実は私、北の海の出身で。やっぱりグランドラインって珍しいお魚さんとか多いんですね!私びっくりして。それに思ったより海が綺麗で!」
「…………」
「そういえば南の珊瑚が元に戻ったそうです!心配だったから良かった。クザンさんは見た事ありますか?」
人と海の共存、そして調和。いつか聞いた彼女の願いだった。その純然たる思いはある種の祈りにも似ている。違う、アリエルはずっと祈ってた。言葉は交わせなくても両者はきっといつか繋がれるのだと…彼女は信じてた。
「じゃあいつか必ず一緒に見に行きましょうね。…あ、でもクザンさんは能力者だから溺れるんじゃ」
「アリエル」
「っ、クザンさ…ん…?」
抱き締めて、抱き寄せて。強く。
「…っあ、クザンさん。わた、し!」
誰にも傷付いてほしくないだけ。笑っていてほしいだけ。そんな小さな望みすら叶えられないほど、この世界でアリエルは弱かった。
「私、ひと…殺して…っ?」
「大丈夫、みんな生きてるから」
「わたし…やだぁ、っ!」
あの日、魚人島に海賊が向かっていた事を海軍は知ってた。いや、知らないはずない。海軍の広い情報網はちっぽけな海賊船一隻すらをも絡め取ってしまう。ここは地上の地獄だ、彼女には。
「見ないで…私、見ないで…!」
「…見なくていいよ」
スッと瞳を掌で覆って、涙に揺れる世界を彼女から奪う。
「忘れるなクザン。あれは乙姫、わしらとは異なる存在。お前とは生きる意味もその世界も違うちょる!…悪い事は言わん、あまり深入りするな」
「分かんないよ、サカズキ…」
俺にはたった一人の少女を、アリエルをこんなに哀しませる意味も世界も理解できない。したくない。…あぁ、もういっそ何もかも全てを捨てて君の海の底に深く、二人で沈んでしまえたのなら。
(title:たとえば僕が)
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