窓の外で蝉がいっぴき、みんみんみんみんあきもせずに鳴いている。下校時刻を過ぎた廊下は俺以外だれもいなくて、持って帰りそこねた教科書でいっぱいのかばんを肩にぶら下げたまんま、木製の柱にもたれて先輩を待っていた。
 あっつい、何度つぶやいても気温が下がることはない。シャツの胸元をひっつかんでばたばたあおいでみたけれど、前髪がすこし持ち上がるていどの風しか起こらなかった。
先輩と、先輩の担任の話は、俺がここに来て二十分経った今もまだつづいている。開けはなたれた職員室の扉からこぼれる先輩の声をぼんやり聞きながら、あつい、意味もないつぶやきをまたひとつ、廊下に落としてはため息をついた。
 明日から待ちに待った夏休みだっていうのに、どうにも気分が乗らない。理由はなんとなくわかっていた、でも認めたら受け入れるしかなくなってしまうから、まだまだ知らないふりをするつもりでいる。
 はじまる前からおわってほしくない、だなんて言ったら、たぶん先輩はわらうんだろう。狩屋はばかだなあって、いつもみたいに表裏のないあかるい笑顔をひっさげて。
思春期の不安や葛藤も気にせずやってきた夏は、今年も遠慮なく暑かった。海と山と川に囲まれたこの小さな町じゃ、夏休みにできることなんて限られている。歩いて四十分もかかる学校に来なくてすむのはいいけれど、予定らしい予定なんてないし、かといって宿題はなるべくギリギリまでやりたくないし。ゲームもマンガもアニメもないこんな片田舎で、いったいどうやって夏をたのしめって?
 ……ひとつだけ思い当たるものがあるけれど、それさえ叶うかはわからない。なんにせよ先輩だ。いつまでかわいい後輩を待たせる気なんですか。

「――じゃあ、よろしくお願いします、先生」

古い校舎の床がギッときしむ音に思わずぴんと背筋を伸ばす。数秒後扉から顔を出した霧野先輩は、脇にいた俺を見てすこしだけびっくりしたような顔をして、それからぱあっと花が咲いたような笑顔になった。

「狩屋! 待っててくれたのか。ごめんな、連絡しなくて」
「べつにいいですよ。歩いて帰るより待つほうがずっと楽なんで」
「なんだよやっぱり自転車めあてかよー」

 口を尖らせてぶーぶー言ってみせるけれど、きっと俺の考えてることなんてばれている。俺の手首をひっつかみ、スキップさえしかねない足取りでるんるん昇降口へ向かう先輩はたのしそうで、見ているとさっきまでの憂鬱なきもちがばかみたいに思えてくるからふしぎだ。

「んじゃ、門で待ってろよ」
「はーい」

 げたばこでさっさと靴を履き替え外へ踏み出したら、照りつける太陽が肌をさしてちょっといたい。ついこないだまでうっとうしいくらい梅雨が猛威をふるっていたってのに、今はあの雨が恋しいほどに暑くて困ったもんだ。

「かーりやー!」

 背後からの声に振り返ると、ぎんいろに光る自転車にまたがった先輩がこっちにやってきて、俺のとなりでキュッと停車する。

「ホレ、かばん貸して」

 差し出された手に重たいかばんを渡したら、てっきり文句を言われるだろうと思ったのになんともなさげにカゴに突っ込まれた。相変わらず顔に似合わない男らしさだよなあ、心のなかでそう言って、先輩のうしろにひょいとまたがる。「乗ったか?」きかれたのでてきとうに返事をして、先輩のまっしろいシャツをそっと握った。
 動き出した自転車は校門を抜けて、くたびれた町を走る、走る。くたびれたーなんて言っても、比較するべき都会の町並みを俺は知らないのだけど。
 左右を流れてく景色は今やあたりまえになってしまって、それがすこしうれしいようなさびしいような、へんなきもちだった。

「あつくなってきたなあ」

 そう言う先輩の首筋にはうっすら汗がにじんでいて、俺はその背中にゆるくつかまりながら「そうですねぇ」ってのんびりことばを返す。

「明日から夏休みだってさ、信じらんねーわ」
「やーいやーい受験生ー」
「うっわ悪魔の呪文やめろよ中学最後の夏をエンジョイさせろ! レッツエンジョイサマー」
「ぶはっ、先輩なにそれうける、えんじょいさまーって」
「エンジョイサマー! ウィズ狩屋ー!」
「ちょっと、俺巻き込まないでくださいよ」

 あっはっはっは、先輩はたのしそうにわらう。きれーな顔をくっしゃくしゃにして、わらう。

「……あー、でも、夏休みおわったら狩屋と遊べなくなるかもなー」
「勉強?」
「んー。やっぱしなきゃやばいだろ」
「先輩あたまいいじゃん」
「まー狩屋よりはな」
「俺だってほとんど5か4なんだけど」
「ばーか三年からは十段階評価になるんだぞ」
「なったらどーなんの」
「それは、えーと、……あれだよほら。三年になったらわかるわおまえも」
「なんだよそれぇ」

 先輩がまた、わらって、なにか言い返そうとしたらちょうど坂道にさしかかって、急に立ちこぎするからあわててつかむ場所を変えなきゃなんなくなって、「ちょっ」もらした声を風がかきけして坂の向こう、エメラルドブルーの海が太陽のひかりを水面にいっぱいこぼしていた。

「おおっと霧野選手ー! ぶっちぎりの一番ですっ!」

 あほくさく叫ぶ先輩にめいっぱいしがみついて、自転車はトップスピードで坂を走り下りてく。車なんて一台も通ってやしなくて、それどころか人すらいなくて、そんな町をふたりでびゅんびゅん、場違いなほどはしゃいで。

「ぶ、ブレーキブレーキ! 先輩ブレーキ!」
「狩屋うるせー! 風になれー!」
「いみわかんな……ッだからはやいって! こわいこわいこわい!」

 目に映るのはぎゅっとにぎりしめた白いシャツと、先輩の髪のあざやかな鴇色。海の碧いきらめき。
 すべてが色づくこの一瞬が、この町でただひとつ、俺のすきなもの。

「今日も俺の優勝でしたーイエー! はい狩屋祝って」
「……おめでとーございます……」
「なんだなんだテンション低いぞー」
「毎日まいにちこれやられる俺の身にもなってくださいよ」
「えー? でもたのしいだろ」

 な? って念を押されても参加選手一名の自転車レースのたのしさはわかりゃしないけど、先輩がたのしそうなので俺もこっそりわらう。
 夏休みがおわったら、先輩とこんなばかみたいなやりとりはできなくなるらしくて、たからものに似たあの一瞬も見れなくなって、俺はまたひとりぼっちでこの町のつまらなさにうんざりしながら生きてくんだろう。
 そのうちに先輩は卒業して、どっかの高校に行っちゃって会えなくなって、輝きかたをわすれた世界はまたもとどおり、くすんだ色にもどるだけ。海のあおさも夏風のやわらかさも、先輩の体温も。きっといつかは忘れていってしまう。

「狩屋まだ新しい自転車買わないのか?」
「あいにく貧乏なもんで」
「卒業までにおまえと競争したいんだけどなー」
「あの坂を? じょーだんは顔だけにしてくださいよ」

 新しい自転車なんて買っちゃったら、もう先輩のうしろには乗せてもらえなくなる。先輩俺はね、案外よわいにんげんなんですよ。入学早々自転車がぶっこわれたかわいそうな後輩のままでいれば、やさしい霧野先輩ならずっとそばにいてくれるかもなんて、そんなの、無理だって知ってるくせにねがってる、ばかなやつ。くやしいから先輩にはおしえてあげない。

「うおお見ろ狩屋ちょうど引き潮だぞ」
「あー、ほんとですね引き潮ですねそれがどうかしましたか」
「海よってかえろう」
「マジかよいきなりすぎるでしょ」
「はい進路変更ー」
「くっそ進路決めれんの運転してる先輩だった!」
「うーみーはーひろいーなーおおきーいーなー!」
「そのむだにいい声なのむかつくわぁ……」

 大声で歌ってる先輩はさておき、海が近づけば俺もテンションが上がる―わけもなかった。海なんて家からいつでも見れるのだ。特別感なんてこれっぽちもありゃしない。先輩だって毎日見てるくせにこれだから、ほんとにへんなとこ子どもっぽいひとだと思う。

「海ついたぞー」
「見ればわかりますよ」

 なにより近い。ちょっと曲がって、みじかい坂をおりたらもう防波堤にたどり着く。観光地じゃあるまいし、海の家もなければ水着のカップルもいない、ただの海が一面に広がっているだけだ。
 自転車を降りると潮風がほっぺたをなでて、はやくもべたべたする。俺の気配を察知したフナムシたちが防波堤のつなぎ目におおあわてで逃げ込むのを見ながら、先輩がそばに自転車をとめるのを待った。

「……よし、いくか!」
「先輩はほんっとにいつもたのしそーですよねぇ」
「おう、おまえといっしょだからな」

 おひさまみたいな笑顔をひっさげて照れもせずにそう言うから、こっちのほうが照れてしまう。先輩は正直で裏表がなくって、嘘や強がりばかりの俺とは正反対だ。胸にかかえこんだこの気持ちを俺だって伝えたいとは思うけど、ことばにしたらひどく幼稚な気がして、結局ひとつも口にできないままでいる。
 身長とたいして変わらない高さの防波堤に器用に飛び乗って、先輩は俺に手を差し出す。素直につかまってひっぱりあげてもらって、並んで積まれたテトラポッドのどこから降りようか。

「狩屋いけそう? 手ぇつなぐ?」
「子どもか俺は。もう何年ここで暮らしてると思ってんですか」
「ははは、こけんなよ」

 こけませんよーだ。べえっと舌をだしてみせて、いちばん近くのテトラポッドに足をかける。びっしりくっついてるフジツボですべらないように気をつけながらちょっとずつ降りていくと、先輩もうしろを追っかけてきていた。

「よっと」

 色気のない、ビーチと呼ぶにはあまりに殺風景な砂の上に降りたって振り返ると、上までけっこうな高さがあってちょっとびっくりした。降りるのはまあいいものの、これをのぼるのはなかなかきつそうだ。

「サンダル持ってきたらよかった」

 俺のとなりに降りてきた先輩がスニーカーを脱ぎだしてぎょっとする。このひとまさか入る気なのか。

「ちょっと、はだしはあぶないですって。ガラスとか落ちてたりするんですから」
「まー大丈夫だろ」
「怪我しても知りませんからね」
「うん」

 危機感のかけらもない、がきくさい笑顔を浮かべた先輩が波間に向かって走り出して、俺もため息をつきながらその背中につづいた。波がひいてはよせて、ひいてはよせて、しずかに泡を立てさらりと消えていく。
 先輩は制服のすそをまくって、ばしゃばしゃ音を立てて海のなかへ、両手をうつわに海水をすくって「狩屋、うみ」って、もうなんか、いろいろややこしいことばっか考えてる俺のほうがばかみたいに思える。
靴もくつしたも脱いでズボンをまくったら先輩がよしこい狩屋! って言いながら両手を広げて、だれがとびこむかあほめって思いながら勢いよくそのうでのなかに飛び込んだ。先輩ごと海んなかに倒れたらどうしよーってほんのちょっと不安になったけどぜんぜんそんなことはなくて、先輩はしっかり俺を受け止めて抱きしめて、耳元でうれしそうにわらっている。

「狩屋はかわいいなー」
「……俺にそんなこと言うの、先輩だけですよ」

 風が吹いたら濡れた足がひやっとしてきもちいい。先輩に手を引かれながらすこし深い所へ、途中で海底の砂に足をとられて思わずぎゅっとすがりついたら、またちょっとわらわれた。

「狩屋」

 俺を呼ぶ、あまくかすれたひくい声。
 波音にまざって空にとけたら、つないだ手がほどけるのがこわくなって、「先輩」ちいさな声で呼び返した。

「このままずっと、おまえとふたりでいられたらいいのにな」

 海とおなじエメラルドブルーには俺の姿が映っていて、なんともいえない想いでこころが満ちる。もしもその目をいつまでもひとりじめできたなら、それはいったいどれくらいしあわせなんだろう。

「……せんぱい、」
「なあ狩屋、かけおちしよっか」

 つないでいないほうの先輩の手がほっぺたにふれて、心臓がひとつ、おおきくはねた。

「どっかとおく。ふたりで」
「……、うん」
「いいの?」
「いいよ」

 ぐいっとひっぱられてもう一度先輩のうでのなか、今度はさっきよりずいぶん熱くって汗をかきそうなくらい。ひらべったい胸にくっついたらどくんどくんって、先輩の音。

「……狩屋、」

 呼ばれたから返事をしたら、先輩はなにか言いかけて口を開いたけれど、結局言わないままに抱きしめるちからを強めただけだった。



 くたびれた町を、俺と先輩を乗せた自転車が走る、走る。
 定時を知らせる音楽が道のスピーカーから流れて、町はゆったりと終わりへ向かっていた。買ってもらった棒アイスをちびちび食べながら、近づいてくる今日のぶんのさよならにそっと身をふるわせる。

「エンジョイサマー、ウィズ狩屋、実現だな」

 ぽつんと先輩がつぶやいて、顔を上げたら鴇色の向こう、夕焼けの赤に上塗りしたような夜の色。
 またたきはじめた星をながめて、どうか最後まで巻き込んでください、ねがう声をきこえないように、こっそり風にまぎれこませた。

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