天槍アネクドート
野望と恋の話(2)
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「僕がイシュテン伯爵家との縁談を『やっぱりやめる』って言ったら、君は大公妃になれませんよ? いいんですか?」
「そんなこと……わたしは大公妃になりたいのではなく……」
「僕のことが好き? 本当に? 手紙のやり取りだけで? キスされるのは嫌なのに?」
 ティアナが眉間にしわを寄せると、エイルリヒは高圧的な笑みを浮かべた。およそ十四の少年には到底見えないような、高みから人を見下ろし使うことに慣れた笑み。こんな格好でなければティアナは素直に感心していただろう。それは人を従える者の顔だと。
 しかし現実はこれだった。体重をかけて抑えつけられた手首が痛い。この辺を加減することはまだ知らないらしい。ティアナの顔には痛いという訴えが滲み出ているはずだが、酷薄な笑みを浮かべる一方でエイルリヒの気分は本人が思っている以上に昂ぶっているのだろう。まるでティアナの痛みには気づいていないようだ。
「僕が手紙に書いたこと、すべて覚えてくれていて嬉しいです。でも、変だなって思ったんですよ。君はお暇な深窓の姫君じゃない。王子の身の回りの世話を実質的に監督する有能な侍女です。毎日忙しいでしょう? それなのに僕のためにお菓子を作って、レースを編んで、僕のことばっかり考えてる。どうして? そんなに僕に気に入られたい?」
「恋する乙女だから、とは思って下さいませんでしたの?」
「思えなかったなぁ、実は。手紙からも感じていたんですけど、君、ディルクと同じ匂いがするんだもん。人当たりの良い笑顔を振りまいて、心の中では何を思ってるの?」
 エイルリヒの唇が耳許で囁く。ティアナは答えに詰まった。
 新しい主と同じ匂い、か。
 そうかも知れない。彼とわたしはやり方が似ているかも。でもそれはつまり、エイルリヒに似ているということでもあるのだ。
 だったらいつものように微笑みながら言えばいい。わたしは大公妃になりたいと。それにはあなたの伴侶になる必要があるのだと。
 そして王妃クレスツェンツのような、勇気と行動力のある、民を守る国の母になる。そう決めているのだ。



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 父を手伝い、王族の身体に触れることも許されるような最高位の医官になりたい。
 物心ついた頃から抱いていたその夢は、怒りと悔しさの前にあっさりと崩れ去った。

 それは八年前の疫病の時の話だ。
 高潔な医師だと思っていた父ですら、王国南部への医官の派遣について慎重な意見を出していた。
 教え子から助けを求める声が届いていたことや、彼を初めとする南部の医師たちが見つけ出した症状を抑えるのに効果がある薬について、王へ上奏したかどうかも怪しい。

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