滑る様に走っていた車がひたりと止まった。後部席に身を預けながら、スーツ姿の男や女が行き交う歩道を眺める。今日は風が強いな。春の薄いコートを靡かせた女性が、僕の乗る車の横を通り過ぎて行く様をぼんやり見ながら思った。
程なくして見えた姿に僕は車から降りた。無意識に綻ぶ頬を戒める様に風が僕に吹き付ける。カレンダーの上では春だと言うのに、今日の風は随分とらしくない。そんな風の中、僕に気付いた彼女は小走りになって駆けてきた。そんなに急がなくてもいいよ、嬉しいけどね。




「やあ、」

「雲雀さん、ごめんなさい、待たせちゃって」


アイボリーのコートに身を包んだ彼女は、僕の前まで来てそう口を開いた。


「今来たところだよ」

応えながら、促す様に車のドアを開けた。彼女はありがとう、と今日の冷たい風なんかよりよっぽど春らしい微笑みを浮かべた。花がその暖かで柔らかな風に起こされて咲く様に、彼女のこんな笑顔は僕の心を震わせる。今では心地良さを感じるそれに戸惑いを覚えたのは、もう随分と前。運転席にいる哲が、まだ僕の事を委員長と呼んでいた頃だ。
哲に声を掛けてからシートに座った彼女を確認してドアを閉め、僕は反対側から乗り込んだ。

再び走り出した車内で、久振りに見た彼女の横顔は、幾分疲れている様に見えた。僕に負けず劣らず、彼女も仕事で色々な処へ飛び回る日々で。彼女に逢うのも一ヶ月振りだった。お互い口数の多い方ではないし、久し振りに逢うとまだ緊張します、と昨日の電話でも恥ずかしそうに言っていた彼女はやっぱり緊張しているみたいで、それでも他愛のない話をぽつりぽつりとして目的地までの時間を過ごしていた。そんな中、彼女の視線が窓のその先に固定された。多分そんなに長くはない、数十秒のそれに、けれど僕としては長い時間彼女の視線を奪ったものに、どうしたのと訊ねてみれば、彼女は僕に向き直りながら応えた。



「雲、…月かな。クラゲみたいだなあって」


その声に、僕も窓の外を見遣ろうと身体を彼女の方へ傾けた。身体はシートに深く沈ませているのに、行儀良く座ったままの彼女の肩と僕の身体が重なる。膝の上に置かれていた華奢な手が驚いた様に跳ねて、いい加減慣れてよね、思わず苦笑した。その手をやんわりと自分の手で包みながら、僕は歪な四角で切り取られたガラスの向こうを見上げた。
油彩で描いた様な鮮やかな水色に、下の方が欠けた真白い月が透ける様に浮かんでいる。ああ、本当だ。クラゲみたいだね。言って彼女に視線をやれば、顔を赤らめた彼女と目が合った。顔が近い、とでも言いた気な彼女に、今更そんな事で顔赤くするような仲じゃないでしょ、思う。まあそんな処も好きだよ。




「う、海、暫く行ってないな」


逃げ場なんてない車内で、少したじろぐ様にした彼女は、僕から視線を逸らして口を開いた。



「行こうか、海」



「今から?」

「うん」


頷いて緩く彼女の手を握ったまま自分の膝へ置く。行きたいんでしょ、訊き返しながら無遠慮に手を引けば、彼女の身体は簡単に僕に凭れた。疲れてるなら僕に寄り掛ればいい、甘えればいい。逃がさないよ、とそれを知らしめるようにぎゅっと手を握れば、降伏したのか固まっていた身体は力が抜けて、「うん」と、ふふっと、楽しそうに笑いながら彼女は僕の肩に頭を預けた。やっと寄り掛かってくれた彼女。だから僕は漸くその髪に、彼女に、口付ける事が出来た。


だから勿論、僕達は海には行かなかった。彼女が笑えば何処でも良かったし、もうすぐ陽が落ちる。それにまだ海で泳ぐ季節には遠い。哲は予定通り、明日から出張の彼女と過ごす為に取った空港近くのホテルに僕達を下ろした。そこで食事をして、それから抱き合った。







バスローブを剥ぎ取る前に、消して、とお願いされた明かりを点けた。ぼんやりと浮かび上がった室内は、僕の指の動きで端から光を吸い込まれる様にしてベッドサイドを照らすだけに留まる。そっと振り返って、くたりと瞼を落としたままの彼女の髪に触れた。まだ湿っているそれに僕は苦笑して、指を通す。
待てなかった。僕はシャワーから出てきた彼女に髪を乾かす間すら与えずベッドに倒した。細く柔らかいその身体に、彼女自身に、優しくしようと思うのに、その誓いは毎回僕自身に裏切られて。彼女に触れてしまえば、思考も身体も熱を帯び、今日なんて疲れているみたいだったのに、そんな事は僕の中から蒸発して、結局彼女に無理をさせてしまった。泳ぎ疲れた様に目を伏せたその頬に口唇を寄せると、睫毛がふるふると震えて、ゆったりと瞼が持ち上がった。





「身体、大丈夫かい?」


彼女はまだ微睡みの中にいるみたいで、ふわふわとした微笑みを浮かべた。掠れた声で大丈夫です、応えたけれど、瞼は今にも閉じられてしまいそうだ。その瞼に口付ける。謝罪なのか、いたわりから、なのか、多分僕はそんなつもりで口付けた筈なのに、彼女が気持ち良さそうに顔を綻ばせるから、僕の口唇は反対の瞼に、両頬に、鼻先に、と別な欲を膨らませながら彼女の口唇に辿り着いた。






「ひばりさん…?」


触れて、下唇を食んで直ぐに離れた僕を彼女が呼ぶ。劣情と葛藤している僕を待つ素直過ぎる彼女に、僕は思わず苦笑した。






「困ったな、」

「?」


「明日から出張なのにね」

「…はい?」


「君を寝かせたくないな、」


そう白状すれば彼女は微睡みから抜ける出る様に数回瞬きした。ぼんやりとした小さな明かりが、彼女の白い頬に緩やかに色が挿す様を僕に教える。それを隠す様に彼女は僕の首筋に顔を埋めた。






「海、行きたい?」


隠れてしまった可愛い顔を見たくて、僕は彼女に訊いた。え?と、思い通りに顔を上げた彼女の頬に手を添えて、




「昼間もそう言って逃げたから」


悪戯に言えば彼女は目をぱちりと開いて、思い出したんだろう、小さく吹き出す様に笑った。二人して額を合わせて笑って、甘える様に僕の腰に腕を回した彼女を抱き込んだ。くすくすと笑う彼女の吐息が、汗ばんだ首筋に掛かってくすぐったい。その刹那、生暖かい感触が鎖骨から首筋に走った。不意打ちだ。




「しょっぱい」

「海みたいにかい?」

「ふふ、でも甘い」


「君もだよ」


彼女の肌を舌でなぞりながら、僕は思った。僕達は海と同じ場所にいる。白いシーツは僕達の体温を吸って波の様な模様を描いて、ブランケットはベッドの端で崩れかかった砂山みたいになっている。閉ざされたカーテンの先にはきっと、クラゲみたいな月が深海と同じ色の中浮かんでいるんだろう。





「やっぱり海みたいだ」


「…?ひば、―んっ!」


僕は彼女に、彼女は僕に、熱い波をつくって。大きくなるうねりに、彼女の口からはこの瞬間しか聴けない特別な音が、叫びがもれる。それは僕を更に加速させていく。





「熱くて、溺れそうだよ」


だから僕はシーツを掴む指を絡め取った。
食んだ彼女の小指は、桜貝と同じ色をしていた。






tremolo
fin.
100502









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