蹴りこんだボールが白いネットに吸い込まれていくのを見送って、はぁー、と長いため息をついた。ここに来たときはまだ明るかった空も、今やすっかり夜に染まっている。いちおう、学校を出てすぐ瞳子さんに連絡を入れたけど、こう暗いとさすがに心配させてしまうかもしれない。 ……そろそろ切り上げるか。 練習していた新しい技はまだ納得のいく出来ではないけれど、瞳子さんに叱られるのはあんまり得意じゃない。ゴールポストの中に転がったボールをひろって、河川敷グラウンド脇のベンチに置いたかばんをとりに行こうとしたとき、ふと階段の上に人影が見えた。街灯に照らされたのは、とても見覚えのあるシルエット。

「神童先輩!」

 頭のなかにその名前が浮かぶがはやいか、声に出した俺に気づいた先輩が 狩屋、と呼ぶのがきこえた。大あわてでかばんをひっつかんで階段をかけあがったら、先輩がにこにこしながら言う。

「えらいな、こんな時間まで練習か」
「は、はい! でも暗くなっちゃったし、帰ろうかなって……」

 まさか、こんな時間に神童先輩に会えるなんて思ってもみなかった。
 小学生のころから使い古してずいぶん汚れたサッカーボールがなんとなく恥ずかしくて、先輩に見えないようにそうっと隠しながら、「これからどこかにいくんですか?」なんて、平静をよそおってきいてみる。

「いや、用事が終わって、今帰るところだ。狩屋の家は……たしかおなじ方向だったな?」

 もう遅いし、送るよ。 そのことばが耳から頭につたわったとき、すぐには理解できなくて、思わず「えっ?」と声を上げたら、俺を見つめる先輩がちょっと申し訳なさそうな顔になって、「ごめん、よけいなお世話だったか? でも夜道はあぶないから」とかなんとか、にわかには信じられない。

「いい、ん、……ですか?」

 とぎれとぎれになりながらそう言ったら、暗くてもわかるきれいな笑顔で 俺でよければ、って返された。とたんに胸のおくでなにかがわきあがって、やった、やったぁ、先輩と帰れる、うれしい、素直にそう思う。「じゃあ、行こうか」 先輩がやさしく言って、歩き出したその背中を追いかけた。


*


 長かったフィフスセクターとの戦いもホーリーロードも終わり、雷門サッカー部は"本当のサッカー"を無事取り戻すことができた。俺はもともと転校生だったし、入部当初はとある先輩ともめたりもしたけれど、いまはみんなとも仲良くやっていて、練習はきびしくてもたのしい日がつづいている。放課後が待ち遠しくてしかたないなんて、前いた学校では思ったこともなかった。 キャプテンを神童先輩と呼ぶのにはまだ慣れない。天馬くんが新キャプテンになったことに異論を唱える気はないし、今はみんなをまとめたり指示したりですっかりキャプテンらしくなったと思う。
 でも俺のなかでキャプテンといえば、どうしても真っ先に浮かぶのは神童先輩だ。キャプテン、ってずっと呼んでたから、思わずそう呼んでしまったとき、すこしだけさびしそうにわらった先輩の顔をまだ覚えている。もしかしたら先輩は、ほんとうはその呼び名を失いたくなかったんじゃないかって思った。天馬くんに託したあの日、どんな気持ちだったんだろう? 俺にはわからないけど、退院した神童先輩はわらっていたから、とてもたずねる気にはなれないまま。 神童先輩とふたりで帰るのは、実ははじめてじゃない。先輩が怪我をする前にも一度だけ、たまたまいっしょになったことがある。初夏の風のふく帰り道、先輩が話してくれる色んな話に聞き入った。興味のなかったことも面白おかしく教えてくれて関心がわいたり、知らなかったことを丁寧に聞かせてくれて勉強になったり。狩屋が気に入るかも、ってすすめられた本を普段行かない図書室で借りて読んでみたら、はまりすぎてなけなしのおこづかいで買ってしまったほど。
 お互いいつもは違う人と帰るから、もう神童先輩と帰ることはないだろうと思ってたけど。

 街灯の横を通り過ぎるたび、長さのちがう影がふたつ。先輩やっぱり身長高いなあ。俺も二年にあがるころには伸びるかな。ゆったり話す先輩の心地よい声を聴きながら、夜の道をならんで歩く。今日の話はまず、先輩の家の猫について。ひたすらかわいいかわいい言うのではなくて、びっくりしたエピソードとか、猫の仕草の豆知識とか、舌が肥えてグルメになって困ってるだとか、そうやっておりまぜて話してくれるからちっとも飽きない。クラスの子との会話なんてすぐつまんなくなっちゃうのに。

「いいなあ、どうぶつ。俺もなにか飼ってみたい」
「狩屋の家はペット禁止なのか?」
「うーん、まあ。場所がなくて……」

 のらねこはよく庭に入ってくるんですけどねー、わざとらしく困ってるようなそぶりで言ったら先輩はくすくすわらってる。
 そういえばこのあいだ、天馬くんがこっそり教えてくれた、――神童先輩はすこしまえまで泣き虫だった、って。顔には出さなかったけど、きいたときはびっくりした。まじめでやさしくて、かしこくて、ひたむきで、サッカーが大好きで、プレーしてるすがたがとってもかっこよくて。そんな容姿も頭も性格も、なんにも持ってない俺だけど、こんな人になりたいなって思うし、心から尊敬してる。だからって先輩が泣き虫だったってきいて、驚きはしてもきらいになったり、敬うきもちがなくなったりはしなかった。その心に抱えていたものが軽くなったのかどうかは知らないけれど、先輩はわらっているし、きっと俺が心配しなくたってもう。

「じゃあ今度うちに来るか? 狩屋」
「えっ、ほんとですか? 行きたいです!」
「ああ、とびっきりうまいケーキを用意して待ってるぞ」
「ちょっ……先輩それだれにきいたの」

 天馬くんですねっ、さあどうだろうな、ていうか俺べつにケーキすきってわけじゃないですから、それじゃあいらないか、えっうそですうそです食べたいです、はいはいわかってるって。
 先輩の声が、笑顔が、まぶしくてまぶしくて。暗くてよかったって思う。作りわらいじゃない、ほんとの笑顔を見せるのは、まだちょっと恥ずかしい。ちいさな子をほめるみたいにぽんぽん、俺の頭をなでてきて、こんなの神童先輩じゃなきゃさせないってこと、きっと先輩は知らない。「狩屋はかわいいなあ」、なんて言われてうれしいのも、先輩にだけ、とくべつだ。 月にかかっていた雲が晴れて、夜道がすこしだけ明るくなる。なんとなしに上を見たら、星がきらきらきらきら、稲妻町を見下ろしていた。「先輩、ほし」 俺の声に導かれるように空を仰いだ先輩が、「ほんとだ」ってつぶやいて、それから俺を見て。

「あれ、たぶんかに座」
「えー、どこどこ」
「あそこ」
「う……うーん……?」

 先輩のゆびさす方向をじっとながめてみてもさっぱりわからない。まずかに座がどんな形なのかも知らないんだから当たり前だ。目をこらしてうんうんうなる俺をよそに先輩はつぎつぎ星を見つけて、あれがなんだこれがなんだって教えてくれるけどやっぱりわかりっこない。でもこんなにはしゃいだ先輩を見るのははじめてで、星よりこっちを見ていたいと思う。

「あっ、狩屋! あれならわかりやすいぞ!」

 先輩がうれしそうに声をあげて、俺の腕をしっかとつかんだ。「ほらあれ、赤いのがあるだろ?」 とたんに心臓がはねる、はねる、「あの白いのと斜めにつないで、」 顔は近いし、体温がじかに伝わってくるし、「そしたら見える三角が頭で」先輩は真剣に星座のかたちを教えようとしてるし、とつぜんすぎていろいろパニックでなにがなんだか。

「狩屋、わかったか?」

 星たちに負けず劣らずきらきらした笑顔で振り向いた先輩は、俺の顔を見てちょっと面食らったようだった。立ち止まったあたりは静かで、俺たち以外にはだれもいない。月あかりに照らされて、先輩の顔もおなじように真っ赤になっていくのが見えた。「あ、す、すまない」 つい盛り上がってしまって。そう言ってはなれていった手にほっとしたような、なごりおしいような、あいまいな気持ち。

「や、びっくりしただけなんで、だいじょうぶ……です」

 なんとなく先輩の顔を直視できずに、ふらふら目を泳がせる。すこしのあいだつづいた気恥ずかしい沈黙は、やがて俺の携帯電話のバイブ音でやぶられた。悪い予感しかしないままポケットから取り出して開くと、新着メール一件、瞳子さん、の文字。あちゃー、と思いながらいそいで返事を打っていると、先輩がひかえめな声で おうちの人か、と聞いてきた。

「そろそろ鍵しめるわよ、って」
「か、かぎ? もしかして締め出しか?」
「メールが来るうちはまだだいじょうぶだと思います。ほんとに怒ってるときは無言だから……」

 しゃべりながら書き終えて、送信ボタンを押してポケットに突っ込みなおしてふうとため息をついた。顔をあげたら先輩が一目でわかるくらいおろおろおろおろしていて、それがちょっとおかしくてわらってしまう。

「先輩、帰りましょ」

 ね、って念を押したら、やっといつもの先輩に戻って、ああ、って言ってわらい返された。この笑顔が、ほんとうに、すきだ。


*


 お日さま園へつづく最後の曲がり角で、先輩のそばをそっとはなれる。くるりと向き直って、じゃあ、ここで。言ったら先輩はにっこりほほえんで手を振ってくれた。

「また明日な、狩屋」

 そのことばにゆるむくちもとを隠しきれないけれど、どうせもうばれている。
 ちいさく頭を下げて、背を向けて歩き出したら、さっきまでとおなじ星空が見えた。手をうんとのばしたら、きらきらきらきら、濃紺の上でまたたく星たちに届きそうな気がする。
 星座はわかんないけど、でも、今日の空はとってもきれいだ。




20120915 miyaco

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