※転生ぱっつち。ハッピーエンド。




 既婚者。既に結婚をしている者。
 男の指には、そうだと示すところに指輪がはめられてあった。
 だが、自分が十年も遅刻したから仕方のないことだと彼は受け入れる。
 でも、キラキラと光るそれはとても目障りで。いつでもどこでもつけているそれは本当に大切なものなのだろう。
 どうして待っていてくれなかったのだ、と彼は苛立ちと涙を溢す。








 『好き』を捨てればシアワセになれるだろうか。
 『好き』を手離せばこの『痛み』からも解放されるだろうか。
 そう考えが行きついたのはもう何度目だろう。
 だが、声が聞こえてしまえば、目が合ってしまえば、だめなのだ。
 決心は簡単に揺らぐ。
 たとえ、その薬指に指輪が光っていたとしても。

「先生」

 土方は坂田銀八をそう呼ぶ。当然だ、クラス担任なのだから。いくら土方に前世と呼べるような記憶があっても彼は教師であり、もう恋人ではない。
 土方は高校に入学し、坂田銀八の存在を知った。入学式の会場でやる気なく欠伸をしている姿を視界の端にとらえた時、土方はあまりの嬉しさに泣きたくなった。
 と、同時にその左手に泣きたくなった。
 銀八に以前の記憶はないのだろう。いや、あったとしても自分のことを忘れるほどに待たせてしまったのだ。

「どっちにしろアウトだ…」

 土方は呟く。自分が悪いのだと。放課後の教室にそれは虚しく響いた。今日の日直は土方だ。授業が終わってから日誌を書き、担任のもとに持って行かなくてはならない。2年になり、担任が坂田になったことでそれは土方を憂鬱にさせるに充分なことであった。
 土方は日誌の表紙に書かれている名前を指でなぞる。3文字目までは記憶通りのものだ。
 最後の一文字だけは以前と異なる。

「…だから、覚えてねぇのかよ」

 芯の出ていないボールペンの先で『八』を二重線でかき消す。そんなペンで何をしたところで消えるわけもなく、跡すらもつかない。
 土方は何かを諦めたようにため息をつき、今日のページを開いた。一限目からを時間割順に各授業で何を学習したかを書き出していく。そして次は今日の連絡、できごと、要望の欄。

(要望って、本心でも書けばいいのか)

 そんなことを思ったところで書けるわけもなく、勇気もなかった。
 しかし、その小学生のようなその項目は学校側が用意したものなのか。それとも銀八が個人的にこの日誌の用紙を作っているのだろうか。そうだったら相変わらず変なところでマメな野郎だな、と土方は笑う。
 だが、笑ったところで書くことはない。
 特になし。
 それを綺麗とも汚いとも言えないような字で書き、土方はペンを置いた。そして書き残しがないかを確認する。
 すると枠線の外、紙の右上に空白があった。
 担任名だ。
 担任教諭など1年間変わらないのだから毎日書く必要はないだろう、と心の内で文句を言いながら土方はペンを握った。
 下線が3センチメートルほどあり、そのすぐ横に『先生』と印字されている。

「坂田、先生」

 ただそう書けばいいはずだ、と土方は1文字目を書き出す。
 『坂』
 それはずいぶんと小さく、そして左に寄ってしまったように見える。だが、それはわざとであり、土方の癖でも何もない。詰めて書けば、4文字を3センチメートルに書き切ることができるのではないか。
 完成させた4文字はきっちりと下線内に収めることができた。
 土方はいつもり時間をかけ、一画一画を丁寧に書いたその文字を見ながら笑う。しかしこれでは提出できない、と筆箱から修正テープを取り出そうとした時、教室のドアが開かれた。
 ガラッと静まった教室にその音は響く。

「遅いから忘れて帰ったのかと思って、見に来たんだけど」

 現れたのは担任教師であった。いつものように猫背で、スリッパを引きずりながら教室に入ってくる姿は土方の記憶と少し重なる。ただ煙草をふかしている姿だけは違い、そこを見ていて、日誌を閉じるのを忘れた。
 まだ書いてたの?と坂田は土方の机の前に立つ。

「す、すみません」

 修正テープはなんのために掴んだのだったか。土方は慌てて、日誌を閉じようと手を動かすが坂田がそれを阻む。

「ねぇ」

 閉じかけたノートに手を入れられ、開かれる。左手で押さえられたことでノートは暴かれ、名前があらわになった。
 そして左手の薬指がキラリと光る。それに土方が気を取られている間に坂田は一歩前に出て、背筋を折る。
 ぐっと顔が土方に近づく。

「坂田、銀時ってさ」

 坂田はノートの隅を左手で指差す。

「…間違えました」

 担任の名前もろくに覚えていない生徒だと思われても別に構わない。
 一生徒から脱することなどできないのだから、大した意味はない。

「ほんとうに、間違えただけ?」

 俯いた土方に坂田は言葉を投げかける。それは土方が予想しないものだった。土方の口から漏れる音は文字にならない。
 目を見開き、ただ坂田を見るとその表情はよく見知ったもので。


「前みたいに、銀時って呼んでみろよ。

 十四郎」


 土方を見下ろすように坂田は言った。
 一度も呼ばれたことのなかった名前に土方の身体は固まる。強張る。怯える。
 全てに気付いていたのだろうか、知っていたのだろうか。手を握り締めると、手のひらに爪が食い込むのがわかった。
 土方は手をそのままに顔を上げ、坂田を睨みつける。坂田はその視線で土方の言いたいことがわかったのか首を傾げて笑う。

「んー、ちょっとした意地悪?」

 笑い事ではない、と土方は眉間の皺をより深くする。だが坂田はその飄々とした雰囲気を崩さない。

「土方が遅刻したから」

 坂田は人差し指を突きつけ、笑顔で告げた。
 その指先は刀の切っ先のように土方へ圧迫感を与える。

「……それも、か」

 土方は坂田の薬指に視線を落とした。
 キラリと光るそれは刀よりも鋭く光り、土方の心を追い詰める。ごくりと土方が唾を飲み込む音が響くと、坂田は笑った。
 そして銀八を名乗る男は己の左手の薬指を親指でなぞり、白衣のポケットから小さな箱を差し出す。


「これはさ、ここは先約がありますよって印なんだよ、
 受け取ってくれる?」




―――――――

もう、意地悪く笑う余裕なんてない。

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