付き合いはじめてから今日まで、おかしいなと感じたことは何度もあった。狩屋が何も言わないから、俺だって深く問い詰めることはしなかったけれど、どうやら予想していたものとはまるで違ったらしい。
 悪さをしたのが母親にばれたときみたいな顔をした狩屋は、しきりにごめんなさいごめんなさいとばかり繰り返していて、それが見ていてあんまり可哀想だったから、沸き上がる怒りが爆発できずに喉のあたりにつっかえている。掴んだ太ももに爪が食い込んで、怯えるように狩屋が息を吸い込んだ瞬間、ぽたりと涙をこぼしたのは俺のほう。
「……なんで?」
 悲しさとか、悔しさとか、そういう感情が相まって、震える手を伸ばしたらまたひとつ、求めてもいない謝罪が鼓膜を揺らす。
「……俺のことからかって、遊んでたってこと?」
 触れた肌は紛れもなく狩屋のものなのに、もはや何か違ういきもののように思えた。
 ……こいつは俺の隣で笑いながら、べつの誰かと。
 そう考えると吐き気がした。これまで積み上げてきた色んなものが一気にぶち壊されたような気分だ。じんわり滲んだ蜜色の瞳を見つめ返すと、数分前とは全く違った理由で脈打つ心臓が警笛を鳴らす。
 ……だめだ、ちゃんと、ちゃんと訊かないと。きっと何か、言えなかったわけがあるに決まってる。わずかに残った理性を振りかざし、働かない頭をひっぱたいて、強く結んだ唇をほどいた。
「俺に、話せるよな、狩屋。全部」
 優しく、優しく言ったつもりだったのに、殴られたかのごとく表情を歪めて、「先輩、ごめんなさい、ごめんなさい」って、そんな言葉はこれっぽっちも欲しくないんだと一体何回思わせたら気が済むのか。
 脚の付け根、内ももの、恥部に極めて近いところ。左にふたつ、右にみっつ、まだ色濃く残る誰かの欲の痕。
 長らく見え隠れしていた影をやっと捕まえた、そんな気がした。






 目の前にそびえ立つタワーマンションに思わずこくりと唾を飲み込んだ。
 狩屋の口ぶりからなんとなく、金持ちの男であることはわかっていたけど、まさかここまでとは。そんじょそこらの人間なら踏み入れる機会にさえ恵まれないような、あからさまに威圧を放つ建物を前に、多少なりとも怖じ気づいたのは事実だった。
 ……だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。

 言い渋る狩屋を促したり慰めたり、時には怒鳴ったりもして、なんとか聞き出したのはただの浮気よりももっともっとたちの悪いはなし。
 俺以外と身体の関係を持ったことがある、そんなのは知っていた。知っていて目を逸らし続けてきたのに、狩屋本人から告げられると思いがけない大ダメージを食らってしまった。
 そりゃまあ、お互いはじめてのはずなのに、あんなにすんなり繋がれるなんておかしい、って。いくらなんでも気が付く。過去に何があったのか、狩屋が自分で口にするまでは訊かないでおこうと思っていた、俺が馬鹿だった。
 でもまさか、かわいい後輩が、恋人が、今もその相手と関係を持っているだなんて。容易に想像することは出来ても認めたくはなかった。

「……狩屋。わかってるよな?」
 手のひらをきつく握りしめて問いかけたら、狩屋はこくんと小さく頷く。
 いたいけな中学生に平気で淫行を働くような男だ。許されないし、許さないし、しかるべきところで罰を受けてもらう。告発すれば確実に逮捕できるだろう。
 こんな超高級マンションに住むような人間が捕まれば、どこかに何かしら影響が出るかもしれないが、そんなもの俺の知ったことじゃない。
 恩人だからどうか、と泣きつく狩屋は「じゃあ俺と別れるか?」の一言で黙ったくらいだし、実際見かけだけで大したことないやつなのかもしれない。そう考えるとますます、それくらいのやつに金の力でいいようにされている狩屋が可哀想で仕方がなかった。
 俺が困ってたときの金銭の援助が先で、行為とお金は関係ないんです、とは言っていたけれど、親のいない狩屋につけこんで身体を差し出させたようにしか思えないし、どんな理由であれこのまま見て見ぬフリは出来ない。
 ……本当は、狩屋をすっぱり切り捨てて、そいつといくらでも自由に援交してろよって言いそうにもなった。
 だけどこうやって直談判しに来るほど、狩屋をそいつから取り戻したかったし、もうこんなことさせたくないし、何より俺が狩屋と離れたくなかった。惚れた弱みとでもいうのか、狩屋だって苦しんできたんだろうと思ったら、自然と怒りはべつのほうへ向いて、半ば無理矢理会う予定を取り付けさせて。昨日の今日でまだ気持ちはまとまっていないけれど、とりあえずそのクソ野郎に一発食らわせてやりたいとだけ、たしかに思った。

 どでかいガラスの扉をひとつ通り抜けると、風除室の奥の扉の向こうに、俺のような平凡な中学生には理解できないようなだだっ広い二層吹き抜けのエントランスホールが見えた。落ち着かない俺とは対照的に、狩屋は慣れた手つきでカードキーをリーダにかざして、認証を終えた扉が左右に開く。
「……先輩? 開きましたよ」
 豪勢な造りに声も出ないまま立ちすくんでいると、狩屋がためらいがちに俺を呼んで、はっと我に返り慌てて返事をした。セレブが宿泊するホテルのような内装は立派としか言いようがなく、こんなところで生活する人間と関わりがあるだなんて、何かの間違いじゃないかとさえ思う。
 内部のフロントにはコンシェルジュらしき女性が立っていて、狩屋の顔を見るなり会釈をし、「狩屋様、ようこそいらっしゃいました」と透き通った声で言った。
「あ、ええと……いつもの件で……」
「かしこまりました。それではご連絡しておきます」
「ありがとうございます」
 眼前で行われるやりとりに、つい先ほどまであんなに高ぶっていた心はすっかり萎縮して、変な汗までかいてくる始末だ。
 これはもしかしなくても来ちゃいけない場所に来ちゃったんじゃないかと、内心びびっているのをなんとか狩屋に悟られないよう表情を取り繕って、ちょっとした部屋くらいのサイズがありそうなエレベーターに乗り込む。
 振動も音もほとんどなく静かに上へ上へと昇るあいだ、狩屋がぽつり、俺の名前を口にした。
「先輩、……俺、嬉しかったです。先輩が俺のために怒ってくれて。最低なことしてるってわかってたけど、でも俺は先輩が好きで、言い出せませんでした。ごめんなさい」
「……もう、いいって、お前は悪くないだろ」
「……ごめんなさい」
「だから謝らなくても」
「ごめんなさい、違うんです、ごめんなさい……」
「狩屋」
「先輩がまだ俺を好きでいてくれるなら、それは願ってもないことです。俺も、……俺も先輩だけ見ていられたらよかった」
 うつむいているから、狩屋の顔はわからない。
男のもとへ行くのが怖いのか、俺が恩人を警察に突き出す気でいると勘づいてるからなのか、弱々しく震えた声は自分への暗示のようで、何と返すのが正解なのか見つけられなかった。
 場違いなほど明るい到着音と、階数を告げる機械的な声がして、俺の知っているマンションとはまるで違う、不気味なくらい閑静な廊下が来訪者を受け入れる。
「……あの人にはきっと、誰もかなわないんです」
 諦めたような呟きをエレベーター内に残し、ゴミひとつない長い廊下へ踏み出した狩屋に、半歩遅れてついていく。足取りは決して軽くはなく、本音を言えば今からでも帰りたいところだったけれど、なんとか押さえつけて心を奮い立たせる。
 ……怖がることなんて何もないはずだ。
 男に淫行を認める発言をさせて、それを携帯で録音する。証拠として警察に持って行って、狩屋にも事実を話してもらって、そしたら間違いなくすぐに捕まえることができる。これだけ金があるなら揉み消そうとするかもしれないけど、なんとしても追い込んで相応の刑を受けさせる。そう強く誓った、数十秒後のことだった。
 狩屋の指が呼び鈴を鳴らして、カチャリ、機械操作でロックが外れる音。内側から押し開けられた扉のうしろに見えた、燃えるような赤い髪。形の整った顔に珍しいフレームの眼鏡。ふわりと漂う嫌味のない香水のにおい。
「……やあ。よく来たね、狩屋……それに、霧野君も」
 にこり、爽やかな笑みで俺と狩屋を迎えたその男は、吉良ヒロトは、あの吉良財閥の若社長で、元イナズマジャパンで、少し前にはレジェンドジャパンとして俺たちと一戦を交えた、あの吉良ヒロトそのものだった。
「……っ、え?」
 頭では理解できた、けれど信じられない。
 ――この人が狩屋を? ……嘘だろ?
「どうしたんだい? そんなところで固まってしまって……さあ、遠慮せずに入って。……ああ、そうだ、狩屋、皿を出しておいてくれるかな。会社でケーキを頂いて。食べるだろう?」
 依然として突っ立ったまんまの俺に一瞥もくれず、軽く返事をした狩屋はさっさと中に入っていってしまう。残された俺は呆然と、細工の施されたかのように整ったその顔を見つめて、開いた唇から「あなたが?」とうわ言のように問いかけた。
「あなたが……狩屋を手込めにしたっていうんですか?」
 なぜ今日、俺がここに来たのか、知らないわけじゃあないだろう。
 それでも彼は人のいい笑顔を崩さずに、「何の話かな?」と少し首を傾げてはぐらかす。
 まだ信じられない、信じたくない、だってこれはつまり、あのエキシビションマッチの時すでに狩屋は。この人は。
「……霧野君、紅茶は好きかい?」
「……はい」
「それなら良かった。先日いいところのを手に入れてね。気に入ってもらえたら嬉しいよ」
「……、はい……」
 マンションの一室なのに神童の家に勝るとも劣らない玄関に一歩踏み込んだら、もう引き返すことは出来ない。

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