ロゴいりの買い物カゴを手に店内を回っていたら、ポケットのなかでケータイがふるえだした。思いつく相手なんてひとりしかいないから、ろくにディスプレイを確認もせずに通話ボタンを押すと、狩屋、と聞きなれた声が俺の名前をなぞる。
「はーい、なんですか?」
『ごめん、もう店出てる? 片栗粉たりなくなっちゃってさ』
「あー、わかりました。いちばん量少ないのでいいですよね? 他になんかいるものありますか」
『えっと……とりあえずは大丈夫だけど、食べたいものあったら適当に買っていいよ』
料理の真っ最中なのか、電波の向こうからはじゅうじゅうと食欲を刺激する音がきこえた。授業とサークルのコンボで疲れきっているおかげで今日はめいっぱい食べられそうな気がする。
追加注文の電話を終えてもう一度ケータイをポケットに押し込むと、カゴを右手に持ち直しさっきよりずいぶんと軽くなった足で調味料コーナーへと向かった。


次の土曜日、暇なら遊びにいかないか、そういう内容のメールが来たのは先週のこと。本当はすでにバイトが入っていたのだけど、同期の友達に頼んでなんとかかわってもらってむりやり休みにした。
もうすぐ本格的に就活がはじまるから忙しいだろうに、まさかあっちのほうから誘ってくれるだなんて思ってなくて、絶対行きます! と声にして伝えたら、わざわざ電話までしてこなくてもと言いながら先輩はちょっとうれしそうにわらっていた。

はじめて出会った日から数えて八回目の冬、俺は大学二年、先輩は三年。
正直なはなし、中学を卒業したら疎遠になると思っていたのだけど、先輩は頻繁に雷門に顔を出しては熱心に後輩たちの指導を手伝ってくれる上、別れ際にはいつも「なにかあったら遠慮なく俺に相談しろよ」と決まり文句のように言ってきた。今考えると先輩も俺も同学年にDFがいなかったから、自分の経験からしてきっと大変だと思ったんだろう。実際いろいろともめたことはあったし、こんな部さっさと引退してやる! とヤケになった日もなくはないけど、天馬くんやほかのみんな、後輩たちとは今でもたまに会ってご飯食べに行ったりしているから、円満なまま俺も卒業することができたと思っている。

先輩とは、メールも電話もしなくなって、それどころか高校が思いの外忙しくて存在すら忘れそうになった時期もあった。もしかしたらもう一生会えないかもなーなんて考えてた矢先、サッカー部の練習試合でばったり再会して久しぶりに話をして、以前のように連絡を取り合うようになってから今日まで、ささいなケンカは数あれど、まわりにからかわれるほどなかよくやってきた。
先輩と俺は容姿はもちろん性格なんて似ても似つかないし、趣味もバラバラ、好きなバンドも服の好みもだいたいぜんぶ重ならない。ほんとにサッカーくらいしか共通点なんてないくせに、なんでいっしょにいるのかと聞かれたらお互いなんとなく、としか答えられないけれど、先輩がいちばん話しやすいし、となりにいて心地がいいのはたしかだった。
神童先輩という巨大な存在が近くにあったころはよくわからなかったけど、先輩もたぶん俺のことをすごくかわいがってくれている。手間のかかるやつほどなんとやらだな、とひとりごとのようにつぶやかれたとき、ほんとはちょっとうれしかったんだってのは、今でも先輩にはないしょにしたまんま。


一階にある駐輪場に自転車をとめて、ふたつの白いビニール袋をよいしょと抱える。空はすでに暗く、風はつよくはないけど冷たかった。
合鍵でロックを解除して、エントランスホールと呼ぶにはあまりに狭い空間を突っ切りエレベーターに乗り込む。最初に来たときは大学生の男ひとりに大層なセキュリティだなと思ったけれど、このあたりはたいして治安がよくないので先輩の親も心配だったのかもしれない。
可憐な見た目とは裏腹に剛腕なあの人のことだから、ストーカー程度ならひとりでもどうにかしてしまいそうな気がするけれど。
ピンポン、と弾んだ音が鳴り、金属の扉がゆっくり開く。誰もいない廊下に出てすこし歩いて、扉の前に着いたら若干迷いつつもインターホンを押した。数秒待って、ガチャリという音とともに先輩が中から顔を出す。
「こんばんは」
「おー、買い物ありがとな」
俺が両手にぶら下げていた袋を引き取って、晩ごはんのにおいが充満する部屋へ先輩はさっさと戻っていく。並べて三足靴をおいたらいっぱいいっぱいになるようなちいさな玄関をこえて、脇にある棚の上に置かれた水槽をいつものように覗き込んだ。
「……あれっ、また減りました?」
問いかけると、簡素なキッチンで料理の仕上げをしていた先輩が「あー」と肯定とも否定ともつかない声を上げる。
ひいふうみい、動き回るのをなんとか数えると、もともと二十二匹いた熱帯魚は今や八匹になっていた。
「ちっちゃいのとか、弱いのがでてくると、すぐ攻撃し出すんだよなあ」
去年の春、先輩が一人暮らしをはじめたときに、男のひとりはさびしいから魚が飼いたいと言って育てだしたブルーテトラは、どうやら種類的な性格に少々難がある。かわいいその姿に反して非常に気性の荒いこいつらは、気にくわないやつを追いかけ回し、いじめ抜いたあげくにつっつきころしてしまうらしい。
角度によって青くきらきらと輝くうろこに夢中になって、水槽の前に長い時間へばりついている俺に先輩がそう教えてくれたあと、「狩屋みたいだろ」と言われたのをまだはっきり覚えている。
「この調子じゃあ、春が来る前に一匹だけになっちゃうんじゃないですか」
「うーん、どうだろな……。でも、ひとりになったらかわいそうだよな」
それは誰に向けて言ってんのか、きいてみようかと思ったけれど、まちがいなく魚のことだろうから何も言わなかった。
「狩屋、手洗って皿出して」
「ほーい。深いやつ?」
「ん。あとお椀な」
「了解」
背負ってた大学用のかばんを部屋んなかに放り投げ、洗面所でばしゃばしゃ手を洗う。
……まわりのやつを攻撃した結果ひとりぼっちになるなんて、そんなの自業自得でしかない。俺だってもうすぐ二十になるんだし、雷門のばかで明るい仲間たちのおかげで今はちゃんと信頼できる友達も作ることができる。
そういえば先輩は、中学のとき俺がガキくさい嫌がらせや意地悪をして謝ってないことをもう許してしまったのかな。なにもなかったみたいにやさしくしてくれるけど、それについては長年聞けずじまいだった。



晩ごはんの最中に電話がかかってきて、見たい番組なのにと嘆きつつベランダに出てった先輩は、戻ってきたときやたらと目を泳がせていた。なんだなんだどーしたと聞いたら、バイト先の後輩から相談したいことがあると言って呼び出されたらしく、夜のうちに帰るからちょっと出てきてもいいか、とのことだった。水槽の世話はきちんとするくせに部屋はわりと散らかし気味な先輩は、相も変わらず自分のことより人のことのほうが気になるらしい。
どうせ明日は昼すぎに起きるんでしょういいから行って来てくださいよとビシバシ背中を叩いて追い出したはいいけれど、時刻はすでに午前二時半、さすがにちょっと心配というか腹立つというかぶっちゃけ遅すぎるんじゃねーのって。
だいたいそんなに酒に強いわけでもないのに、へんに頼られがちなせいでいつも誰かの相談相手に駆り出されて、見栄をはるのかけっこうな量を飲んで帰ってくる。どうして知っているかと言うとまあおおまかな話は本人に聞き、実際以前一回ふらっふらになりながら歩いてるとこを目撃かつ保護したことがあるからで。翌日が学校の日は自制すると言ってたけれど、今回はどうだかわからない。最悪の場合明日は遊びにいくのを取りやめて二日酔いの先輩の看病だな、とおそろしいことを考えてぶんぶん首を振った。
いやいやいや、それじゃあわざわざ泊まりに来た意味がなくなってしまう。

持ってきたもののやるタイミングはないだろうと思ってた課題もとっくに済んでしまって、風呂も入ったし歯も磨いたしすることがない。仕方なくテレビを見たりケータイでゲームをしたりして暇を潰しているうち、よい子の俺はだんだんと眠くなってきた。お日さま園のすこやか教育を長年受け続けたおかげで、この歳になっても夜更かしがいまいち得意になれないでいる。
「はぁ……」
かと言って俺が爆睡かましてるあいだに、酔っぱらった先輩が外で車に跳ねられでもしてたらたいへんだ。気がかりなら電話のひとつでもしてやればいいのかもしれないけど、まだその相談とやらが続いていたとしたら中断させるのも申し訳ないし、ケータイを手に部屋んなかを行ったり来たり、最終的にたどり着いたのは熱帯魚の水槽の前。ポンプからぶくぶくたちのぼる泡でこまかく揺らぐ四角い水面に、青いからだがきらりと反射して光る。
「おまえらはいいよなあ……」
狭い箱のなかで、なんにも知らないままゆらゆらと泳いでいるだけ。俺が近づくとこちらに寄ってきて上のほうで口をぱくぱくさせるので、そばにおいてあるエサの入れ物を一振り、我先にと奪い合う八匹の魚がなんだかかわいくてちょっと笑顔になる。
先輩が何を思ってこいつらを選んだのかは知らないが、俺はこのブルーテトラたちの青いきれいな色が好きだった。
そもそも昔から水族館とかペットショップで魚を見るのが好きで、先輩にも何度か話したし、夏休みにいっしょにショーを見に行ったこともある。当時先輩は中三で、受験をひかえた夏だったのだけど、どう見ても俺よりはしゃいでたのしそうにしていたのがつよく印象に残っていた。
まさかそれから何年もいっしょにいて、今でもこうして関係をもつことになるとは、あの時の俺は考えもしなかっただろう。
先輩も俺も、お互いの知らない友達がいるし、それぞれ彼女ができてプリクラを見せ合ったり、思い出せば恥ずかしくてすっ転がりそうな恋バナをした夜だってある。
いい意味でもわるい意味でもまっすぐで正直な先輩は、基本的に隠したがる俺としては気をつかわなくていい珍しい相手だし、明るく交友の幅の広い先輩にとっても俺は飽きずに話のできる面白い後輩のようで、つまり簡単に言うと利害の一致。
気が合うのかといえば首をひねるけど、仲のいい数人から誰かひとりを選べというなら、俺はほぼ100%先輩を選ぶだろう。
具体的な理由はよくわからないけど、霧野先輩のそばがいちばん俺が俺でいられる場所だった。

ふよふよ、ふよふよ、尾を揺らして泳ぐブルーテトラは、とても仲がわるいようには見えなくて、それでも少しずつ死んでゆくのが不思議に思える。
魚のちいさな頭とからだでも感じることはあるんだろうか。弱そうに見えたからいじめた相手が、自分よりずっとつよくてやさしかったとき、こいつらならどうするんだろう。
寝ぼけた脳でそんなことをぽつり、ぽつり、考えながらうとうとしていたら、右手にある玄関扉がガチャン! といきなり大きな音を立てて思わず飛び上がった。泥棒かと思って若干びびりつつも、そうっとドアスコープから外を覗いたら、ピンク色の頭がぐったりもたれかかっているのが見える。
「せ、先輩?」
体重がかかって重い扉をなんとか押し開けて、ぐらつくからだを中に引っ張り込む。たしかに酒のにおいはするけれど、潰れるほど飲んだような感じはしない。ただ、どうしてだか、コートの中に着ている服が首元から腹にかけてぐっしょり濡れていた。
「か、りや、……ごめ」
「い、いや、いいですけどいったいなにが……」
「……うっ、」
「おわあああ待ってください吐くならトイレ! 吐くならトイレ!」
「は、吐かない、吐かないから……」
「だっ、大丈夫ですかほんと……水持っていきますからあっちで横んなって、ああでも先に服着替えなきゃダメか、えーと」
ずっとこめかみをおさえているので、どうやら頭が痛いらしい。自分とそう身長の変わらない男を支えたまんまなにかをするのは無理があったから、とりあえず先にソファに座らせておいて、タンスから適当に服を選び出す。がっくりうなだれた先輩の腕をどうにか上げさせてびっちょびちょのベストとシャツを引っ剥がして、ウワー先輩細いのに意外と筋肉あるんですねー! とかなんとか気をまぎらわすためにしゃべりつつ持ってきた服を着せた。脱がしたやつにこっそり鼻を近づけてみたら柔軟剤のにおいしかしなくて、酒をぶっかけられたとかそういうわけではないみたい。
冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出し、あわてすぎてちょっとこぼしつつもコップを先輩に持ってったら、頼りなくかすれた声でありがとうと言われた。
「な、……なにか、こう、修羅場的なアレだったんですか」
うまいことばも見つからないまま口を開いたらそんなことを言っていた。先輩に今彼女がいるかどうかは知らないけど、こんな様子で帰って来られると俺もさすがにびっくりする。どんな相談をされたのか、それがもし別れ話とかそんなんだったらつじつまが合うような合わないような。
しばらく深い呼吸を繰り返したあとで、先輩が口にしたのは「か、かりや、ごめん、さむい」だったのでいそいで暖房を強にして、じゃあ寝ちゃいましょうともう一度支えて立ち上がらせた。そりゃあこんな冬の夜、湿った服でうろついたらからだも冷えるに決まっている。
意識はちゃんとあるらしいが、平衡感覚がばかになっているのか足どりのおぼつかない先輩をよたよたベッドに連れていきつつ、俺ももう寝るしと思って途中で部屋の電気を消した。外灯が明るいのでそれでもベッドの位置くらいはわかる。
「ほら、先輩、」
パイプ製のベッドにもう一歩近づこうとした右足が、なにかを思いっきり踏んづけた。
「い、……った!」
おそらく置きっぱなしにしていたテレビのリモコンだろう。頭ではわかっていたけれど、からだがどうにも追いつけなかった。突然の痛みにバランスを崩したあと、ばちんと音がしてテレビの電源が入るのを横目で見たとき、俺はベッドの上で、先輩は俺の上で、それから。
「……んっ……」
深夜のトーク番組が部屋のなかを照らして、先輩の顔が見える。
それはものすごく近くて、いや、ただ単に近いだけじゃあなくて、こんな、くちびるとくちびるがくっつくほど。
目を見開く先輩も酔いが醒めたんだろうか、事態を把握しそこねた俺の頭はまるで働いちゃくれない。
重力に従って落ちてきた先輩の長い髪がひやりと冷たくて、ああ外はほんと寒かったんだろうなと、そんなどうでもいいことを考えるくらいしかできなくて、先輩の酒くさいくちびると自分のをぴったり合わせたまんま、まるで世界中の時が止まってしまったかのようだった。

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