王妃の夢中夢
夢で見たネタをそのまま文章化しました。死ぬ間際、王妃様が体から抜け出してふわふわしてるところをアヒムが迎えに来るという話。アレ過ぎて表には乗せられません…2pあります。



 強い眠気に襲われ、クレスツェンツはいつの間にか目を閉じていた。
 その直前、夫と話していた気がする。伝えておかなければならないことがたくさんあり、クレスツェンツは掠れる声で一生懸命に言葉を紡いだ。あまりにも必死な妻を見かねて、彼が「もう休みなさい」と言ってくれたのだった。
 そしてほんのわずかな時間うとうとしていたクレスツェンツは、頭の中を霞のように覆い尽くす眠気が唐突に晴れていくのを感じ、ぱちりと目を開けた。
 二、三度瞬き、見慣れた自分の寝室にいることを確かめる。目の前には夫がいた。つい先程、きっとクレスツェンツが眠るのを見届けて出て行ったであろう彼が。
 もう戻っていらしたのですか。わたくしはまだいくらも眠っていませんよ。
 そう言おうとして開きかけたクレスツェンツの唇は凍り付く。
 夫は彼女の寝台の傍らに屈み込み、骨の浮き出たクレスツェンツの手を、そして潤いの失われた頬や瞼を労るように撫でている。
 クレスツェンツはその光景を、寝台の傍に立ち尽くして見ていたのだ。痩せ、骸骨のようになって横たわる自分と、『彼女』を愛おしげに撫でる夫の姿を。
 不思議な眺めに理解が追いつかず、クレスツェンツは再び目を瞬かせた。そうしている内に横たわるクレスツェンツを撫でていた夫は立ち上がり、しばし無言の妻を見つめ、名残惜しそうに踵を返した。
 寝台の傍に控えていた医女が道を譲る。彼は振り返ることなく部屋を出て行く。
「陛下……」
 クレスツェンツが呼び止めても、夫には聞こえていないようだった。
「王妃さま、お身体を清めさせて頂きますね」
 代わりに湯をはった洗面器と手拭いを持った医女が近づいてきて、そっとクレスツェンツが被っていた毛布をよけ、寝間着の前を少し開いて胸元や首筋、肩から腕を丁寧に拭いていってくれる。それを見ていたクレスツェンツは優しい手の感触を思い出し、自分の肩を抱きしめるようにしてさすった。
 ああ、そうだ。
 クレスツェンツが寝台からまったく起き上がれなくなってから、二週間が経とうとしていた。
 蘇った記憶に戸惑うことなく、彼女は溜め息を吐いた。
 わたくしはもう死ぬのだな、と。


 夫と話がしたい。そう思ったクレスツェンツは彼の後を追うことにした。否、後を追おうと思った瞬間、彼女は廊下に立っていた。
 侍従長と警護の騎士を引き連れ、夫が薄暗い廊下を歩いて行く。クレスツェンツはしばらくその後をついていったが、やがて彼がドンジョンの執務室に入るところを見届けると、一緒に部屋へは入ってはいかずに扉の前で立ち尽くした。
(お忙しいかな)
 まだ朝も早い時間。これから王は一日の予定を確認し、十時からは諸大臣や高級官僚を集めての朝議がある。
(あとにしよう。まあ、わたくしの声は聞こえていらっしゃらないようだけど……)
 クレスツェンツはその場を離れしばらくドンジョンの中を彷徨った。
 身体がこんなに軽いのは久しぶりだ。少々軽すぎる気もする。心なしかふよふよと浮いているようだ。行き先が思いつかないせいだろうか。
 結局来た道を戻っていたクレスツェンツは、途中で、先程身体を拭いてくれた医女とすれ違った。そのあと彼女は、向かいから歩いてきた侍女に呼び止められる。
 気になったクレスツェンツは、立ち止まって彼女たちを振り返った。医女を呼び止めたのは、息子クヴェンの侍女、イシュテン伯爵家のティアナだ。
「王妃さまのお加減は如何ですか?」
 花籠を持った彼女は声をひそめて医女に尋ねた。
「今朝もお目覚めになるご様子がありません。それは、王子さまからのお見舞いのお花でしょうか?」
「はい。クヴェン殿下が今朝、温室から摘んでいらっしゃいましたの」
 ティアナが大切に抱いている花籠には、小さな薔薇がたくさん詰められていた。クレスツェンツが好きな、白や黄色の淡い色の花ばかりだ。
 クレスツェンツは胸にこみ上げてくる、焦りとも悲しみともつかない感情に目を見開いた。
「御覧頂けるとよいのですが」
 ティアナは何かを堪えるように眉根を寄せ、医女は力なく項垂れる。
「もう、息をしていらっしゃるのもやっとのように思えます。それでもまだ起き上がろうとなさっている気がして、見ているこちらが辛くなりますわ……」
「何を仰っているのですか。王妃さまなら必ずまたお元気になられます。お世話をするカーヤ様がそのような弱音を吐かれてはいけません」
「ええ、ええ、そうですね」
 ティアナがうんと年上の医女を叱る声を背中で聞きながら、クレスツェンツは次の目的地を決め、歩き出していた。


 クレスツェンツの唯一の息子、クヴェンは、今年八つになった。五つになった年には東の宮で暮らすことを父王に命じられ、それからずっと、やがて王太子に指名される王子として、一人で東の宮に生活している。
 もちろんクレスツェンツは時間を作っては息子のもとを訪ね、クラヴィアのレッスンをしたり、外へ連れ出し一緒に遊んだり、図書館で彼の教養のもととなる本を読んであげたりした。
 しかしクヴェンはクレスツェンツの息子であって、クレスツェンツの息子ではない。誰かの子である前に、彼はこの国の世継ぎだ。母親として甘やかしてあげられる存在ではなかった。クレスツェンツ自身も己の夢を実現するために駆け回っており、一緒に過ごせた時間は決して多くなかった。
 それなのにあの子はクレスツェンツのことをよく知っていた。好きな色、花、息子である自分が何をしたら母は喜ぶのか。
「ティアナはお母さまとお話し出来たと思う? カミル」
 朝食を終えたところだったらしい。クヴェンは食後のお茶を差し出してきた侍従を見上げて訊ねた。夫と同じ、淡い金色のさらさらした髪が肩につくほど伸びている。そろそろ切るか結ぶかさせなくてはいけないなと思いながら、クレスツェンツは息子の傍に立って彼を見下ろした。
 病が急激に悪化したひと月前から、クヴェンに会うことは出来なかった。ひと月。本当に短い時間なのに、息子は会う度に大人びていく。いつも驚かされていたものだ。そして今日も。
 けれどもまだまだ子供だ。口の端に、ミルクかヨーグルトの白い雫がついていた。本人は気がついていないらしい。クレスツェンツはそれを拭ってやろうと屈み込んで手を伸ばしたが、彼女の指は息子の肌の奥へすっと消えていってしまう。
「きっとお花を王妃さまにお渡しして、殿下のお見舞いの言葉をお伝えしておりますよ」
 クレスツェンツの反対側に立っていたカミルが、え笑いながらクヴェンの口許をナプキンで拭った。クヴェンは恥ずかしそうにしながら侍従を仰いでお礼を言う。
 クレスツェンツはやり場のなくなった手を引っ込め苦笑した。
「ヴィンフリーデ先生の授業が始まるまで音楽室に行きたいな」
「クラヴィアのお稽古ですか?」
「お母さまが僕の弾く『テルテスの夕べ』を聴きたいって仰っていたんだ。少しご病気がよくなられたら、弾きに行って差し上げたいんだもん。練習して、いつでも完璧に弾けるようにしておかなくちゃ」
「畏まりました。では、一時間ほどなら」
「うん!」
 時計を確認したカミルが微笑むと、クヴェンは嬉しそうに頷いた。
 クレスツェンツは、そんな息子を見上げながらテーブルの上に置かれた小さな手に自分の手を重ねる。何も感じなかった。瑞々しい肌の感触も、その下にあるはずの息子の血潮の気配も、何も。
 母がそこにいるとは知らないクヴェンは、お茶を少し啜ってから嬉々として椅子を飛び降り、侍従を急かしながら部屋を出て行く。
 小さくて、すぐに大きくなるであろうその背中を見送りながら、クレスツェンツは涙を一筋流した。
 息子の弾く『テルテスの夕べ』を聴いてあげることは出来るだろうか。
 己に問うてみて、クレスツェンツは重苦しく溜め息を吐く。
 母を喜ばせるために、また母の快癒を願い、あんなに一生懸命練習してくれているのに。また起き上がって、彼を抱きしめることは出来ないだろう。
 クヴェンが得意げにクラヴィアを弾く姿を見たい。成長していく姿を見たい。妃を迎え、偉大な父の後を継ぎ、立派に国を治め民を愛する彼の姿を見たい。
 それなのに、おいて逝かなくてはならないのか。
 悲しくて、無念で堪らなかった。


 ガラーン、ガラーンと、大鐘楼から重厚な鐘の音が王都中に響き渡る。
 朝食を配る医女や手伝いの町の女達が、次々とクレスツェンツを避けることもなく通り過ぎていく。彼女らは王妃が久しぶりにここへやって来たことも知らずに、患者たち一人一人のもとへ柔らかい粥を運んだり、小さく切った果物を食べさせたりしていた。
 朝の陽光が差し込む施療院の大部屋の中だ。夏の厳しい暑さは通り過ぎ、換気のために開けた窓から爽やかな風が入ってくる。寝台の上で朝食を摂る患者達の顔色は、どれもここ数ヶ月のクレスツェンツより遙かによかった。
 食事を終えた患者達の食器を下げるトレーの上には、不思議な形に折られた白い紙がいくつか乗っていた。せわしなく行き来する女達の手元をよく観察してみるが、だいたいどのトレーにもその紙は乗っているようだ。形までは確認出来ない。
 あれは何だろう、と気になったクレスツェンツは、いつも食事時の手伝いに来てくれている近くの商店の女将の後をついていった。
 彼女は食器を厨房に持って行くと、片隅に置いてあった籠の中へその白い紙を放り入れる。手に取ることは出来なかったが、クレスツェンツは籠の中身を見てピンときた。
 これは食事と一緒に患者に配られる薬の包み紙だ。それを花の形に折ってあるらしかった。どうやら、薬を処方された一人一人がその紙で花を折っているらしい。
「それじゃあ、あたしはそろそろ失礼しますよ。お花、祭壇に持って行っておきますからね」
 あらかた食事の片付けを終えた厨房を見渡し、女将がそう言った。医女や他の手伝いの女達が「はぁい」と元気のよい返事をする。女将は籠を持って施療院を出る。クレスツェンツは再び彼女の後をつけた。
 女将はまっすぐに大教会堂へと入って行った。庶民の祈りの時間は既に終わっており、広い広い聖堂の中では数名の僧侶が祭壇に奉った供物を下げている。女将は僧侶の一人に声を掛けてから、彼の案内のもと、祭壇に向かって左手へ進路を変える。
 これは解せない。天の主神を祀る祭壇は聖堂へ入って真正面にある。女将は紙の花を「祭壇に持って行く」と言っていたはずだが。
 やがて彼女が立ち止まったのは、ある天井画の真下。見上げれば、そこにいるのは天の主神の第十番目の娘、救療を司る女神ユーニキアだった。女神の真下には、小さな祭壇が拵えてあった。
 祭壇は白い紙の花に殆ど埋まっているような状態だった。辛うじて見える壇上には、本物の花も飾ってある。
 女将は籠から丁寧に紙の花を掬い上げ、祭壇の周りに積まれた花の上に、更にそれを盛っていく。
 そして彼女は跪き、祈りを捧げた。
「王妃さまのご病気がよくなりますように」
 クレスツェンツは息を呑んだ。しばらくじっとして祈りを捧げる女将の背中を見守る。やがて女将がいなくなると、彼女は祭壇の前に立って天井画を見上げた。
 ドーム状の天井に描かれた女神ユーニキアは、銀に輝く雷の槍と、もう一方の手には青い花弁の花を持っていた。あの花は地上にはない甘美な香気を放ち、万能薬になるという。それ故に彼女は病から人々を救う女神とされていた。

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