中学一年の冬、帰り道にいつも見える遠くの店の看板の文字が、目を凝らさないと読めなくなっていた。 幼い頃から視力のよかった人は老眼になりやすいだとか、そんなはなしはテレビかなんかで聞いていたからてっきり、ああ俺もそのコースかなって思ってたのに。 中学二年、春。新学期お決まりの測定の日。身長がちょっとだけ負けてて、来年は見下ろしてやるからなーなんて神童と笑いあった、そのすぐあとだった。 小学校のときのとは違って、上下左右、ななめにも向いてるあのアルファベットみたいなマークを、去年は全部言い当てた自信がある。だけど今年はまるでわからなかった。いちばん上のははっきり見える、にばんめも見える、さんばんめも、たぶん、見える。よんばんめは、……見えてる、ような、気がする。機械的に文字を書き込む白衣を着た女の人から受け取った紙には、さっき武道館ではかった身長と体重と、それからCがふたつ、今度はほんもののアルファベットだった。左、C。右、おなじくC。この項目でA以外を見たのはこれがはじめてで、おどろいたというより、すぐに言葉がでてこなかった。 ……視力が、おちてる。 梅雨も明け、白い雲がうっすら、水色の上にこぼれたような空をながめていた。もう弁当を食べ終わったのか、校庭からは男子生徒の声がきこえてくる。 昼休み、相も変わらず雷門中の屋上には人がこない。マンガやアニメに影響されて屋上で弁当をーなんて、夢を見たところで、実際の屋上ってのはそんな広くもないし掃除されてないから雨やなんやで汚くて座りたくないし、とてもじゃないけど物が食えるような環境ではない。そんなとこで平然とあぐらかいて菓子パン食ってる俺がきっとどうにかしてるんだろう。 教室で昼飯にするのが嫌なわけじゃないし、神童たちといっしょに食べることももちろんある。食べ終わったら外に出てサッカーするのも楽しいし、好きだ。ただ、食ってすぐ動くと腹がいたくなるのだけはうれしくないけれど。 だからってべつに、屋上が好きってわけでもない。言ったとおり汚いし、狭いし、そのまま座るのもなんだかなーやだなーって具合で、今日だって尻の下に菓子パンの入ってたビニール袋を敷いている。じゃあなんでけっこうな割合でここに来るのか。理由は最近できたばっかりだ。 金属製の扉がぎぎぎ、ぎぎぎぃ、いやな音をたてる。空から目をはなしたら、ひょっこり顔を出した狩屋が俺を見て、……わらった、のかもしれない。この距離だとどんな顔してるのかはっきりとわからなくてやっかいだ。 「もー、また先に食べはじめてる」 正面に立った狩屋は口をとがらせてそう言って、俺と同じようにビニール袋を下に敷いて。はーどっこいしょー、っておまえおっさんくさいぞ、言ってやったら、第二校舎の食堂ってここから遠いんですよ? って、そうまでしてこんなとこ来なくてもいいのに。 「からマヨ弁当かい狩屋くん」 「うっさい」 「だってそればっか食ってるだろ」 「文句あるんですか」 わりばしをぱちんと割って、狩屋が俺をにらむ。このくらいだったらちゃんと見えるんだけどなぁ、なんて思いながら、「太るぞ」 自分の菓子パンもなかなかカロリーが高かったような気がしないでもない。 ひとり、屋上で食ってるのがばれたとき、狩屋はそんな俺を笑うでもなく避けるでもなく、ただひとこと、いいなあ、って、そう言った。何がいいのかぜんぜんわかんなかったけど、じゃあ今度おまえも弁当もって来たらって冗談めかして誘ったら、さっそく次の日やって来て、それまで見たことないようなうれしそうな顔して 俺屋上で飯食うのはじめてですっつって、やっぱり何がそんなにいいのかわかりゃしない。こんなとこの何がいいのって聞いたらはぐらかされて結局まだ答えは知らないけど、でもまあ、ふたりで屋上飯もわるくはなかった。 「なぁその新しいいちごみるくうまいの」 「くっそあまいですよ」 「ちょーだい」 「うえぇ……」 「そんな顔されると先輩傷つくわー」 不満そうな狩屋の手から四角いパックを奪ってひとくち、たしかにあまい。めちゃくちゃあまい。米と唐揚げ食いながらよくこんなもん飲めるなぁこいつ。 「ちょっと! 飲みすぎ。もういいでしょ」 「えー狩屋のケチ」 「はあ? 後輩の水分とっといてなにをえらそうに」 「そんなこと言ってていいのかな」 しかめっ面の前にすっとプリンを持って行くと、とたんにきらきらの笑顔になって、「さっすが霧野先輩! モテる男は違いますねーもう!」って、現金すぎるというかなんというか。おおいそぎでからマヨ弁当を口につっこむ狩屋を見ているといろんな悩みとか葛藤がどうでもよくなってくるからすごい。プリンの透明なフタをはがしながら プッリン、プッリン、狩屋がうれしそうにるんるん口ずさんで、俺はちょっとわらってしまった。かわいいなーって、何のにごりもなくそう思う。 「うまい?」 きいたら宇宙人語で返ってきてわけがわからない。菓子パンの透明な袋を細長く折りたたんで、きゅっとむすんで、太陽にすかしてきらきら、まぶしくて、なんとなく狩屋の目みたいだと思った。空が青くてとっても平和だ。 「ごちそうさまでした」 ご丁寧にぱんっと手のひらを合わせる狩屋をこいこい、手招きして呼んで、なになにまだなんかくれるのって顔して寄ってきたところをぐいって引っ張ってキスした。「うわ、すっごい、プリン」 狩屋がぷんすかしながら当たり前でしょ食べたばっかなんだからって、言って、その顔が見えるから、うれしくて抱き寄せる。 「……なに、どしたの」 「んー」 この体勢つま先がつらいんですけど、狩屋が言うから丁寧に抱き直して、膝をついて背中に手を回して、ぎゅっと。尻を浮かせた体育座りみたいになった狩屋がまだもぞもぞ身じろぎをする。 「はー……あったかい」 「先輩くるしい」 「狩屋のお子さま体温」 「なぐるよ」 「イヤァーヤメテェー」 「なんなのこわい」 こわいってなんだよこわいって。 「狩屋好き」 「はぁ。それはどうも」 「冷たい」 「ワアーうれしい俺も先輩スキー」 「泣く」 「泣くの?」 うん、泣く。答えてからうええぇん、うええぇん、いかにもわざとらしい泣き真似をしてみたら、何を思ったかぽんぽん背中を撫でてくれて、ちょっと本気で涙が出そうになる。 「なんかあったの」 狩屋が言って、俺が泣き真似をやめても、背中を撫でる手はぽんぽんぽんぽん、とまらなくて、それがうれしかった。 「……なんにもないんだけどさ、なんにもなさすぎて」 「あ、そーですか。心配して損した」 空が、青くて、どこまでも続いてて、見えるような見えないような曖昧さでそこにある。神童もみんなも、なにもかもがゆっくりゆっくり、わからないくらいのはやさで毎日すこしずつ見えなくなっていく。怖くて逃げ出して、狭くて広い、この屋上でひとりきり、そのほうが楽だった。はっきり見えるものなんてもう、数えるほどもない。 今、腕のなかにすっぽりおさまる、ちっぽけなこいつは、いったいいつまでこうしていてくれるだろう。 いつの間にかでかくなって、俺よりもでかくなったりしたらやっぱりもう、こんなふうには接することができなくなるんだろうか。 ごく近くにある体温をいとしいと思う。たとえ目が見えなくなってもぬくもりなら感じることができる。だけどそれがなくなったとしたら、俺は何にすがって生きればいい? ちいさな手が背中をゆっくり撫でて、あったかくてうれしくて涙を出さずに泣いた。狩屋が好きだ。 「なぁ」 「はい?」 「好き」 「……さっきもききましたけど」 「ほんとに好き」 こいつに依存するようになるなんて思ってもみなかった。だけどたぶん扉の向こう、わざわざ俺のためにやって来てくれたあの時から、あたまのどこかではわかってたのかもしれない。ぼやけた世界から飛び出して、俺の目の前でこいつは、笑う。それが俺にどれだけのしあわせをくれるかも知らないままに。 顔が見たくて腕をゆるめると、気恥ずかしいのか目をそらされて、そんなとこもかわいいって。髪が触れるほど近く、息をまぜあわせたら、その赤い頬がまたはっきりわかるうちにどうか、どうか。 「おまえだけは、俺の見えるとこにいて」 約束のふりをしたずるい言葉。返事をきく前に唇をふさいで、臆病なキスを。ほのかなカスタードの味を奪うように深くすくいあげて、それから閉じこめて、狩屋が息苦しさに胸を叩くそのときまで。 20120925 miyaco |