0602
からん、と音がして活字を追っていた目を上げた。傍らに置いていたアイスコーヒーは、氷が溶け出して水とコーヒーのグラデーションを造っていた。彼女を待っている間ちょっとだけ、と思って読みはじめた筈が、夢中になってしまったらしい、窓の外はもうオレンジだ。もうとっくに帰ってきた頃だと思うけど、オレの部屋のドアはまだノックされない。なんかあったかな、思う。けど、その窓辺から見える庭に見慣れた、だけどほんの少し違う後ろ姿を見付けて納得した。
ああなんか落ち混んでるな、と小さな背中を見下ろしながら思う。愚痴や弱音を吐かない彼女だから、それはとても見えにくいものだけど、オレには解る。だからオレは読み掛けの本を置いて、長いこと居座っていた窓辺から飛び降りた。途中外から帰ってきて「今日は暑かったな」なんて言いながら歩く探索部隊とすれ違って、オレはちょっと寄り道をする。それから彼女がいる庭に出た。
木の根や雑草で平じゃない道を歩く。西日を受けた木々が、焼ける様に色付いて眩しい。それに目を細めながらオレは彼女を捜した。見付けた彼女は窓辺から見下ろした時と同じ、木陰のベンチに座って、オレと同じ様にオレンジをぼんやりと見ていた。
「おかえり、」
「ラビ」
おかえりと名前を呼ぶと、彼女はオレを反り見た。その瞳は、傾いた陽を受けて濡れているように光って見えた。それにオレの思考は一瞬フリーズする。なんとか動き出した頭でオレは彼女にアイスクリームを差し出した。ジェリーに頼んでカップに入れて貰ったバニラのアイス。それを何気なく、彼女に渡した。それしか出来なかった、からかもしれない。
「なんでアイス?」
「食べたかったんさ」
「誰が?」
「オレが」
「なにそれ」
言いながらも彼女は笑ってアイスを受け取った。昼間の熱の余韻を引き擦ったオレンジが、バニラアイスをその色に染めている。彼女はそれに小さなスプーンを入れた。オレも同じ様にスプーンを動かしながら、横目で彼女をそっと伺い見た。伏せ目がちになった瞳は何かを隠す様に睫毛が影を落としていた。
「いつ帰ってきたんさ?」
「ちょっと前かな」
「お疲れさん」
「ん」
小さなスプーンを口にしながら何気なく応じた彼女に、訊きたい事は色々とあったけどやめておいた。訊いたところで返事は同じなのだ。
それにオレは訊かなくてもなんとなく解った。いつからか解る様になった。例えば暑かった今日の任務の内容だとか、彼女の話を聞かなくても、顔を見なくても、解るのだ。そう、普段よりちょっと落ちた肩だとか、廊下を通り過ぎる足取りとか、その小さな後ろ姿だけで落ち込んでるとか沈んでるとか解るのに、解ったところでどうする事も出来ない。だって彼女は愚痴や弱音を吐かないから。だから、オレはその度に途方に暮れそうになりながら隣に座って、今日はアイスを口に運ぶ。
「美味しい」
「そうさね」
「今日暑かったんだよ、歩くだけで汗かいた」
「そんな暑かった?オレずっーと本読んでたから解らんかった」
「むかつく」
悪態を付いた彼女は、スプーンをくわえたままじろりとオレを睨んだ。それでもとろりと溶け出したアイスを掬っては口に運ぶのは休まない。カップの中のアイスが減っていくにつれ、彼女の伏せがちだった睫毛は上がって、空になったカップにスプーンを置いた頃には美味しかった!と満足気に笑う彼女がオレの隣に戻ってきた。だからアイスを運んだだけのオレの冷えた胸も、そんな彼女に内側からあたためられた様になって、オレも漸く笑った。笑えた。そしてその笑顔を見て思う。結局、救われているのはオレの方なんだ。
「帰ろっか、お腹空いたし」
「今アイス食ったばっかさ」
「アイスは別腹だもん」
「それ、ケーキの時も言ってたさ」
「暗くなったねぇ」
「…」
いつもの様にオレの咎言をスルーした彼女は、すくっと立ち上がった。落ちてしまった陽のせいで、辺りはオレンジから藍色へと色を変えていく。時計の針が藍を大気に一滴一滴零している様だ。その深味を増していくグラデーションの中で彼女はオレに向き直った。行こう、当然の様に掛けられた言葉に、アイス一個で復活したこの笑顔に、オレはただ彼女を見返した。
「ラビ?」
彼女は動かないオレに首を傾げる。オレはそんな彼女に泣きたい様な気持ちになりながら、手を差し出した。
「何?」
「立たして」
「は?」
その言葉通りの顔を浮かべた彼女の手を、オレは無遠慮に取った。ひんやりとしたその手を握って、引っ張って、と促せば彼女は眉を寄せたまま、だけどオレの身体を前のめりにする位の力強さで引っ張った。
「―っと、力強すぎさ!」
「文句言わないの、この甘えたが」
「…お前が甘えないからさ」
言いながら握っていた手の力を弱めた。するりと今にも自分の手の平から抜けていってしまいそうな手に、指先が震えそうになる。握っていたい。ずっとずっと、手を繋いで、隣にいたい。だけどオレは、この手を留める事は出来ない。想いを告げる事さえも出来ない、上手く甘えさせてやれないオレに、そんな資格なんて、
「私、ラビに甘えてるよ」
「…?」
その言葉の意味が解らないオレは、息を吐く様にゆるりと笑った彼女をぼんやりと見返した。
「いつも、ありがと」
「…、」
彼女に、ありがとうだなんて言われると思ってなかった。だからオレはきっと間の抜けた顔を浮かべたんだろう。そんなオレに彼女は慌てた様にアイス美味しかった、と付け加えた。そんな彼女に言い表せない感情が沸き上がる。自惚れてもいいんだろうか。彼女はオレを待っててくれてんだと。なんにも出来ないオレなのに、今日だってアイスを運んでやっただけなのに。
手の平から抜け出していかなかった手に、たどだとしく指を絡ませる。すると彼女もおんなじ様に拙くオレの手を握り返した。
「手、つめたいさ」
「ラビのがあったかいんだよ」
じわりと伝わる彼女の手の冷たさに、幸せってこういう事を言うんだろう、そう思った。だけどオレはこの手の冷たさを、この瞬間の幸せを、いつまで感じる事が出来るんだろう。ざりざりと砂を鳴らして二人で歩く帰り道は、平でないだけじゃない、陽が落ちて見えなくなって来ていた。ああ、まるで、オレの、オレと彼女の行き先みたいだ。想いを伝え合う事も、約束もなくて、行き先が見えない。彼女は、オレは、いつか、二人で繋いだ手のあたたかさも忘れてしまうんだろうか。
「あ、ラビ見て」
「ん?」
「一番星、」
「…、ははっ」
「?」
オレの笑い声に不思議そうにした彼女になんでもないさ、と告げてオレは彼女の手を引いて歩いた。
いつか彼女はオレのことを忘れるんだろうか。なんにもせずにただ隣にいたオレを。オレは、アイス一個で復活した彼女の笑顔を、「帰ろう」と当たり前に自分を求めてくれた彼女を、忘れるんだろうか。解らない。けれど、彼女が見付けたあのまだ頼りなく瞬く星を見たら、なんだか酷く安心して、そんな自分が笑えた。
そうだ、どんなに暗い夜でも小さな灯りで歩いていける。星と星を繋いで星座を造って道標にした古人みたいに、オレは瞬間の幸せを、刹那のぬくもりを、繋いで、
星に名前をつけて、命にして
fin.
100602
title by クロエ