最後の音のそのあとで、拍手が耳に届くまでのごくわずかな一瞬がとても好きだった。スポットライトが交差するきらびやかなステージでも、芝のにおいのするサッカーグラウンドでもないけれど、ここに立つほんの数十分、どくどくと高鳴る胸はまだ落ち着きそうもない。 かっこつけてお辞儀をするくせ、ありがとうございましたの声がどうしてもガキくさい相方――と言うと漫才師かなにかみたいだけど――もとい狩屋が、曲が終わればすぐに散っていってしまう見物人たちをおっかけて次回の宣伝をしたりなんなり忙しそうなのを横目に、さっさとストラップを外して機材の片付けに取りかかる。最初のうちは時間がかかっていた撤退作業も今ではこなれたもので、規制やらなんやらで見つかって叱られないうちに済ませることができるようになった。 演奏を終えた身体は冬の風にさらされて痛いくらいで、邪魔だからと脱いでいた上着を慌てて羽織る。自分のといっしょにひっつかんでしまった狩屋のジャケットを渡しに行ってやろうか、迷ったそのときに後ろから「あのぅ、」と控えめに声をかけられた。 「……はい?」 振り返ると、立っていたのは女子高生かそこらの女の子三人組で、短いスカートにブーツをはいた真ん中の子が何やら熱い視線を投げかけてくる。 「えっと……俺に何か?」 たずねると顔を真っ赤にして一歩後退りしたものの、間髪いれず両側の子たちに背中を押されて距離が近づく。眉のところでばっさり切られた前髪は彼女の目を隠すことが出来ず、えっと、えっと、としきりに繰り返しているさまはちょっと微笑ましいくらいだった。 「あ、あの、……もし、もしよかったら、お、お、お名前を、教えてもらえませんか」 「……名前?」 聞き返すとこくこくうなずかれて、ああ、名前ね、と呟いた。 「エクレアです。E、C、L、A、I、Rでエクレア」 「っあ、あっえっと、ちがくて、その、……あなたの」 「あ、俺の?」 最初からそうだとは思っていたものの、答えるのには少しためらってしまう。本名知られたらネットで検索されてめんどくさいっすよー、と狩屋に皮肉っぽく言われてからまだそんなに日が経っていなかった。広めるならユニット名にしよう、名を訊かれたらそっちで答えよう、とふたりで決めたのだけど、こんな女の子が悪用するとも考えにくいし、教えたってバチは当たらないと思いたい。 「……蘭丸、です。らん、は花の蘭で」 「らっ、蘭丸、さん……、」 耳まで真っ赤に染めた彼女にどう返すべきか悩んで曖昧な笑顔を浮かべていたら、寒空に響く大きな声で「あーっ、先輩!」と呼ばれて肩が跳ねた。 「もう! ちょっと目をはなせばすぐ女の子たぶらかして!」 「た……っ、たぶらかしてはないだろ別に! 人聞きわるいこと言うな」 「はあ〜? こないだもキレーなおねーさんに声かけられてへらへらしてたじゃないですか! ……ああ、邪魔してすみません、でもこの人こんな顔してかなり遊び人ですから、やめといたほうが身のためですよ〜」 「おい! おまえはどうしてそうやってくだらない嘘を……ごめん、今の冗談だからっ」 狩屋の言葉のせいか、おろおろと視線を泳がせていた女の子に弁解すると、ぺこりと頭を下げて他のふたりを連れ走って行ってしまう。夜の東京に消えていくみっつの後ろ姿を目で追ってから、白々しくぴゅるぴゅる口笛なんかを吹いている狩屋に向き直ったら、察したのか俺が何か言う前に「だって先輩ばっかずるいもん」と子どもみたいな言いわけをされて思わず笑いそうになった。 「あのなあ、」 「ずるいもん」 「……ギター弾いてるおまえはかっこいいって」 「知ってます」 「知ってるのかよ」 なんだそれ、と突っ込んだら狩屋もちょっと笑って、だって俺かっこいいでしょ、って、まあ自分で言っちゃうのはどうかと思うけれども。手に持ったまんまだったジャケットを押し付けるとやや不満そうな顔をされたけれど、飯おごるからと言えばすぐに目を輝かせるので助かる。 「早く片付けるぞ」 「はーい」 ため息が白くほどけていって、まだ人の行き交う駅前、ちいさなちいさな演奏会は今日も無事に幕を閉じた。 狩屋と組んでストリートライブをするようになってはや数ヶ月、最初はビビって声も音もろくに出せなかったのに、今では固定ファンと思われる常連の人までいる。 高校一年のとき、友達に頼み込まれ助っ人として軽音部の掛け持ちをするようになった狩屋は、器用な性分もあり卒業するころには校内人気ナンバーワンのバンドのギターをつとめていた。大学に入ると同時に部屋を借りて一人暮らしになったというので、様子見がてら遊びに行って、隅っこに置いてあったベースが気になって見ていたら「さわってみますか?」と訊かれた、それがすべてのはじまりだった。 そこまで音楽のセンスがあるわけでもないド素人の俺にギターコードは理解できやしなかったけれど、狩屋が熱心に教えてくれたのもあって簡単な曲ならあっというまに弾けるようになった。ベースの太い弦が指になじんできたころ、即興でフレーズを作るのが得意だった狩屋に提案して短い曲を考え、お互いバイトして貯めたお金で充電式のアンプを買ったら、ワンルームを飛び出すまでそんなに時間はかからなかったと思う。俺は歌うより弾くほうが好きですから〜とマイクを任され、歌いながら弾くなんてできるかバカと思いながらも必死に練習して、なんとか自分たちの曲を最後まで歌いきったときの感動を今でもまだ覚えていた。 メロディはガタガタ、リズムはバラバラ、声は震えるし汗はかくし、横で狩屋は大笑いしてるしで散々だったけれど、タクシー待ちで暇を潰してたおじさんにもらった大きな拍手を今でも鮮明に思い出せる。あのころに比べたら格段にレベルは上がったけれど、俺も狩屋も昼間は普通に大学に通っているし、バイトも続けているしで、合わせられる日はそれほど多くはなく、新しい曲を作ってもなかなか合わせられず、下手くそな俺に狩屋が徹夜でスパルタ指導をしてくれたりなんなり、途中でいくつもささいなケンカをしながらずっとふたりでやってきた。キーボードやハーモニカもこなす狩屋は軽音部の経験もあって盛り上げるのがうまかったし、高めの俺の声は人の耳に届きやすいようで、騒がしい夜の主要駅前、俺たちのまわりに人だかりができるのがだんだん当たり前になっていった。 とはいえお互い将来的に音楽をやるつもりはないし、路上ライブもあくまで趣味の延長なのだけど、譜面をなぞるのはとても楽しくて面白くて、拍手をもらうたび自然と笑顔になれる。中学のときと舞台は違えど、となりには狩屋がいて、俺はそれが心地よくて、遠慮なく頼れることで安心できて。何も実を結ばないにしても、ただこうやってこいつといっしょにいられたら、笑っていられたら、ベースを抱きマイクを持つのにはっきりとした理由なんていらなかった。 アンプやらスタンドやら機材がぱんぱんに入ったリュックをふたりして背負いながら、風にさらされた階段をのぼる。2階の角部屋、もちろん防音設備なんてないので、大家さんに何度か怒られては同じアパートの人に頭を下げにいったっけ。大概の人は優しく受け入れてくれて、たまに聴きに来てくれたり差し入れまで用意してくれたり、猫かぶりをやめた狩屋は本当に嬉しそうにしていて、成長したもんだなあと昔を思い出してはにこにこしてしまう。入ってきたばかりの一年に毛嫌いされてどーしたもんかと当時は悩んだけど、あのとき信じてみてよかったと心からそう思えた。まさかそいつとバンドを組むことになるとは考えたこともなかったにしろ、だ。 「さて狩屋、風呂」 「まーた泊まってくんですか」 「なんだよ先輩と夜更かし嫌か」 「アンタいつも勝手に先に寝るでしょ」 「おまえんちの布団寝心地いいんだよ」 「ただ疲れてるだけだと思いますけどねえ」 せっかくふざけて言ってるのにそつなく返されて面白くない。荷物をおろし、買ってきたばかりのコンビニ弁当の袋を折り畳み式のテーブルに置いて上着を脱いだあと、もう随分と慣れてしまった風呂場に向かうその脚は、日没後ライブに出かけるときと同じくらい軽かった。 バスタオルで髪をわしゃわしゃと拭きながら戻ると、小難しい顔をした狩屋が紙とにらめっこで真剣勝負をしてるところだった。 何をしてるかは一目瞭然なので、邪魔をするのもなんだかなあとは思ったものの、冷蔵庫を勝手にあさって出したカルピスソーダの缶が空になるまでちらりとも目線をくれないのは若干さびしいと思う。クローゼットから客用の布団を引っ張り出してベッドのすぐ下にひいてあっちにごろごろこっちにごろごろ、毛布をかぶってしまえば眠くなるかと安易な考えで挑んでもさすがに煌々と電気がつきっぱなしの室内ではそううまくもいかない。 好きなことに対してのみ異常なほどの集中力を発揮する狩屋は俺に構ってやろうなんて気は微塵もないらしく、それが感心すべき点であるとわかってはいてもなんだかちょっと気にくわないのが霧野蘭丸という人間のめんどくさい部分だ。 「……、……あの、先輩」 横に並んで体育座りをしながら出来上がっていく譜面を覗き込んでいたら、案の定というか、まあ仕方ないというか、少なからず困ったような声で呼ばれた。はいはいなんでしょうか。 「ちょっと……近い」 「コンタクト外したんだよ」 「書き上がったら見せますから、」 「今見たい」 「うーん……」 並んでいる音符を追っても頭の中で再生されるほどできた脳じゃないから、眺めていても特に言えることもないのだけど。しいて言うなら真面目な顔の狩屋を見ているのが面白い。 「先輩寝るんじゃなかったの」 「目ぇ冴えた」 「あっそ。テレビでもみれば」 「あんまり興味ないんだよな」 「漫画」 「今はいいや」 「じゃあ、」 「狩屋それどんな曲?」 「……、バラード」 へえ珍しい。 思わずつぶやくと、ムッとしたらしく悪いですか、と睨まれた。いやぜんぜん悪くはなくてむしろ新鮮というか、エレキばっかいじってんのにゆったりした曲も書けんのかと。 「ラブソング?」 「まあ一応」 「ほーう?」 「なんなんすかその反応は」 だって、狩屋の書くラブソングなんて想像もできない。校内で人気の学生バンドのギターという晴れやかな称号もあってか、高校のときはそれなりにモテたようだったし、実際何人かと付き合ってきたみたいだし、どの子も狩屋なりに大事にしていたらしかったから、かわいいかわいくない後輩の恋愛観が気になるってもんだ。ポンコツなネーミングセンスは軽音部でかなり矯正されたそうなので、そこまでお笑いネタにならないのがこっそり残念だったけど、軽快で楽しげな狩屋の曲を好いてきた身としては新しいジャンルの譜面が見られるのは嬉しい。 「そわそわしないでください」 「してない」 「してますよ。顔が」 「顔がか」 そんなに表に出てるかと思いキリッとひきしめたら、こらえきれなかったのか狩屋がふきだして笑った。実に失礼なやつだ。 「なんです、今の」 「見とれちゃった?」 「はいはい、かっこいいかっこいい」 ため息まじりに言って再び譜面に目を落としてしまうから、俺はなぜかそれがちょっとさびしくて、やっぱりまた手元を覗き込む。楽しみ、ではあるのに、なんだろうかこの気持ちは。狩屋が誰のことを想って詞をつけるのか、考えてもわからなくて、少しだけへんな気分だった。 「先輩、重い。もたれかからないで」 「寒いんだよ」 「……んじゃ俺、暖房強めてきますから」 カタン、とペンを置く音がする。ベランダの手前に置かれたヒーターまでは距離があって、立ち上がろうとする狩屋のその手を、たぶん無意識のまんまひっつかんだ。俺が。 「……えっ」 「あ、」 間抜けな声を上げたのはほとんど同時だった。特徴的なつり目をまるくした狩屋が先輩、と小さく呼んで、呼ばれたあとも数秒頭が働かなくて何も言えなくて。 「え、……っと、いい。俺がやる」 やっとのことで絞り出した言葉を聞いた狩屋も、まだ半分ぽかんとしたまんまこくこくうなずく。取り落とすように手首をはなして、遠いか近いかもわからないヒーターのそばにたどり着いてしゃがみこんでも、どうしてか、どくんどくんと心臓がいたかった。 (なんだ、これ?) そんなにびっくりするとは思わなかった。狩屋だけじゃない、俺自身も。 俺のわがままのために手休めなくていいよって、邪魔してごめんって、なんかもっと言えることはあっただろうになんであんなことしか言えなかったんだろう。 温度調節の矢印に指をかけながら、ちっぽけなワンルーム、狩屋に背を向けたままで。本当はもうちっとも寒くなんてないって、そんなのには気づかないふりして、一度だけボタンを押した。 |