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子供でいて欲しい瑛或×大人になりたがる広輝


 夜の活気が嘘のように静まり返った、寒々しい色里の朝。盛大な煌びやかさはすっかりなりを潜め、漂う空気はどこか神聖めいている。人影といえば早朝帰りの客がちらほら見受けられるのと、泥酔したまま道端で眠ってしまった金のない客が唇を紫色にさせて夢の中に居るだけである。そんな風景が日常的に見られるここでは、誰かが傍を通っても横目で見ながら素通りしていくばかりだった。
 この遊里に、一際大きな店を構える遊女屋がある。従える遊び女達は粒揃いで、豪華絢爛という言葉が良く似合うような最も繁盛している屋敷。そこの天神の地位を任されている遊女、広輝天神は、まだ禿達も眠っているような時間から厨房に立っていた。本来高位の遊女が厨房に立ち料理をすることはほとんどないが、彼女は時間を見付けては趣味の料理を楽しんでいるのだ。
 では何故今日に限って早朝から料理をしているのか。それは町内で収穫祭が催されるからだ。出店などが立ち並び、皆で騒ぐこの日を楽しみにしている幼い禿や新造のために、広輝は毎年こうして腕によりをかけた甘味を振る舞っているのだ。
 鍋の火を止めた広輝は、長く息を吐き出した。彼女が瞳を瞬かせる度、小窓から漏れる僅かな朝日を受けた睫毛が煌めく。その姿はまるで細かな氷が絡んだようで、彼女の雰囲気をより清純に磨いてゆくのだ。
 しかしそんなことを当人が知る由もない。早く下拵えを終わらせようと材料に手を伸ばした所で広輝は気が付いた。砂糖が足りないのである。十分に用意したはずなのにどうして。大急ぎで記憶を遡った彼女は、昨日作った試作品に苦戦したこと、それから女中にお裾分けしたことを思い出し、さあっと顔を青くした。今から買い物に行くしかないが、はてさてこの時間から店は開いていただろうか。広輝はしばし思索して、仕方あるまいと街へ出る支度を始めたのだった。


「……瑛或、さん?」
「ああ、上原。おかえり。思っていたより早かったね」


 砂糖を買った広輝が屋敷に戻って来たのは、早朝の寒さが大分緩んだ頃だった。この遊女屋で抱える女郎の人数から見て、急いで準備をしないときっと夕方になってしまう。それではいけないと慌てて厨房に入った広輝の目についたのは、木箆で鍋の中身をかき混ぜている瑛或の姿だった。室内には砂糖や餡など、特有の甘い香りが立ち込めている。瑛或は驚く広輝に視線をやりつつ、火を消してから木箆を持つ手を止めた。


「起きて来たらこの状態で放置してあったから、この材料で作れる分だけ作ってしまったよ。勝手にごめんね」
「あ、いえ、良いんです。間に合わないかなって思っていたから、助かりました」
「そう。それなら安心した。味は酷くはないと思うんだけど一応味見してみて。あの子達にはもう少し甘い方が良いかも知れないからね」
「そうですね。……でも、どうして何を作っていたのか分かったんですか? 材料を見ただけだと分からないだろうし……」
「昨日の昼餉のとき、自分で言っていたことをもう忘れたの? 上原も案外忘れんぼうさんだね」
「え……あっ、そういえば」


 どうも所々の記憶が欠落しているようだ、と自分に半ば呆れる広輝を見透かして、瑛或は「気にすることないよ」と声をかける。時たまではあるが意固地になって誰かに頼ることもせず、ひとりで物事を成し遂げようとする節が広輝にあることを、瑛或は知っていたのだ。まだまだ子供なのだ、とは思うだけで当然言うに及ばないけれど。遊郭という狭い世界の中では確かに自立し、立派な遊女としてやっていけている彼女も、瑛或にとってはこの先もずっと妹女郎なのだ。齢の差、世間を見続けてきた年月というものはどうしたって埋まらない。
 汲み置きしておいた水で手を洗った広輝は、しゃんと背筋を伸ばして瑛或の隣に立った。聡い広輝も、やはり瑛或の思いに気付いているのだ。それならば自分は好きなだけ大人ぶってやろうじゃないか。この人の近くで、粋がる振りでたくさん甘えてやろう。彼女がそんな飴色の感情をそっと心に秘めたことに、果たして瑛或は気付いたのだろうか。
 青く澄んだ秋空はふたりに負けないくらい清々しくて、その壮大さで瑛或も知らないような世界ごと包み込む。どこまでも広がる蒼穹は、もうじき町から祭囃子を運んでくるのだろう。




砂糖水にとろける








◎121031
ちょこっとだけハロウィンを意識してみました。心理描写が少ない……!



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