『あ、もしもし、雲雀さん?ごめんなさい、ちょっと遅れそうなんです!…15分位…ごめんなさい!なるべく急いで行くので、ホントごめんなさい!』
留守録を再生すると、今日待ち合わせていた彼女からのそんな声が入っていた。
「僕を待たせるなんて、いい度胸だね」
止めたバイクに凭れながらケータイのディスプレイに吐いたそんな言葉は、ざあっと頭上を吹きぬけた風に攫われた。その風に促される様に見上げると、柔らかそうな真新しい緑とその合間から射す金色が見えた。
「雲雀さん!」
5月の青い空に映える緑ときらきらと揺れる木漏れ日眺めていると、息を切らして彼女が公園に入ってきた。新緑と同じ綺麗な緑色のワンピースは色素の薄い彼女の髪と瞳にとても似合う。「ごめんなさい!」とまだ整わない息のまま僕に駆け寄る彼女の膝が少し赤くなっていた。他を見遣れば、腕にも擦れたような跡がある。
「どうしたの」
「ごめんなさい!忘れ物し「違うよ」」
彼女の声を遮りながらその腕を掴むと、彼女はあからさまに驚いて後退った。けどもう遅い。
「どうしたの」
「―あ、ころ、転んじゃって!急いでたから、私ド「ドジだね」」
僕のその一言に、彼女は返す言葉がないと言う様に気後れした笑顔を浮かべた。そんな彼女に溜息を落として、腕の汚れを掃ってやる。驚いて腕を引っ込め様とした彼女に構わず、僕は軽く指を滑らせて綺麗にしてやった。すみません、と小さな声が聞こえて彼女を見遣ると、彼女は頬をほんのりと赤くしていた。学校では見た事がないそんな表情をしている彼女に、僕の方まで乱されそうになる。
それを気付かれない様に少し屈んで膝を見遣ると、ここも擦り剥いたんだろう、そんなに酷くはないが血が僅かに滲んでいた。
「…」
「―あ、大丈夫ですよ!」
「歩ける?」
「全然平気です!走ってきたし!」
「…それもそうだね」
形の良い膝から視線を彼女に戻すと、僕の顔を覗き込んでいる彼女と目が合った。無防備な小鹿のような瞳を前に、僕はくるりと背を向けて、彼女を置いて歩き出す。
「何してるの?行くよ」
上がった心拍数を無理やり治めて、首だけ振り向いてそう言うと、彼女はワンテンポ間を置いて、「はい!」と笑顔で僕に駆け寄った。
『もしもし、恭弥くん?』
「……」
『ごめ、なさいっ、もうすぐ、着く から』
待ち合わせの時間間近の彼女からの電話はいつも「ごめんなさい」で始まる。考えてみたら、初めて此処で彼女と待ち合わせた時もそうだった。彼女がいつも遅れてくる訳じゃないけど、彼女が僕の事を『雲雀さん』から『恭弥くん』と呼ぶようになるまでに何度かあった。駅からほんの少し離れた公園、歩いても10分もかからないのに、彼女はいつも走ってくる。
ねぇ、そんなに急がなくてもいいよ。君はドジだし、
ケータイの向こうで、彼女の弾んだ息遣いと風を切る音が聞こえて胸の内でそう応えた。
その内息を切らした彼女が電話を耳に当てたまま公園へ入ってきた。今日の彼女は夏空に浮かぶ雲の様な真っ白いワンピースを着ていた。その眩しさに、僕は無意識に目を細める。
彼女の息遣いが、電話越しに僕の鼓膜を震わす。まだ数十メートル先にいる筈の彼女が、物凄く近くにいるような、そんな不思議な感覚に、僕は電話越しの彼女の言葉を待った。
『遅れてごめんなさい』
「…」
『待っててくれてありがと』
微笑んで言う彼女とはまだ距離があったけど、耳元で囁かれたような、そんな感じがした。
くるりと彼女に背を向ける。
『恭弥くん?』
「今日は怪我してないみたいだね」
皮肉めいた僕の言葉はただの虚勢にしか聞こえなかった。彼女はきっと気付いていないけど、彼女が僕に追いつく迄には顔に集まった熱が冷めればいいと思った。
『もしもし、恭弥?少し遅れそうなの、ごめんね。なるべく急ぐから!待っててね!』
待ち合わせの場所に着いてバイクを停める。ケータイを開くと留守録が一件入っていた。待ち合わせ時間間近の彼女からの電話はいつも「ごめんなさい」で始まる。彼女が僕を『恭弥くん』から『恭弥』と呼ぶようになるまでにも、何度かあった。駅からほんの少し離れた公園、歩いても10分もかからないのに、彼女はいつも走ってくる。
そんなに急がなくてもいいよ、君はドジだし、
止めたバイクに凭れながらケータイのディスプレイに掛けた言葉は結局彼女に伝わることなく、僕の中に留まった。
もう少ししたら、彼女がやってくるだろう。今日は転んだりしてないといいけど。きっとこの間買ったアイボリーのコートを着て「ごめんね」と息を切らしながら、それでも嬉しそうに笑って、僕に駆け寄ってくるんだ。
駅からほんの少し離れた公園、歩いても10分もかからないのに、彼女はもう来ない。
そんなに急がなくてもいいよ、君はドジだし、
時間に遅れても僕は待ってるんだから
それを、電話の向こうの彼女に伝えていれば、「ごめんね」と言いながら僕に駆け寄る彼女を、今でも待つ事が出来ただろうか。
あの日、彼女はお気に入りだと言っていたアイボリーのコートを赤く染めて、黒いリボンを付けた写真の中の人になった。
そんなのちっとも君に似合わないよ。君はいつも、移り変わる季節に負けない位鮮やかな姿と表情を僕に見せてくれた。すまなそうにしょげて謝る顔、慌てて驚いた顔、はにかんだ笑顔、色んな君を知る度に僕の心は僕自身が戸惑う程、君を求めた。
だから、君がどんなに遅れても僕は待ってるから、と彼女に伝えていれば、今でも彼女を待つ事が出来ただろうか
『もしもし、恭弥?少し遅れそうなの、ごめんね。なるべく急ぐから!待っててね!』
留守録を再生すると、あの日待ち合わせていた彼女の声。
『待っててね!』君がそう言ったから僕はいつも君と待ち合わせた此処で、今日も君を待ってる。
「ねぇ、いつまで待たせる気なの」
ケータイのディスプレイに吐いたそんな言葉は、ざあっと頭上を吹きぬけた風に攫われた。その風に促される様に見上げると、初めて待ち合わせをした、あの日の彼女のワンピースと同じ綺麗な緑とその合間から零れる金色が、痛い位に僕の目を射した。
(さよなら、なんて君に言うのは早すぎて)
極彩色の君へ
end
080525
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