「…あ、」


手が滑って真白いコーヒーカップが落ちた。夜の、私以外誰もいないオフィスに陶器が砕ける澄んだ音が響く。

まるいフォルムのつるりとしたカップは、オフィス用にと此処に配属された時に買ったものだ。見目だけじゃなく、縁が薄くて口唇を当てた時の感触が良く飲みやすいそのカップは私のお気に入りで、だから私はその残骸に哀しくなる。使えなくなってしまった。けど、私がこのオフィスでコーヒーを飲む事はもうない。だから哀しまなくていいんだ。沈みそうになる心を無理矢理そんな風に思って、立て直す。けれど目は壊れた愛用品に向いてしまって、私は深く息を吐いた後も動けずにいた。

いつまでもそうしている訳にはいかないので、のろのろ身体を動かす。片づけなければと手を伸ばしたその時、ふらりと目眩がした。倒れそうになるのを堪えるのも、足元が覚束ない上細いヒールではそれは敵わず、しゃがみ込んで床に手を付く。そこにあったカップの破片の事など忘れて、







「っ!」


左手に貫かれたような痛みが走った。思わず瞑った目をそろそろと開いて見れば、手を付いた床がとろりとした赤に染まり出していた。ああ血が、思うと痛みが強くなる。痛い。指先までびりびりと走る痛みに顔を歪めながら、掌を返す。自分の掌を視認して、益々痛さが増した気がした。否、増した。

兎に角、刺さった破片をとらなきゃ、それから止血を。それにカップを片付けて、床もきれいにしなくちゃ。

そこまで思って、だけどなんだかそれ全部が面倒で、どうでも良いような気がした。何もかも、掌の痛みさえ、酷く、どうでも良くて、私は身体を投げ出す様に床に頭を預けた。

目を閉じると、とくとくと脈を打つように痛みが左手に走るのを感じる。この痛みを感じなくなったら、死ぬんだろうか。なんて思って、私は声にせず笑みを漏らす。薄く目を開くと、見慣れない無機質な天井が、外の街灯で青白く映し出されていた。そう言えば、このオフィスに長く居たけれど、こうやって天井を見上げるのは初めてかもしれない。

私は、天井を見上げる事も窓からの眺めに息を吐く事もなく、がむしゃらに働いてきた。
だけど、もう疲れた。休みたい。ただ今は、休みたい。このまま此処で眠ってしまって、もしも目が覚めなくても、いい。そんな風に思って、私はそっと目を閉じた。









どれ位時間がたったのか、遠く、ドアを開いた音がして誰かが入って来たのが解った。解ったのだけど、私には起き上がる気力もなくて、瞼を上げる事すら面倒で、そのまま床に臥せていた。近付いてくる靴音をぼんやりと聴いて、こんな時間にオフィスに来るなんて誰だろう、思ってみる。だけどその人物は私の予想の中には入っていない男だった。










「死ぬんですか?」



感情の計れない言の葉が、不様に床に伏せたままの私に落ちる。こんな時にこんな言葉を倒れている女に吐くなんて、予想外の人物は言動も違わない。まあ彼らしいと言えば彼らしい。そう思ったと同時に笑みを含んだ吐息が漏れた。







「それも、良いかもしれませんね」



「…だったらもっと場所を選ぶべきです。それとも此処を選んだのでしょうかね?」


死場所がオフィスなんて、仕事熱心な貴女らしいですが、

そう嘲る様に喉の奥で嗤い、続けた男、六道 骸 は以前一度だけ仕事を一緒にした事がある。私が秘書を務めていたドクターの警護を彼が請け負ったのだ。実際は組んで仕事をした、と言うよりは、こちら側が頼んだのでもなく、「此方の都合です」と初めて彼と対面した時の言葉通り、彼が敵対する組織に有利にならない為の行動で、一方的なものだったけれど。そんな彼を私が憶えているのは、彼が特異な人物だったから、その一言に尽きる。仕事柄、様々な人を見てきたが、外見も喋り方も、物腰、雰囲気も、存在そのものが、不思議な人、だった。







「何か御用でしょうか、此処は部外者以外立入禁止です」


その不思議な人の言葉にだけど、反論する気も、問いに答える気も起きない私は、そんな応えを口にしていた。



「おや、それは失礼しました」

そう言いながらも動く気配のない男に、私は内心溜息を吐く。そしてゆっくりと身体を起こした。手は相変わらず痛むし、起きた反動か頭がぐらぐらする。俯けば纏めていた筈の髪が、はらはらと落ちて視界を狭くした。







「ドクターに御用であれば、後日アポを取って「貴女の昇進が決まったと聞いたので、お祝いに来たのです」



目眩の中、頭を抑えて発した声を、彼は遮ってそう言った。私の昇進を何故彼が知っているのか、私と彼はただ一度、しかも一方的に仕事というか関わりを持っただけなのに。それに彼に昇進を祝って貰う義理もない。緩慢に彼を見上げると、彼は疑問符を浮かべる私を、それもお見通しだと言う様に微笑していた。






「…」



その笑みはあらゆる意味で完璧だった。感情の見えないそれは、内心を覗かせず、問う事すら無駄に思える。私は彼から視線を逸らした。宛てなく動いた視線の先に映ったのは、粉々のカップと小さな血溜り。







「…わざわざご足労頂いたのですが、それは不要です」

「何故でしょう?」


「その話はなかった事になりましたので」


砕けた陶器の破片、私はそれを一つ一つ見詰めて告げた。私が此処で積み上げてきたもの、立場、実績、それを壊したのはこのカップと同じ、自分だ。






「上司と寝て得たポストらしいので、丁重にお断りしました。此処も今日付けで辞めました」



「ほう、それは…」



他人事のような私の言葉に彼は、彼特有の笑みを含んだ声を上げた。





「それで、……―貴女は寝たんですか?」


笑みの余韻を完全に消して、僅かに低く発せられた言葉に、私は彼を見上げた。私を見下ろしていた視線と交わる。色違いのその瞳は、やっぱり感情が読み取れない。けれど私を蔑むような否定するような冷たいものでも、まして興味本意でこちらが不快になるものでもなくて、私はただ真っ直ぐにその瞳を見詰めた。不意に彼はその目をゆるりと細めて、私の傍に片膝を付いた。そして顔に掛る髪を耳に流す様にして、私の頬に触れた。黒い手袋越しの彼の手は温度が伝わらない、だけどしっとりと、そっと、彼が私に触れたのだけは解った。






「だったら、こんな自殺紛いの事はお止めなさい」


頬から、その手が未だにとくとくと血を流していた左手に降りる。私は彼の顔からその黒手袋の手に目を移しながら応えた。




「……こんな怪我で死ねるだなんて思ってませんし、死のうだなんて思ってません。ただ―、」








「……ただ?」



訊き返しながら、彼は手袋が汚れるのも厭わない様子で私の赤く染まった手を取った。





「―疲れたんです」


そう、何もかも、どうでも良いと思える程に、


ぽつりと吐き出した声、じわりと視界が滲む。それは彼の指が私の掌に刺さったままの破片を抜き取っているから、だけじゃない。責めも慰めもしない彼が、どうでも良いと思う私の、胸の奥に押し込めていた相反する気持ちを湧き上がらせる。今まで、私は私なりに頑張ってきたつもりだった。頑張って結果を出し得たポスト。その努力と実績が認められ、私が選び勝ち取ったものだった、なのに。なのに、噂話は私のちっぽけな誇りや自尊心みたいなものを簡単に打ち砕いた。砕かれた私は違うと否定する事も、解って貰おうとする事も、それを乗り越えようと努める事もしなかった。私は諦めてしまったのだ、疲れて、楽になりたくて、逃げた。そんな自分が嫌でどうでも良くて、でも本当は、

ぽたり、彼の手の上に涙が落ちた。けれど彼は、変わらず何も言ってくれなくて、だけど酷く丁寧な手つきで指を動かすから、私はぽたぽたと落ちていくものを止める事が敵わなかった。








「人間とは、差別なしでは生きていけないものです」



何故貴女がその標的になったか解りますか?そう問われても解らない私は、涙の残る目で彼を見返した。彼はハンカチを私の手に巻き端を縛ってから、ゆるりと顔を上げた。

その色違いの瞳には初めて感情が滲んでいた。酷く愉し気なそれを細めて、彼は薄い口唇を開いた。





「貴女が若く聡明な女性だからです」


「加えて美人だ」


その余りに堂々と、きっぱりと告げられた言葉に、いや十人並みですけど、と口を挟むのは無理だった。気後れしている私を他所に、彼は続けた。




「妬み僻み、他人と自身を比較し否定して安穏を得てしか生きていけない輩と一緒にいることはありません。僕のところへ来ませんか?本々そのつもりで来たんです。引き抜き、とでも云うんでしょうか。以前仕事をした際に、貴女は此処には勿体ないと思っていたのです。―ああ、まずは傷の手当をしましょう、少し深い傷ですから医師に診て貰った方が良いですねぇ。話はそれから食事でもしながらゆっくり「あの、ちょっ」


唖然としていた私に、饒舌に、というか、矢継ぎ早になった彼に慌てて
口を挟むと、彼はいつの間にか私の手から腰に回っていた手もそのままに「なんでしょう?」と悪びれる事もなく訊いてきた。





「…は、話が、良く飲みこめないのですが」


身を捩ってなんとか彼から抜け出そうとしながら出した私の声に、彼は一瞬間を置いて、ああ、と漏らした。





「今日、誕生日なんです」



「…はい?」


「貴女は僕のプレゼントなんですよ」




「…あの、すみませんがもう少し解りやすく、説明して下さると助かるのですが…」



「…ふむ、では歩きながら説明します、行きましょう」



立てますか、
訊きながら手を引かれ、もう一方の手で腰を支えられながらなんとか立ち上がる。さっき、壊れ物を扱うかのような手付きで私の頬に触れたのに、今の彼の手は酷く大胆だ。それに小さく抵抗を試みるも、彼は私のそんな羞恥などお構いなしと言った様子で話し始めた。いいですか、今日は僕の誕生日なのです。僕は僕自身への誕生日プレゼントとして貴女を選んだのです。今日此処へ来たのは、貴女の昇進と云うかまあ退職、になってしまいましたが、そのお祝いと同時に僕の誕生日を祝う為でもあった訳です。

され慣れないエスコートを彼にされながら聞いたのは、そんな私にとってはとても理解し難いもので、私の中の彼は、不思議な人、から、変な人、に書き換えらる。

自分の誕生日に自分自身で、しかも女をプレゼントするなんて、変な上好色なんだろうか。でもなんとなく違うと思わせられる。私の少し前を行く背中や緩く握られた右手、それが私にそう思わせていた。

だって私今なら逃げれそうで、振り払おうと思えば敵いそう。彼はきっと意図的にそうしている。だから私は、そんな彼の後に続いた。この変な人は、強引でありながら強引なだけじゃない。彼が私を選んだ様に、私にも選択させる機会をくれている。私は彼のそんなところを好ましく思った。






「…六道、さん、」



「…はい?」



僅かに振り返り私を見遣った彼に、私は握られたままの右手を握り返す事で応えた。彼はきれいな色違いの瞳を見開いて、それからほんの少し柔らかに目尻を下げた。

口唇を三日月にした彼がドアを開ける。床の上にはまだ、カップの破片が散らばったままだけど、きっと誰かが片付けてくれるだろう、拾ってくれるだろう。その欠片を、自分自身を、どうでも良いと思っていた私の前に、彼が現れた様に。

欠片を一瞥して、私はオフィスを後にする。そしてゆるりと歩き出し、半歩先を行く彼に思う。私を選んでくれてありがとう、

その言葉の代わりに、私は彼に言った

誕生日おめでとう













停止、回転、そして再起動
リバースバースデイ

fin
100610

一日遅れましたが、
Buon Compleanno!








「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -