握りしめたレシートがくしゃくしゃになっていた。自分の部屋のベッドの上であぐらをかいて座りながら、もう片方の手で握ったケータイのディスプレイとにらめっこを続けている。発信を押そうか押すまいか、ただそれだけの迷いでもう数分無駄にした。レシートの裏に走り書かれた数字の並びを覚えてしまうくらい復唱したし、今月自由に使える電話代がいくらかも確認したし、あとはそう、ボタンひとつ押すことができれば。

「……はぁ……」

 ていうか今どき自分のケータイ持ってないって。いやでも中学一年ならまだ持たせないもんなんだろうか? 俺は親が共働きだから小学校低学年のころに買い与えられたけど、普通の家庭ではどうなんだろう。なんにせよ狩屋がケータイを持っていなかったことは予想外で、しかも結構がんばって勇気を出してメアド教えてと言ったにも関わらず 俺ケータイ持ってませんけど。と真顔で返されて勝手にショックを受けたりもして。
 結局ポケットに入っていた買い食いの記録なるコンビニのレシートを裏返してしゃしゃっと数字を書いて、まあなんかあるんだったらここに電話してください、たいてい誰か出ますからと言ってなんともなさげに渡されたのが固定電話の番号だった。おい狩屋ちょっとこれは平成の時代を生きる俺にはハードルが高くないか?

「家電かぁ……」

 たいてい誰か出ますってそりゃあ十中八九保護者か兄弟だろう。見るかぎり狩屋は進んで電話に出たがるようなやつじゃないしむしろ鳴っていても他に誰かがいたら無視しそうだ。だとしたらこれは基本的な挨拶からこなす必要が生まれるわけで、こんばんは狩屋さんのお宅でしょうか雷門中サッカー部二年の霧野蘭丸という者ですがマサキくんはいらっしゃいますかって俺噛まずに言える自信ないんだけどなあ。お母さんとか兄弟ならまだしもお父さんとか出たらどうしたらいいんだろう。あーもう何これ、小学生のとき好きな女の子の家にかけるのくらい普通にこなしてたのに中学二年生にもなってなんでこんな。いやまあ狩屋はサッカー部の後輩であって女の子でもないけど。好きな子ではあるけど。

「……うー」

 そうこうしているうちにだんだん家に電話をかけるには非常識な時間に近づいてきて、ため息と葛藤がせめぎあってまだボタンを押せずにいる。部活の後とかに直接言えたらよかったのだけど、みんながいる前で休日ふたりで会う約束ができるような俺ならこんな電話くらい余裕でかけられるってもんだ。冷静だとか理性的だとか、まわりのやつはみんな俺をそんなふうに見てるらしいけど実際問題そう上手く出来た人間じゃない。特に相手が狩屋なら俺はとたんにみっともなくなるし、まあ惚れた弱みだとか言われればそこまでで、こうして電話ひとつに時間と体力をすり減らしてく。

「…………、よし!」

 もうどうにでもなれ。誰が出たって落ち着いてゆっくり丁寧に対応すればいい話なんだ。それくらいできるはずだ、問題ない、大丈夫。そう自分に言い聞かせて、ふぅと息を吐いて、それから吸って、意を決して小さなボタンに指をかけた。
 プッ、プッ、プッ、と何度か短い音が聞こえて、続いてプルルルルルと呼び出し音がした。どきどきばくばく高鳴る心臓はすでにクライマックス、ぷつっと受話器がとられるその一瞬息ができなくなる。

『はい』

 聞こえてきたのは女の人の声だった。若そうだけど狩屋のお母さんかな、よかったお父さんじゃなくてと思っていたら俺が何か言う前に『どちらさまですか』と先を越されて焦りが出る。

「あ、えっと。雷門中サッカー部二年の霧野です」
『雷門……? ああ、マサキでしたら生憎今お風呂に入っています。よろしければご用件お伝えしておきますが』
「えっ、あー、風呂……あっ……と、すいませんちょっと待っていただけますか」
『はい』

 手汗が。手汗がまじはんぱないですとか言ってる場合じゃない。どうしたらいいんだこれ。なんだよあいつタイミング悪いな風呂って。俺の悩んだ時間はいったいなんだったんだ? お母さん(?)は機械みたいに淡々と喋るし俺はテンパるし狩屋は風呂入ってるしでちょっともう収集がつかない、なにほんとこれどうしたらいい? 伝えといてもらう……、って、デートの誘いを? いやいやむりむり、そんなことできるわけないだろ恥ずかしさが致死量を飛びこえてる。無難なのは頃合いを見て掛け直すか、狩屋が風呂から出たら連絡してもらうか。まあ普通に考えたら掛け直すべきだろう。うんそれがいいそうしよう。

「あのすいません、また八時くらいにかけなお」
『今出たみたいなので少しだけお待ちください』
「えっ? あ、はい」

 ことんと受話器を置く音、ぱたぱた廊下を走る音が順番に聞こえた。お母さん(?)がマサキー、と呼んで心臓が跳ねて、えっ狩屋来る? もう狩屋来る? とケータイをしっかり握りなおした。耳をすますと遠くで小さい子たちがきゃあきゃあ言い合っているような声がして、狩屋んちは大家族なのかなと思った。下の兄弟たちといっしょに風呂入ってる狩屋を想像して微笑ましくなっていたら はあー、俺に電話ぁ? と聞き慣れた声がして思わずこくりと喉を鳴らした。

『もー瞳子さん、俺まだ髪びしょびしょなんですけど』

 狩屋の不満そうな声が近づいてきて、その後ろで瞳子さんと呼ばれたさっきの女の人の声も聞こえた。そんなこと言ってないで待たせてるんだから早く出なさい、えーやだもうめんどくせー風邪引いたら瞳子さん責任とってくださいね、『はいはいどちらさんですかあー』狩屋お前いろいろ丸聞こえだけど誰にでもそんな態度なの。

「風邪引いたらごめんな」
『うぇえびっくりした、霧野先輩?』

 うぇえってなんだようぇえって。

「霧野先輩で悪かったな」
『えー、だってまさかほんとにかけてくるなんて思わないじゃないですか』
「うーん……そうだな」

 俺だってできればかけたくなかったんだけどなあ、言ったら狩屋になんですかそれーと不服げに返された。うんまあぜんぶ俺の都合なんだけどさ。

『ちぇ、瞳子さんも瞳子さんで、霧野先輩だって教えてくれたらよかったのに』
「なんで教えなかったんだ?」
『さあ? 部活の先輩って言ったら俺が逃げるとでも思ったんじゃないですか』
「逃げるってなんだよ……じゃあもし俺だってわかってたら逃げてたのか」
『パジャマは着に行ってたかなー』
「つまりお前の優先度の問題かよ」

 失礼なやつだななんて言いながら、俺はちょっとだけ感動していた。スピーカーから狩屋の声がする。なにはともあれちゃんと電話はかけれたし、狩屋は出てくれたのだ。それだけでもう何もかも達成したような気分だった。

「……っていうか後ろですごい子どもの声するんだけど」
『へっ? ああ、ちっちゃいのいっぱいいるんですよ、うち』
「へぇー、まあ狩屋もちっちゃいけどな」
『なんなんですか喧嘩売るためにかけてきたんならもう切りますよ』
「ばか、ちがうって。大家族うらやましいなーって話だよ。ほら俺んち共働きだから基本的にひとりだって前言ったろ」
『……大家族っていうか……ねぇ』
「え?」

 狩屋の声のトーンがあからさまに落ちたのでびっくりした。なに、俺なんか悪いこと言ったか? 慌ててたずねたら狩屋は小さく笑って、大家族ってわけじゃないですと妙に明るく返ってきた。大家族じゃないのか。じゃあなんなんだと聞く前に狩屋が付け足すように言った。

『児童養護施設っていうんですかね。孤児院なんですよ』
「……そうなのか、……悪かった」
『あはは、なに謝ってんですか? 先輩きもちわるー』
「きもちわるーってなんだよこら」
『はいはいそれでっ! なんか用あったんでしょ? そろそろ本気で風邪引いちゃいますから早くしてください』
「あ、そうだな、えっと」

 ケータイに向かって何度もリハーサルしたから、ここから先は大丈夫だ。狩屋が断ってきた場合のシュミレーションもばっちりしたし多少ショックは受けても平静を装っていられるはず。ふと気づくと番号の書かれたレシートを強く握りしめていて、俺ってやっぱりちょっと狩屋にたいしては情けないよなと自嘲しながら、あぐらをかくのをやめて布団の上に後ろ向きに倒れ込んだ。こんなになってしまったのはぜんぶ狩屋のせいだ。

「お前この間観たい映画あるって言ってただろ」
『あー……言いましたね〜あれでしょ、実写化したやつ』
「そうそれ。でな、親が保険会社の人に招待券もらってきたんだよ」
『ほー』
「ふたりまで無料なんだけど、だから、その」

 いっしょに行かないかって、すぐそこまで来てるのに言葉にならない。たったそれだけが言えないなんてどうかしている。狩屋も狩屋で、流れから察してくれればいいものを黙ったまんまでいるし、変な感じの沈黙が三秒、五秒、九秒でやっと口を開いた。

『……えっ?』
「えっ? じゃないんだよ狩屋てめー」
『うぇ、なんで怒んですか先輩』
「お前がまぬけな声出すからだろ」
『ええ、だってなんて返事したらよかったんですか今の……まだなんかつづきありそうなかんじだったから待ったのに』
「う……」

 そう言われると言い返せない。さっさと誘ってしまえたらこんな思いをする必要なんてないのだけど、残念ながら俺の口は素直じゃなかった。おかしいな、これがもし神童相手だったらなんのためらいもなく「明日オフだし映画行こうぜ!」って、そんな軽くはないけどまあ普通に誘えるのに。

『先輩?』
「……あー、うん、わかってるわかってる大丈夫」
『いやなにがわかってるのかも大丈夫なのかも俺にはわからないんですけど』
「狩屋くん」
『はーい』

 狩屋の声は笑い混じりで、あ、これもう俺がこいつ好きなのばれてんじゃないのかと思った。なんですかあーせんぱあいって間延びした言葉さえいちいちかわいいって、そんなこと。

「あした、ひま?」

 きいたら狩屋はやっぱり笑って、でもその笑いかたがなんとなくうれしそうだったから俺もうれしくなって笑った。ひまですけどぉって笑い声にまぎれて聞こえて、あーもうごめんな狩屋、こんなかっこわるい先輩でさ。

『それはもしかして、デートのお誘いですか?』

 狩屋が明るい声でたずねる。俺は一瞬迷って、それから そうだよ、とはっきり返した。

「俺と映画、行ってくれますか?」

 まじめくさってそう言ったら狩屋はまた笑っている。俺の頭のなかはもう明日のことでいっぱいで、何時にどこで待ち合わせようかとか、映画のあとはどうしようとか。 はい、行きたいです、はにかんだかわいい声が聞こえたとき思わず やった! と口に出してしまって、恥ずかしくてたまらなくてなにがなんだか。狩屋はずっと笑ってるしケータイを握る手はもうべちょべちょで、ほら俺だっさい。狩屋のことになるとほんとだっさい。でも明日はがんばって楽しませるって誓うから風邪は引かないでいてくれますか?




20120226 miyaco
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