勉強をすることと働くことのどちらが楽か。それは子どもの時に幾度か考えることで、勉強することを強いられる子どもは働く方が勉強するよりずっといいと思う。しかしそれは働いている親から勉強の方がずっといいと否定されるが、働く苦労を知らない子どもは疑心しながらそれを聞く。
 リンもそんな子どもの一人だったが、今なら両親の言葉に心から賛同することができる。勉強から解放された時は長年の義務から解き放たれた自由感を覚えたが、それは学生時代より重い責任と束縛で掻き消えてしまった。あの時感じた自由などまやかしだったのだと思えるくらいに、多忙の日々を送ることになったリンは学生時代以上の疲労を抱えながら毎日を過ごす。
 暇があったら会ってお茶でもしようと友人に誘われることが幾度となくあり、そんな時間があるなら少しでも疲れを癒すために睡眠時間を多く取りたいと思ったが、友人からのせっかくのお誘いを無碍にできるほどリンは冷血ではなくて、重たい身体を引きづりながら外出した回数はもう両手で数えることができないほどだった。

「鏡音さん、もしかして疲れてる?」
 会議室で次の会議の準備をしていた時、何気なく問われた言葉にリンは疲れが顔にまで出ていることを悟り、誤魔化すように笑みを作るが問うてきた相手が悪かった。作り笑いでは誤魔化されてない彼はじっとリンの顔を見据えていて、重たい溜め息を吐いたあとリンは白状する。
「ほら、今月末でしょ? だからやることが一杯あって、定時に帰れないこととか多くて」
「ああ。確かに月末はやることが多くて頭がパンクしそうになるよね。一つのことを終えてもすぐに入ってくるし」
「夜遅くて朝が早い。これで疲労が溜まらなかったらそのコツを聞きたいくらいだよ。鏡音くんも疲れが溜まっているんじゃない?」
 同じ問いをレンに送ると彼は笑って否定するが、浮かべた笑みは覇気を感じることができなくてリンと同じように作り笑いだということは明白だった。資料を机の上に置いたリンはレンに歩み寄ってその両側の頬を摘んで引っ張る。
「いひゃいよ」
「嘘吐かないの。今上司はここにいないんだから弱音や不満を吐いたっていいと思わない?」
「――ひゃしひゃに」
 賛同の言葉を聞いたリンは満足そうに頬から手を離すと、レンは摘まれていたところをそっと撫でる。摘まれていた箇所はほんのりと赤くなっているが、強く摘んではいないのですぐに治るだろう。
「鏡音さんって結構気が強いよね」
「大学時代に鍛えられましたから。簡単に泣き言を言っていたら単位なんてもらえなかったしね」
 運が悪ければ間違いなく留年していた激動の大学時代に思いを馳せる。大学ライフは高校以上に楽しいものだと思っていたが、あの頃のことを振り返って出てくるのは授業やゼミに追われ徹夜をした日々だけで。
 おかげで上司や先輩にいびられても簡単に泣かない精神を手にすることはできたが。
「鏡音くんは見た目とは裏腹にしっかりしているよね。抜けてそうに見えたのに、やることは全部完璧なんだもの」
「手を抜くことはなんか嫌なんだよね。周りには神経質だとかよく言われたけど」
「ふむふむ。じゃあ神経質な鏡音くんに資料の設置を全部任せましょうか」
 反論される前にリンは素早く動き給仕室に向かう。仕事は資料の準備だけではなく会議の合間に喉を潤すための茶の準備もしなくてはならなくて、これを怠れば会議後に上司の雷が落ちることは確実である――怒られるのは男ではなく女の方なので理不尽だと思ったことは幾度となくある。
「鏡音くんは庇ってくれそうな気がするけどねー」
 他の男たちは上司の怒りが向けられることを恐れて傍観することが多く、それがまた女の怒りを買っているのだが我が身が可愛い彼らの行動はこれからも変わらないだろう。レンはそんな男たちと違って庇ってくれそうな気がするのだが、実際のところどうかは定かではない。同期の女たちはレンのことを高く評価していて、彼の行動は彼女たちの思いに応えてくれるものばかりだからその思いはより一層高くなっているのだろう。

「鏡音さん、こっちの準備は終わったけど手伝えることはある?」
「大丈夫だよ。そっちが終わったってことはあとはこれだけやったら終わりってことか。なんとか会議には間に合いそうだね」
 慣れた手つきで素早く茶の準備をするリンの手つきをレンは感嘆しながら見詰める。パソコンに向かって事務処理をするよりこうやって茶を淹れる方がリンは好きだった。家で茶にうるさい父に鍛えられたおかげか社内でもリンの淹れた茶は好評で、よく上司にも淹れてほしいと頼まれる。
「鏡音さんは手つきに迷いがないよね。茶道とか習ってた?」
「茶道はやってないよ。家に茶に関してうるさい人がいて何度も淹れさせられたからね」
 あの時はこのクソ親父と思ったことは何度もあるが、今思えば父なりに社会に出た時に困らないように鍛えようとしてくれたのだろう。こうして満足してもらえる茶を淹れることができるようになったので、一部の人には重宝してもらえるようになったのだから今は貶していた父に素直に感謝することができる――心の中で貶してごめんなさい。
「僕も何度か鏡音さんが淹れてくれたお茶を飲んだことあるけど、すごくおいしかったよ。一日に何回も飲みたくなるようなお茶だった」
「ありがとう。でもお世辞を言っても何も出ないからね」
 素直にお礼を言うことができなくて余計な言葉がついてきたがレンは気にした様子もなく笑う。そんな対応がとても紳士的に見えるのは周りにいる男が気遣いに欠けているからだと自己分析しながら、リンは最後の仕上げに取りかかる。レンの爪の垢でも煎じて飲まさせたら少しはマシになるのだろうか、なんて考えるあたり気遣いのなさに辟易しているらしい。
「そういえば、鏡音さんと僕って同じ名字だよね」
「そうだね。鏡音って珍しいから被ることなかったんだけど、鏡音くんも同じ名字だと知った時は驚いたなあ」
 学生である間名字が誰かと被るなんてことは一度もなくて、結婚をして名字が変わるまで誰かと被ることはないと思っていたが、それは入社するまでの考えで、初めて同じ名字のレンに出会った時は少しだけ近親感が沸いたのを覚えている。どんな人だろうと思いを膨らませて顔を合わせてみれば予想以上に素敵な人だったことは本人には告げていない。
「それでさ、名字で呼び合っているけどなんだか自分のことを呼んでいるみたいだから、鏡音さんのこと名前で呼んでもいいかな?」
「私はいいよ。代わりに私も鏡音くんのこと名前で呼んでもいい?」
「もちろん!」
 本人から許可を得たので練習も兼ねてリンは小さくレンの名前を呟くと、なんだか名字で呼んでいた時よりもレンの存在が近くなったような気がした。名前呼びをすると親しくなれると高校時代の友達が言っていてそれを半信半疑で聞いていたが、今ならその通りだと素直に頷くことができる。
「リンさん、これからよろしくね」
「あ、うん。これからよろしくね、レンくん」
 改めての挨拶に若干戸惑いつつも返したが、これからの部分に違和感を覚えてしまうのは何故だろうか。しかしレンは変わらない笑みを浮かべているので気のせいだということにして、リンは急須の中にあるお茶を湯呑の中に注いだ。



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旧サイトでお世話になったつきちゃんに捧げます。
誕生日プレゼントなのに意味の分からない話になってごめんね!
レンくんは前からリンちゃんのことを気にしていたんだけど、今回話したことで見事に恋に落ちました。で、恋人の座を手に入れるためにリンちゃん攻略を開始したよ!みたいな話です。はい。

遅くなって本当にごめんなさいっ!

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