ディスプレイの隅の日時表示を確認すると、週が一周していた。この地に来て捜査を始めて早一週間。傍らにあるチョコレートピラミッドから一粒摘んで口に放りながら、置いてきた彼女の事をふと思った。私が彼方を発つ前、彼女は常に私が居座っているパソコン周辺の掃除やら、不要になった資料の抹殺(抹消という言葉が正しいが、彼女は「抹殺してやる!」と言っていたので)をすると張り切っていたのだが、3日もすればそれも済んでいるだろう。今頃何をしているのか、おそらく窓辺に置いた彼女専用のカウチで本を読む、つもりが、惰眠を貪っているに違いない。
仕事をする私の傍らで、勉強と言う名目で始めた読書に屈してうたたねする彼女は日常茶飯事だ。その哲学書が第一章の半ばから全く進んでないのを私は知っている。指摘すれば太陽光の抗えない温かさについて、日だまりに眠る猫について、そして自分の正当性について顔を赤くして必死に言い訳する子供のような彼女を思い出して笑みが零れた。



考えてみればワタリが彼女を連れてきてからというもの、こんなにも長い時間別々に過ごすのは初めてだった。不意にそんな事を思ってチョコレートをもう一粒口へ入れた。彼女は、ワタリが自分が居ない時に私の周りの事をするようにと連れて来た女性だった。そんな者は必要ないと私は当初彼女に対して酷く邪険ではあったが(要らないものは要らない故)、彼女も負けてはいなかった。
譲歩という言葉を持ち得なかった私と彼女、小さなセーフハウス(極秘作戦室)の中は大きな冷戦状態にあった。そんなある日、事は起こった。捜査に夢中で何日もパソコン前から動かない私に「いい加減、シャワー浴びて下さい」という言葉と共に頭からシャンプーをどぼどぼとかけられたのだ。あの時は私も流石に驚いた。勿論1回は1回、彼女には私以上にシャンプーをかぶって貰った。これで私の勝ちとしたかったが、この後シャワーから出た私が目にしたのは、シャンプーによって齎されたワックス効果で滑ったのだろう、卒倒している彼女だった。

結局私は意識を失った彼女をベッドまで運んでやるはめになり、中々目を覚まさない彼女に罪悪感さえ覚えてしまった。つまり自分の非を認めてしまったのだ(更に付け加えば、シャンプーまみれの彼女を運んだ為に二度シャワーを浴びる事にもなった)。その身体を張った彼女の負けず嫌いに免じて、私はそれ以来彼女に入浴を促された際には速やかに従うようにしている(つまり私はその時だけは彼女に対して譲歩する事にしている)(また卒倒されたのでは堪らない)



そんな訳でワタリとは全く別な方法で、私をサポート(になっているかどうかは定かではないが彼女はそう言っている)する彼女に、私は次第に慣れ(というか遇い方を覚えた)いつからか煩さも失くなっていた。それどころか、いつもパソコンのディスプレイから顔を上げれば見える姿がないことに違和感さえ感じる。本当に慣れとは恐ろしく、そして不思議なものだ。



世界の至る所にある『L』のセーフハウス。造りはそれ程変わりはない。違うのは、小さな窓から見える景色とその窓辺に彼女が居ない事だ。



チョコレートを1つ2つ口に運びながら、もう一度画面の隅に視線を移した。時差を考えれば彼女の方は正午過ぎ、彼女が昼寝をしている確率は、97%。






『……もしもし、』


10回目のコール音の後に切り替わった声は、掠れて明かに寝起きのそれだった。私の推測は的中したらしい(推理する程のものではなかったが)


「おはようございます」



『……え る?』
「はい」

返事を簡潔に返せば、電話越しにも解る鈍い音と、わぎゃ、そんな何語ともつかない悲鳴のような声が聞こえてきた。大方いや確実にカウチから落ちたんだろう。



「わぎゃ、って色気のカケラもありませんね。まあ今日に限った事ではありませんが」
『―ぅるさい』

直ぐにそんな声が返ってきたものの、痛みに呻く抑えた息遣いが私の耳に届いて、私の頭には身体を小さくして蹲る彼女が浮かんだ。


「大丈夫ですか、」

『心配してくれるんだ?』
「ええ、今日は流石にベッドまで運んであげられませんので」
『…あれは、元はと言えばエルの所為じゃない』
「最初にシャンプーをかける等という暴挙に出たのはどちらでしたか」
『だってわたしがどんなに頼んでもエルがお風呂入ってくれないから』
「あれで頼んでいたんですか、命令にしか聞こえませんでした」

そう返してやれば、自覚していたんだろう。ぐ、と返す言葉を失った彼女はごにょごにょと口ごもった後、「でもさ、」続けた。

『でもさ、結局良い気分転換になったでしょ』

何か煮詰まってるなあと思って、そーいう時はシャワーでも浴びるのが1番だと思って言ったんだよ?




「…」




今更そんな事を告白されて、私は内心驚いた。確かにあの時、捜査が行き詰まっていたのは事実。まさかそんな意図が隠されていたとは、




『で、どうしたの?わざわざ電話くれるなんて』

珍しいねぇそんな幾分はしゃいでいるかのような彼女の明るい声に、私は思考を切替た。さっき拗ねていたかと思えば、今はきっと笑っている。見えなくても表情の方も相変わらずくるくると忙しく変わっているのだろう、そんな事を思った。百面相する彼女を観察するのは、密かな私の楽しみでもある。

『あ、もしかして捜査上手く行ってないの?』
「いえ、頗る順調ですよ。ただ、」


ただ、その後の言葉を私は噤んだ。代わりにディスプレイから顔を上げる。その先にある小さな窓から見える違う景色、そして居ない彼女。



(ただ、視えなかったからだから、です。)



『解った!わたしの事が恋しくなったんでしょ?』


声にせずに胸の内で呟いた筈なのに、彼女は何を思ったのかそんな事を言った。



「―、打ち所が悪かったようで、そちらに医師を手配しましょうか?」
『……ぅわあ、ムッとした。エルさん、わたし非常にムッとしました』
「だとしたら、頭はまだいくらか大丈夫な様ですね」


電話の向こうの彼女には見えないだろうが、「安心しました」とせせら笑えば、うわあ!腹立つ!と再び非難の声が返ってきた。後は短く「では、捜査に戻ります」告げ、零れる笑みもそのままに、私は通話を切ってパソコンに向き直った。










どれ程時間が経ったのか、手を伸ばした先は空を掴むばかりで、私はディスプレイから顔を上げた。見ればチョコレートのピラミッドはすっかり解体されている。私は代わりにと紅茶に手を伸ばしてカップをとった。不意に目に入った窓辺、ちらりとディスプレイに目を向ければ先程から1時間半が経過していた。チョコレートがなくなってしまったので、シュガーポットから角砂糖を摘んで口内へ放り込む。凝縮された甘味が舌から口内へ広がり、けれど次に胸のつかえを感じた。




「…?」


何だ、身体がおかしい。
シュガーポットを見ながら、考える。喉に詰まるようなものでもない、だが喉から胸の辺りが苦しい。急に具合いでも悪くなってしまったんだろうか、




「L、どうかしましたか」


その声に顔を上げれば、ティーポットを手にしたワタリが窺う様に覗き込んでいた。



「いえ、なんでもありません」


そう返すと、ワタリは新しいお茶を煎れてくれた。それに角砂糖をポチャポチャと落として喉に流してみても、症状は取れない。おかしい、本格的に身体の調子が悪い。私はディスプレイを見詰めながら、捜査の進み具合を考えた。当初の予測より10時間は早く進んでいる、私はパソコンを閉じながら傍らのワタリへ口を開いた。



「ワタリ、」
「はい」
「少し休みます。具合が悪いようです」
「医師を呼びましょうか」


心配そうに聞いてきたワタリに、いえ、と言いかけのそりと立ち上がった時、後ろのポケットに入れていたものが、ごとん、と音をたてて落ちた。それを摘み上げて思い出す。その携帯越しに聴いた声、
わたしの事が恋しくなった?






「……そうですね」


自分の口からそんな言葉が漏れた。そして苦笑いにも似た笑みが零れるのを自覚しながら、違和感を感じていた喉から胸を撫で下ろしてみる。苦しくは、ある。けれど肉体的な痛みとも違う、初めて感じる不思議な感覚だ。


「では、早速」

「ワタリ、医者は要りません」

携帯を開いたワタリを制すると、ワタリは不思議そうに私を見返した。そんなワタリに私は零れる笑みのまま口を開いた。





「彼女を連れてきて下さい」
―それと寝心地の良いカウチの用意を



今は何も置かれていない窓辺を見詰めてそう言うと、一瞬の間の後「かしこまりました」穏やかに笑んだワタリは別室へ出て行った。それを見届けて、私はまた窓辺に視線を移した。自身の身体に起こった謎の痛み、不快感。不慣れなそれは確かに痛くて苦しいものだが、酷く不思議でおかしく、面白い事のように思える。




「…自分には無縁のものと思っていましたが、どうやら私は恋をしているようです」


自分で導き出した結論に私は一人笑みを零しながら、あと十数時間後には此処へ座っているだろう彼女を想った。







をしました





090213
fin.








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