彼女と『恋人』という間柄になって、もう大分経つ。大分というのは僕がそう思うからであって、彼女においてはどう思っているか定かではない。けれど確かに、時間は僕と彼女の間に目には見えない何かを形成して、そう、一般的に恋慕の情と言われるそんな類いの感情を育てていった。

だから僕が、僕の自室に来て寛いでいた彼女をソファーへ柔らかに押し倒したのは、そんな大きくなり過ぎた感情故。

黒い皮張りのソファーに寝かせられた彼女は元々大きな目を見開いた。けれど彼女も僕と同じ年代で、僕は彼女の『恋人』なのだから、今から僕が何をするかなんて言わなくても解るだろう。瞳を合わせると彼女はゆっくりと瞼を下ろした。それを了承ととった僕は彼女に顔を寄せる。柔らかな彼女の口唇に辿り着く―、寸前に、何かに遮られた。他でもない、彼女の手によって。




「―名前?」


僕は身体を少し離しながら彼女に訊いた。ここでただ押すのも引くのも簡単な事だか、それは賢明な方法ではない。一時的な感情で彼女を傷付ける事になれば、それは自分にも還ってくる。彼女が傷付く事、それは僕にも同意義で、彼女が泣くよりも笑っていてくれた方が、僕は穏やかになれたし、嬉しい。他者を蹂躙し虐げて、若しくは支配してしかこなかった僕は、誰かと手を取って生きるという事をしなかった。彼女が初めての、唯一の存在なのだ。これほど自分が自分以外に執着するとは思いもよらなかった。―ああ、今はそんな事を考える前に、彼女のこの行動を僕なりに理解する必要がある。努めて穏和に冷静に、僕は彼女に訊いた。





「…どういう事ですか」



「…どういう事なんですかね?」


手で口を塞がれているので、はっきりと聞き取れなかったかもしれないが、彼女の応えに思わず眉が寄る。質問しているのは僕なんですが、と口に押しやられていた彼女の手を取った。見下ろした彼女は訝しげな顔で僕の手に掴まれた自分の手を目で追っていた。…もしかして、彼女は自分の行動を理解していない?そんな事が彼女の表情から読み取れて、僕は益々眉を寄せる。ではさっきのは反射的な行動だったのだろうか…―、それはそれで問題だ。自分の思考に一瞬にして奈落の底に落ちかけた僕に、彼女の視線が戻った。僅かに首を傾けた彼女は、「どうしてだろ…」と申し訳なさそうに小さく呟いた。




「流石に僕でも解りません」


言いながら彼女の手を引いて、身体を起こした。並んでソファーに座る。ソファーの前に置かれたティーカップにはまだ紅い液体が残っていた。





「早過ぎましたかね」


まだ、温かみのある紅茶を見詰めながらそう零せば、彼女は僕に向き直った。




「―そ、そんなんじゃないの、」

「では何故?」

「―、」

「すみません、責めるつもりはなかったんです」


言葉に詰まった彼女に、僕は微笑を浮かべて立ち上がった。紅茶を煎れ直しましょうと、カップを手に取る。上手く、笑えているか不安だったけれど、そうでもして取り繕わないと、一番考えたくないことに答えが行き着いてしまいそうだった。彼女に嫌われているんだろうか、反射的に拒否される程。そうではなくても、彼女が僕を好いてくれていても、その想いの差を提示された様で、僕は内心かなり動揺していた。僕は欲しくて堪らなくて、全身で彼女を感じたいと思っているのに、彼女においてはそうではないらしい。

シンクに紅い液体を捨てる。排水口に流れていくそれを見詰めながら、重苦しさを増す胸から息を吐き出した。






「骸、」


後ろから掛けられた声に、シンクに視線を落としたまま「アールグレイにしましょうか」そんな返事をする。キーマンでもアールグレイでもハーブティーでも何でもいい。今は時間が欲しかった、彼女に向き直れる時間が。湯を沸かすためケトルを取る。そんな僕に、彼女はもう一度声を上げた。



「骸、」


「…はい」


「さっきの…正直に言う、から」



「はい、正直に言って下さい」


努めて冷静に、おおらかさを装って振り向いて、彼女を促す。服に隠された胸の中を、心臓の鼓動の速さを、覚られないように。




「怖い…のかな…。うん、怖いんだわ」


その彼女の言葉に、僕は呆気に取られた。別の応えを予想していた僕には、彼女の言う「怖い」の意味をはかりかねる。



「名前、…初めてなんですか」

「…え?」


不意に思い付いた事を口にすれば、彼女もそんな事を訊かれると思っていなかったのだろう、否定も肯定もなく、固まった。



「…」


「…」


微妙な沈黙がキッチンに流れる。それに堪えられなくなったんだろう彼女が、言いづらそうに口を開いた。



「…あのね、初めて、じゃないの。だから怖いっていうか…うんやっぱり怖い」

「……、まさか余程辛いセックスを?」

「違っ!―そんな、フツーだよ!」


彼女は顔を赤くして反論した。



「では何が…、」


言い掛けて、僕はそれ以上言葉を紡げなくなった。目の前の彼女が顔を赤くしたまま、目を潤ませていたからだ。それを隠す様に、右手が前髪に掛かる。





「貴方に嫌われるのが、怖いの」


震えた声に、胸を突かれた。右手の所為で彼女の表情ははっきりと見えないけれど、泣いているのは解った。



「…今も、こんな事、あなたに話して、」
嫌われるんじゃないかって
怖くて







「馬鹿ですね、名前は」


込み上がる感情に突き動かされて、僕は震える肩を、身体を、そっと抱きしめた。僕に包み込まれた彼女は僅かに身体を強張らせる。怖い、その言葉通り怯えた身体を解く様に、髪を撫で、彼女の耳に口唇を寄せた。




「僕が、名前を嫌うなんて事有り得ません」


「…この世界に有り得ない事なんてないでしょう?」


腕の中からそんな声が聞こえた。けれど声とは裏腹に腰に回った彼女の手に力が篭ったのが解って、僕はゆるりと身体を離した。頬に手を添えて、顔を上げる様に促す。


「ええ、でもこの事については有り得ません」


信じられませんか、
目と目を合わせてそう問うと、彼女は涙に濡れた目をそっと細めた。その僕を見詰める直向きな瞳に、滲み出た雫すらいとおしくて、眦に口付ける。漸く綻んだ彼女に控えめなキスをして、僕は彼女を抱き上げた。

キッチンを出る僕に、彼女がぎゅっと縋り付いてくる。不安定さから落ちる事を危惧して、なのか、ベッドルームに向かう僕にこれからを思ってなのか、恐らく後者だろう。




「僕も、怖いです」


「…え?」


僕の言葉に、彼女はきつく僕の首に巻き付けていた腕をそっと緩めた。彼女の視線を感じながら、僕はベッドルームのドアを開く。




「初めて、ですから」


そう白状して、彼女をベッドに降ろした。見上げてくる彼女の頬に手を伸ばす。その自分の指先が震えていて、僕は堪らなくなった。吐息が触れ合うこの距離に彼女がいる、僕は今それに震えているのだ。喉を塞ぐ程の感情を堪えて、僕はそっと彼女に告げた。





「愛しているひとを抱くのは」


酷く柔らかに響いた声に、彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。震えた指先で彼女の輪郭を撫でる様に触れる。その手に、彼女の手が重なった。








101021
fin.
tilte by 不在証明









くるりと背を向けてしまった彼女の顔を伺おうと、その剥き出しの肩にそっと触れる。けれどそれは叶わず、彼女は抱き込んだシーツに顔を埋めたまま小さく身動ぎした。すん、と洟をすする音がして、僕は苦笑を洩らす。女性を抱いて泣かれたのは初めてで、そしてそれを隠す彼女は可愛らし過ぎる。





「泣くほど、よかったですか」


「…なんか、おじさんみたいな事言う」


「おじさんとは、あんまりですね」



嘆息して、僕は未だ背を向ける彼女に構わず抱き寄せた。汗が引き切らない身体が触れ合う。彼女の身体はまだ随分と熱を孕んでいた。回った腕にそっと添えられた彼女の手、そして潤んだ声で「骸、」名を呼ばれる。





私、女にうまれてよかった


僕と抱き合って、彼女がそう思ってくれたなら、男としてこの上ない。僕も男で、彼女を愛せて、良かった、そう思う。男という生き物は、愛している人ほどうまく抱けるものなんですよ。抱き締めたまま、そう言えば、彼女はまた「おじさんみたい」と笑った。







end.










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