薄手のコート一枚では、この時期の寒さはもうしのげなくなってきている。
すっかり日の暮れてしまった町は人通りもなく、立ち尽くす街灯さえ冷たく思えた。四月に受かったばかりの会社は幸いブラックではなかったものの、完全なるホワイトとはとても言いきれない。決して物覚えの悪いほうじゃないけれど、あれこれ多方面から同時に言いつけられるとさすがにミスもするし、かと言ってわからないことがあれば気軽に聞けるようなアットホームな職場ではなかった。
新人だから、が通用するのはせいぜい夏までで、やっとの思いで勝ち取った就職先を早くも失うわけにはいかないからと毎日くたくたになるまで働き詰め、味もわからない晩飯で腹を満たして眠るためだけに部屋に帰る、そのくりかえし。週休二日なんてのはしょせん人集めのうそっぱちで、実際泥のように布団の中で過ごす日曜日に趣味の時間など作れそうもなく、一生学生でいられたらいいのにとばかみたいなことを思っては首を振ってばかりいた。仕事がたのしくてたのしくて仕方ないタイプの父親と母親からうまれたのに、どうしてこんなにおちこぼれなんだろうか。
何にも深く考えずにただグラウンドを走り回ってたあのころがひどく遠くに感じられる。みんなは今どうしているだろう、会いたいやつもいるけれど、集まりを企画したところで俺が参加できるかわかったもんじゃない。特徴的な髪型のおかげもあって、存在を忘れられてることはないとは思うが、今のままの姿で会ったところで誰も俺が霧野蘭丸だと当てられないかもしれない。冗談抜きで心配になるほど、鏡に映る男は朝が来るたびゆううつな顔をしていたし、かつて美形ともてはやされた面影だって失いつつある。
大学時代散々バイトして貯めたお金で、男のひとり暮らしには少々広い部屋を借りたっていうのに、数ヶ月たった今も家具はひとつも増えなくてさびしい限りだった。がらんとしたワンルームにぬくもりなんて欠片もありはしなくて、せめて恋人がいたら、遅くなっても笑顔で迎えてくれたなら、……なんて。考えるのは自由で余計に虚しくなってくる。

料理を作る気力も残っていない土曜日、またカップラーメンでいいやと半ば自棄になってそう思ったとき、通り過ぎた路地の向こう側にぼんやりとオレンジ色の光が見えた。なんとなく気になって数歩戻って、暗い路地をこえた先にうんと目をこらす。
(……こんな時間までやってる店なんかあったっけ)
ここらに住んでもう半年くらいになるが、仕事以外でほとんど出歩かないので、スーパーやコンビニと郵便局くらいしか位置を把握していなかった。
さっさと帰って飯食って寝たいという本能的欲求を抑え込み、少しばかり昔にかえったつもりになって狭い路地に入り込む。
どうせヨレた安物スーツだし、月曜は外回り営業の予定もない。飲食店だったら軽く食べて帰るのもいいかもしれないな、と思いつつ足元の排水溝を飛びこえて、おりたった暗い道でたった一軒明かりのついたその店を振り返る。
「……おぉ、」
思わずそんな声が出た。
年季の入った、小さな洋館のようなつくりに、入り口のドアまでつづく短い階段。こぢんまりとしたテラスには木々や花が植えられ、置かれたテーブルとイスはアンティークのような洒落たデザインで、それらを照らすカンテラ型のランプの淡いオレンジがどこか別世界のような空間を作り出していた。
低い立て看板が出ているので歩み寄って屈んで見たところ、ツタが絡みついたような変わった字体で『月乃珈琲店』とあり、その下に手書きでメニューと価格がずらりと並んでいる。珈琲店と言っても飲み物とケーキだけじゃなく、ハンバーグのランチセットやオムライスの表記もあって、ようするに食事もできる喫茶店のようだった。
そこまでお腹がすいているわけでも、コーヒーが好きなわけでもないけど、外観の何とも言えない雰囲気に心がひかれてしまう。近くにこんな店があったなんて知らなかった。さびれた通りで浮き上がるオレンジは疲れきったリーマン見習いにもやさしくて、ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから入ってみたい。緩やかな階段をのぼり、かけられたドアプレートを見ると、ラストオーダーまでまだ時間がある。こんなしなびたスーツで入ってもいいものか、いささか迷いもあったが、きびすを返す前に腹の虫が声を上げた。我ながら欲望に忠実でわらってしまう。
意を決してドアを引くと、頭上のベルがカランカランと小気味いい音を立てる。夜の喫茶店らしく薄暗い店内をそうっと見回していると、奥からいらっしゃいませえと明るい声がして思わず飛び上がりそうになった。
「お好きな席へどうぞ、すぐにメニューをお持ちします」
調理中で手が離せないのか、店員らしき男が厨房で動く影だけが見える。なんにも悪いことはしていないのになぜか足音を立てないように気をつけながら、木目の美しい床にそっと踏み出した。俺のほかに客はふたり、カウンター近くの小さなテーブル席にいる老夫婦だけ。どこに座るか悩んだけれど、なるべくすみっこのほうでゆっくりしたいと思い、窓際の丸いテーブルのそばの華奢なイスに腰を下ろした。
(場違い、というほどではないけど、これはさすがに……)
一見さんですと自ら語るようにそわそわしながら待っていたら、さっきの店員がとたとたと小走りで向かってくる音が聞こえた。恰好が恰好なので、どう思われているか考えると恥ずかしく、ろくに顔も見れないままメニュー表を受け取る。
「お煙草はお吸いになられますか?」
水の入ったお洒落なグラスとぴかぴかに磨かれた食器セットをてきぱきとテーブルに配置したあと、メニューを開く俺に問いかけた店員の、その声がさっきから少し気になっていた。
どうにも似ている、ような。
そんなまさかなと顔を上げ、灰皿はいらないと伝えようとして、そこから動けなくなった。
「……えっ、……か、」
狩屋。
名前を呼んだ、俺の声の間抜けさに自分でびっくりした。だって思ってもみなかった。
襟のぱりっとしたシャツに、茶色いスラックス、ポケットのたくさんついたカフェエプロン、無造作に結ばれた髪の色は変わっていなくて、左胸の名札にはたしかに狩屋と書いてある。
「お、おまえ、いつからここで?」
まさか、まさか、こんなに近くにいたなんて。ずっと会いたかった、ひどい別れ方をしてしまったから謝りたくて、もう一度伝えたいことがあって、だけど連絡先がわからないまま大人になって。もしかしたらもう一生会えないかもしれないと思っていたけど、かみさまはそこまで非情でもないらしい。
「狩屋っ、あの、あのさ、」
「灰皿は?」
「……、えっ?」
「必要ですか?」
なんら変わりないトーンに面食らった。他の客に接するのと大差ない、むしろ若干冷ややかに感じるくらいの声。思い出話のひとつでも交わすものだと勝手に想像していた俺は言いようのないダメージを受け、「い、いらないです……」と弱々しくつぶやくことしかできなかった。
「では、ご注文がお決まりのころにまたお伺いします」
「え、あっ、うん」
それ以上何も言わせてもらえず、くるりと背を向け厨房にかえっていく狩屋の後ろすがたを見つめ、まばたきを数回。
……あれは本当に狩屋だったのか、よくわからなくなってきた。もしかするとめちゃくちゃ似ている別人だったのかもしれない。
いや、いやでも、別人にしては似すぎだし、同じ名前のそっくりさんになんてそうそう出くわすもんじゃあないだろう。だとすればやっぱりあの店員は狩屋マサキ本人なんだろうが、それにしちゃあまりにもそっけなさすぎやしないか。
旧友との再会ともなればもっと喜ぶなり懐かしむなりしてもおかしくはないのに、狩屋の反応は決していいものではなかった。もうちょっと、せめて表情にくらい出してくれたって。
そこまで考えたところで、頭をよぎった記憶に手のひらを握りしめた。
……もう一度会えたからって、嬉しいわけがないんだ。
先輩後輩としてひどい別れ方をしていたならまだ、狩屋も俺もれっきとした大人だし、わらって流せていた可能性はある。だけど違う。
五年前、高三の冬。一方的にさよならを告げて、むりやり恋を終わらせたのは俺のほうだった。
(まだ怒ってるんだろうか)
あのときの狩屋の気持ちを考えれば、そうだとしてもおかしくはない。中学生のころからずっと一途に俺だけを見ていてくれた。はじめは煩わしかったし、ほっとけばそのうち間違いに気づいて他の誰かを好きになるだろうって、思ってたくせにいざ、あいつが俺じゃないやつに目を向けるようになるとぜんぜん面白くなくて、おまえが好きなのは俺だろって力づくで引きとめたりもして、今思い出しても実に身勝手なやつ。
結局どんどん夢中になって、告白されたから付き合って、デートもキスもセックスもして、毒ばかり吐くくちびるを好きだと言ってふさいでやった、あのとき俺たちはたしかに恋人同士だった。
すべてを絶つために連絡先を消したけれど、大学に受かってから勇気を出して電話をかけたらもう繋がらなくなっていて。そこでもう、完全に終わってしまったと思っていた。
「お客さま」
淡々とした声で我に返る。至近距離で見るともう間違えようがない、やっぱり狩屋そのものだ。
「ご注文はお決まりで―」
「狩屋、なあ、おまえ俺が誰だか、」
「ご注文は?」
余計なおしゃべりは無用と言わんばかりに一文字いちもじはっきりと区切られ、明らかに苛ついたような口調だった。日々上司に削られ続けてメンタルの弱り切った俺はここでちょっと泣きそうになる。
「え、えーっと、このパスタセットひとつ。ドリンクは……えーと……こ、ここのコーヒーって苦い?」
「普通だと思いますけど」
「じゃ、じゃあコーヒー。ホットで」
「ミルクと砂糖はおひとつずつでよろしかったでしょうか?」
「あー、いや、大丈夫、いらない」
「かしこまりました。以上でよろしいですか」
「うん、あ、でもデザート食べるかも」
「では、メニューはあとでもう一度お持ちします。……ご注文をくりかえさせていただきます、若鶏のクリームパスタのセットがホットコーヒーでおひとつ。お間違えないでしょうか?」
「う、うん、」
すっかり大人になった腕が伝票にボールペンで注文を書き付け、無駄のない動きでメニュー表を回収する間もずっと目が離せなくて、それこそ穴のあくほど見つめ続けていたら、失礼しますとつぶやいて軽く頭を下げた狩屋が突然ふっと噴き出すみたいに小さくわらった。
「……霧野センパイ、ブラック飲めるようになったんですか」
感心したような、それでいてどこか小馬鹿にしたような、懐かしい表情。
嬉しいのと驚いたのとで数秒固まってしまって、俺が声を出せたときにはもうキッチンに入ってすがたが見えなくなっていた。突然のことに頭がついていかない。狩屋が、狩屋がわらって、俺を見た。
喫茶店のスタッフとしてじゃない、狩屋マサキとして。
たった一瞬で仕事の疲れなんて吹っ飛んでしまった。俺のかわいい、かわいい元恋人。いや、図体のでかさ的にはもうかわいくともなんともないのだけど、それでもだ。あんなに好きだった、大好きだった。一生をともにしたいと本気でそう思ってた。
「こんな、とこ、いたのか……」
なんでもっと早く見つけられなかったんだろう。
別れてから毎日まいにち、会いたくて仕方なかったくせに、嫌われてしまったかもしれないと探すのを怖がって、忘れられもしないからなにか別のことで埋めようと醜くあがいてばかりで。自分の過ちを悔いると同時に、思い出せる表情や仕草のひとつひとつ、いとしくて頭がおかしくなりそうだった。
狩屋に会えた、また会えたのだ。これ以上に嬉しいことがあるだろうか。なくしていたパズルのピースを見つけたみたいに心が晴れ晴れとしている。やっぱり狩屋がいないとダメなんだ。もうずっと前からそういう身体になってしまっていた。
どくどくと高鳴る心臓はしばらく落ち着きそうもない。止まったままだった恋が再び動き出すその音を、狩屋に聞かれるのが恥ずかしくて、喫茶店のすみっこでひとり、こっそりと胸にしまいこんだ。
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