仄かな紅茶の香りが鼻腔を擽る。その香りは今彼女が淹れている紅茶が僕が好きな茶葉という事を教えて、僕はゆるやかに笑みを浮かべた。近頃は頼みもしないのに、僕の嗜好に添ったものばかりを彼女は選んでくれている。その理由を訊かなくても僕には解っていた。
彼女は、やはり真剣な眼差しで紅茶を煎れていた。睫毛はくるりと上がったままだけど、顔に施された化粧は大分薄くなっている。僕の言った事を忠実に守ってくれている彼女に、僕はひっそりと笑みを深くした。



「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「今日はラムレーズンのレアチーズケーキにしてみたの」


紅茶に続いて僕の前にミントの葉が飾られた真っ白なチーズケーキが置かれる。それにも礼を言い、僕は隣に彼女が座るのを待った。茶器が置かれたワゴンにはもう一人分のカップとケーキが鎮座している。だから僕は、彼女が今日のティータイムを一緒に過ごすのは僕だと思った。僕の好きな茶葉で紅茶を煎れて、僕と過ごす事を選んだ彼女に、言い顕せない程の優越感が湧き上がった。




「じゃあリボンズの処にも持っていくね」

齎された優越感を打ち砕く様に、彼女は僕が嫌いな男の名を口にした。そうしてカップとケーキが乗ったワゴンに手を掛けた彼女の腕を僕は衝動的とも言える速さで掴んだ。何事かと僕に目を向けた彼女は元々丸い目を更に丸くして、僕を見遣った。



「何?」

「そんな事、赦されると思ってるの?」

「…リジェネ?」


訝しげに僕を見返す彼女に、僕は盛大な溜息を吐いた。彼女は本当に莫迦だ、そう思う一方で、僕は酷く裏切られた気分になった。だってそうだろう、彼女は僕を選んだ筈だ。少なくとも僕にはそう取れた。なのに彼女は今になってリボンズの名を出すなんて。
彼女の腕を掴む手の力が更に強くなると、形の良い眉を寄せた彼女の丸い瞳が僕を見詰め返した。そのくるりと上がった睫毛に縁取られた大きな瞳は、仔犬の様な無垢な瞳で、僕の苛立ちを加速させる。



「その不自然な睫毛はどうしたんだい?」
「え?」
「ビューラーとか云うのをまだ使ってるの?痛い思いして」

不器用なのに、
そう付け加えて僕は彼女に意地の悪い笑みを浮かべて見せた。彼女がまだ化粧を覚えたての頃、ビューラーで瞼まで挟んで涙目になっていた事を示唆して笑う僕に、彼女はムッとして拗ねた様に口を開いた。


「ちがうよ、これはねパーマなの」
「パーマ?睫毛に?」
「うん。睫毛パーマ、ヒリングと地上に降りた時にしたの」
「へぇ…そんなのがあるんだ。けど君には必要ないんじゃない?化粧、似合わないし」
「…そんな事言うのリジェネだけだよ」
「そうかい?」
「うん、リボンズとか、皆は褒めてくれたよ」


小さく呟かれた言葉に僕は舌打ちしそうになった。リボンズに、それと彼女に。彼女は莫迦だ。だからリボンズの戯言を間に受けて喜んだり無防備な笑顔を晒したり出来るのだ。神様気取りのリボンズの掌で玩ばれても、それすら彼女は気付かないのだろう。莫迦だ、本当に莫迦だ。行動の裏には意図や策略があると云うのに。事にリボンズは利己心を具現化したような存在、性質が悪い。それに彼女は全く気付かない。これを莫迦と言わずなんと表現すれば良いのだろう。ああ、そうだ。彼女はまるでリボンズに飼われている犬の様だ。甘言で首輪を着けられ、鎖無しでは外へ出れない犬。彼女だけじゃない、他に創造主たる彼から作られた者たちは皆、リボンズの犬だ。命令通りに行動する、従順で逆らう事を知らない犬なのだ。
だけど僕は違う。そう断言出来る。僕はそんな低俗な犬に成り下がるつもりはない。





「リボンズなんかほっとけばいいよ」

「どうして?」
「……解らないかい?」


問うて掴んだ腕を引くと、困惑の表情を浮かべながら彼女はワゴンから手を離した。それから彼女はくるりと上がった睫毛で強調された丸い瞳で僕を見返した。本当に仔犬みたいな瞳だ。そしてその瞳で僕を見詰めたまま少し首を傾けた。解らない、そう云う事だろう。そんな彼女に僕は手を伸ばした。僕がそうする理由は彼女だ。触れた彼女の髪は柔らかく、するりと指が滑る。

例えるなら、ヒリングやリヴァイヴが戦闘用の狩猟犬なら、彼女は愛玩犬だろう。華奢な身体も柔らかな髪も、無垢な瞳が表す彼女の性質も、それらを前にするとこの僕でさえ、触れたくなってしまう。リボンズだってそうなのだろう、彼女は生まれながらそうされる存在なのだ。
だからリボンズは彼女を傍に置きたがる。あのリボンズが自分以外のものに執心するなんて稀有な事で、故に僕は奪いたいと思った。彼女には僕にそうさせる理由がある。




「僕が行って欲しくないからだよ」

掴んだままの腕をそっと離し、殊勝さを装いながら僕は彼女を見上げた。彼女は僕の言葉に逡巡し、そして口を開いた。


「…リジェネは、淋しがり屋さんだったのね」
「…まあ、ある意味そうなのかもしれないね」


含みを持たせた僕の応えに彼女はまた首を傾けた。僕はそれに苦笑いを浮かべた。そして思った。知らないのなら教えればいい、気付いていないのなら気付かせれば良いのだ。




「君は恋をした事があるかい?」
「こい?」
「そう恋だよ。人間はね恋をして色々な事を学ぶんだよ」
「私は人間じゃないわ」
「そうだね。僕たちは人間なんかより優れたイノベイターだ。だけど僕は思うんだ、彼等からだって学ぶべきものはあるって」


そうだ、人間よりも上位にある僕らだって、彼らから学ぶ事はある。僕はそう思う。それが僕とリボンズの違いであって、他のイノベイターの様に犬に成り下がらない理由でもある。僕は僕の意思で動く。そうする事が出来るのだから。
だから彼女にも、知って欲しい。今はまだ、君の世界は彼の掌だという事を。



「恋ってどんな事?」
「誰かを好きになって、会いたいとか、いつまでも傍にいたいって思う事さ」
「恋をするとどうなるの?」
「強くもなるし、弱くもなる」
「弱くも、なっちゃうの?」
「そうだよ、僕みたいに淋しがり屋になる」

「リジェネは恋をしているの?」


仔犬の目をした彼女が僕にそう問いかけた。僕はそれには応えずに、一度離した彼女の手を取った。今度は優しく、それこそ、小さな、無垢な生き物に触れる様に。そして僕は口を開く。その問いの答えは知っている。僕以外の連中が褒める化粧を止めた彼女が、僕の好きな茶葉ばかりを選んでくれる彼女が、無垢な仔犬のような彼女自身が、教えてくれたから。



「僕の傍にいてくれるかい?」









さあ、首輪を外して僕の傍においで

end.







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