拍手御礼B
本編からドロップアウトしそうな近衛騎士さんたちの日常の一幕を敢えて書いてみました。本編より1年ちょっと前の話です。これがぶち壊されたとなるとかなり後味悪くなるかも知れませんし(笑)、後味悪くなるように仕上げましたので(笑)、そのつもりでお読み下さい。


 秋の気配はまだ遠く。
 木陰で涼みながらぼんやりと重なり合う枝葉を見上げていたライナは、木漏れ日に突然目を射られ、うっと呻いて顔を伏せた。彼は舌打ちすると、苛立たしげに立ち上がって、けれどまたその木陰に座り直す。調練場へ戻ろうかと思ったが、日光の下へ出る決心がつかなかったのだ。
 もともと短気なライナは、晩夏とは思えないこの暑気で更に気を短くしていた。わけもなくいらいら。木陰に入ってシャツの胸元を寛げたくらいではどうにもならないこの暑さを、誰か何とかしろ。いらいらいらいらとそんなことを考えるが、誰にもどうにか出来ることではない。
 同じ近衛隊に所属する騎士たちの幾人かは、この休憩時間に連れ立って近くの水場へ向かった。何をするつもりかと言えば簡単だ。水を被ってくるのである。ライナも誘われたが、新入りの坊やよ可愛がってやる、と面白半分に言葉を掛けられ、つい反発して断ってしまった。
 後悔なんかしているわけがない。だってずぶ濡れになった後どうするのだ。自分たちは近衛騎士だ。調練という歴とした任務の最中である。子供や庶民の遊びじゃあるまいし、頭から水を被ってはしゃぐなんてこと俺はしないぞ。むつっとしながら目を閉じて、ライナは再び木の幹に背中を預ける。
 暑いのはどうしようもないが、木陰を吹き抜けるからっとした風は心地よかった。先日まで熱風が吹いていたことを思えば、気配は遠いけれど秋は着々とこちらへ向かっている。もともと、シヴィロ王国の夏は短い。もう少し我慢すれば、この風もすぐに冷たくなるはずだ。
 ライナを撫でていくその乾いた風の中に、ふと甘やかな匂いが混じった。
(香水……?)
 それも、女物の香り。鈴蘭だろうか。ここは兵士しか出入りしない調練場の脇で、香水をつける女官はおろか、女の召使いも近づかないような場所のはずだった。
 久しく嗅いでいない上品な異性の香りに誘われて、ライナは目を開く。辺りに女の影は見当たらない。けれどその怪訝な香りの出所を求めて、ライナはいよいよ木陰から出た。
 木陰から二、三歩移動すると、彼が座っていた場所からは見えなかった調練場の入り口の門に、白いドレスの裾がはみ出しているのを見つけた。もう少し近づくと、ドレスと同じ白いレースの日傘を差した女が、開かれた門扉にはりつくようにして中を覗っているのが見える。
 王城に来ていた貴族の娘が迷い込んだのだろうか。いや、多分違う。女は明らかにこっそり中の様子を確かめようとしている。迷い込んだのではなく、好奇心いっぱいに騎士の姿を覗きに来たのだろう。
「おい、そこで何してる」
 ライナは態と刺々しい声音でその女に声を掛けた。彼女は微かに悲鳴をあげて、ずかずかと歩み寄ってくる若い騎士を振り返る。
 傾けた日傘の下から、淡い緑色の大きな瞳が覗いた。驚きに瞠られているせいもあるのだろうが、どこか幼くも見える彼女の目許が、強烈な印象になってライナの脳裏に焼き付いてくる。
 かわいい。
 次の瞬間には、純粋にそう思った。
 しかしそれだけではない。肌が白いのか、それとも椿の花のように赤いせいか、緊張気味に引き結ばれた唇に自然と目が行ってしまう。女の首筋や浅く開いたデコルテにはうっすらと汗が滲んでいて、色味の薄い金髪がほつれながら貼りついているさまは、どこか艶めかしい。
 髪も結い上げていないし、顔つきも幼い。自分と同じ年頃の娘だろうか。それにしては色っぽい気がする……。
「あの……」
 押し黙ったライナがしかめっ面だったからか、はたまた彼の視線に異性への興味が混じっていることを感じ取ってか、女は泣きそうな声を絞り出した。
「興味本位で騎士の調練を覗くな。帰れ」
 何もしていないのに怯えられ、ライナはかちんとした。お望み通りと言わんばかりに凄んでみたが、女は肩を竦める割に立ち去ろうとはしない。代わりに日傘の柄と一緒に握りこんでいたブローチを怖ず怖ずと差し出してくる。
 ライナはそれを乱暴に取り上げた。大振りな黄金のブローチは、剣と槍を脚に持った不死鳥の意匠である。手前の翼にはサファイアが嵌め込まれていた。黄金と濃青の組み合わせはシヴィロ王家を示し、不死鳥は騎士を示し、そして剣と槍を携えた不死鳥は、特に近衛隊長の地位を示す意匠だった。
「お前、なんでこれを持ってる!?」
 これは本来近衛隊長の――ラヒアック・ゼーリガー将軍の胸元についているべきものである。几帳面な彼が落とすはずはない。まさか目の前にいるか弱げなこの女が盗んだとも考えられないが……。
「あの、わたくしは……」
 女の大きな瞳が、怒鳴られて途端に涙で潤んだ。いっそう黒目が大きくなったように見える。か細い声で何か言っているが、ライナには少しも聞き取れない。
「とにかく、隊長の所へ来い。どこで拾ったんだこんなもの」
 ライナは女の手首を掴んだ。女が着けている、ちらちらと水晶の粒が揺れるブレスレットの感触がやけにひんやりと感じられるほど、しっとりして温かい肌。こういうものに触れるのは、初めてかも知れない。わけもなく胸が騒いだ。
 一方、女は短く悲鳴をあげてライナに抗った。日傘を放ってライナの手を解こうとするが、膂力など比較するまでもない。戒めを剥がそうとする手も掴み上げると、彼女はようやくまともに聞こえる声ではっきりと拒否を示した。
「お、お放し下さい……っ」
「だったら暴れるなよ!」
「夫に、夫に会いに来ただけです!」
「はぁ?」
 頓狂な声を上げるライナを、女は今にも溢れそうなほど涙を湛えた目で見上げてきた。ちょっと威嚇しているつもりなのか、眉根を引き絞っている。少しも怖くはないが、むしろ悩ましげに見えるその表情にライナは狼狽える。
「い、意味が分からん。それにこのブローチはなんだ。説明になってないじゃないか」
「それは父のものです……」
「父――?」
 脳裏で何かがひらめく前に、ライナの思考は近づいてきた笑い声に遮られた。水を被りに行った先輩らが戻ってきたのだ。シャツを脱いで水を被ったまま、上半身裸でやって来る者もいた。ライナ同様、彼らに気づいた女は頬を赤らめて顔を伏せる。
「おお! 新入りが女を連れ込もうとしてるぞ!」
「ち、違う! こいつ、隊長のブローチを持ってて……」
「隊長のブローチ?」
「どちらの姫君かな? ここは若い女の近づく所じゃないぞ」
 大勢の男に囲まれるのはやはり不安なものがあるのだろう、女は一層激しくライナの手を振り払おうともがき始めた。ライナも負けじと指に力を込める。相手が痛がっているいるかも知れないとは思いつきもせず。
「エリカ?」
 興味津々に女を眺める騎士たちの後ろから、少し驚きで上擦った声が上がった。弾かれたように顔を上げる女。騎士たちも声の主を振り返る。
 髪から雫を滴らせる若い騎士が、シャツを羽織りながら進み出た。ローデリヒだ。
 温厚で真面目な彼が、先輩らに混じって水を被りに行くと言った時には意外に思ったライナだったが、女を捕まえるライナの手を引きはがす乱暴さにも、また驚いた。
「はぁん、なるほど」
 騎士の一人がその様子を見てにやにやと笑い、呆気にとられているライナの肩に濡れた腕を乗せてきた。
「おい、ブローチ。返してやれ」
「なんで……あ!」
 また別の騎士が、ライナの握りしめていた金のブローチを即座にもぎ取る。彼もまたにまにまと下卑た笑みを浮かべて、そのブローチをローデリヒに渡していた。
「行くぞ新入り。休憩は終わりだ」
「ちょっと待てよ。誰なんだあれ!?」
 ライナは肩に回された腕に引きずられるまま、その場を離れるしかなかった。可能な限り首を捻って振り返ってみると、仲間たちは順番にローデリヒの肩を叩いたり小突いたりしながらぞろぞろとライナたちについて調練場の中へ戻ってくる。
「ローデリヒの嫁だろ。しかも前の近衛隊長のご息女だよ」
「よ……あいつ結婚してたのか!?」
「あっははは! 知らなかったのかお前!」
 ライナはバシバシと頭を叩かれながらもう一度振り返ってみた。ローデリヒが、女の放り投げた日傘を拾っている。彼はそれを畳んで女に渡すと、彼女の顔の高さに合わせて少し身体を屈めた。女もローデリヒを見上げて心持ち背伸びをする。
 二人が口づけを交わすのが見える前に、ライナの歩調に合わせて調練場の門が視界を遮った。
 かーっと、耳まで熱くなってくるのが自分で分かる。加えて、むかむかと胃の辺りから怒りがこみ上がってきた。
「噂通り、美人だったな」
「ああ。遠目にしか見たことなかったが、間近で見るとプラニーア(春の女神)なんて例えられるのも分かるぞ」
「調練場に来るなんて、規則違反だろ」
「何赤くなってるんだよ」
 ライナが憮然としながら呟くと、彼を挟むようにして歩いていた二人の騎士は真っ赤になっている少年を見て大声で笑った。あんまりに喧しいので、ライナは二人を振り払って足を止めた。
「いくら父親が退役した将軍だからって、近衛隊長の紋章を使ってこんな所まで入り込んじゃだめだろ。なにやってるんだ衛兵隊の連中は」
 か弱げな美しい女にうるうるした瞳で見つめられる、しかも女は近衛隊長の紋章を持っている。近衛隊の関係者なのかな、いや、そんなはずはないだろうけれど、こんな儚げな女ひとり、特に怪しいわけでもあるまいし――多分そんな感じで、各門を守る衛兵たちは彼女を通してきたのだ。
「ははぁ、お前僻んでるな? 真面目で大人しいローディがご婦人方にわりと人気な上に、美人な奥方がいるってことに。しかもその奥方は前近衛隊長の娘、ということは、ローディはその跡目。立場も美味しい」
「誰もそんなこと言ってないだろ!」
 そこまで思いついていたわけではなかったが、騎士に指摘され、ライナは思っていたいた以上に腹が立った。ただ、騎士が言ったことの前半は、ずばりその通りだ。
 王が公の場に出る時、その周辺を守っている近衛騎士というのは武官の花形だ。当然、既婚未婚を問わず、女性たちがそれを観賞して好き勝手に品定めしている。全く非公式な、剣術の腕とは別な格付けがあるとも聞いた。ローデリヒは、現職の近衛隊長ラヒアックと剣で勝負しても、三本の内二本はとれる腕前らしいし、何故か貴族の妻女たちが作った格付けの中でも上位だった。任務中にこにこして愛想を振りまいているわけでもないのに、だ。きっと“隊持ち”の騎士ではではないため、いつも王の傍に立っていて目につくからだ、とライナは思うことにしている。理由はどうあれ、実は羨ましい。
 むくれているライナの様子に飽きたのか、先輩の騎士らはそれぞれ制服と胸甲を身につけながら後輩には目もくれずローデリヒの噂話を始めた。
 曰く、さして地位の高くない地方官の息子であったローデリヒは、十五になるとすぐに都へ上り、騎士になるべく父親の友人であったブレンナイス将軍のもとに身を寄せた。将軍の唯一の娘であり、今は彼の妻であるエリカ夫人とは、その時からずっと一緒に暮らしていたそうだ。正式に彼女と婚姻を結んだのこそ去年の春の初めだが、二人は長らく恋人同士で、息子がいなかったブレンナイス将軍も、初めからローデリヒを婿に迎えるつもりだったとか――。
 籠手をはめながら盗み聞きしていたライナは、あのエリカという女性がローデリヒと同い年だということに絶句した。自分と同じくらい、つまりローデリヒより三つか四つは年下の幼妻だろうと思っていたからだ。
 くりんと大きな、可愛らしい瞳が思い出されて、ライナはもやもやしながら首を振ってその記憶を追い払った。
 ライナが剣を手に取ったところで、先程の光景を見ていた同僚たちに小突かれながらローデリヒが戻ってきた。どちらかと言えば人の世話役に回ることの多い彼は、あまりからかわれることに慣れていないのだろう。苦笑しながら仲間たちの手をやんわりと払ってやって来て、ライナの隣に置いていた自分の制服と胸甲に手を掛けると、彼の口から小さな溜め息が漏れた。
「規則違反」
 低い声でライナが言うと、ローデリヒがひくりと震えて手を止める。
「悪い。隊長には後で報告する」
「ふん」
 ライナが態と意地悪く鼻を鳴らしたが、顔を上げたローデリヒは何故か口元を弛めていた。
「なんだよ、気持ち悪いな」
「いや、別に」
 そりゃあ、愛する伴侶が、それもあんな美人が会いに来てくれれば嬉しいだろう。しかし王家に仕える武官として、騎士として、王と城を守る使命を帯びている以上、家族に会える時間や場所は決められているのだ。よりによってローデリヒが、その規則を破ってにやにやと幸せそうに笑っていることに、ライナは心底むかついた。しかしローデリヒはライナのむっつりした表情を気にしていない、気になっていないようだ。
「今日は、どうしても言いたいことがあってここまで来たらしい」
「……言いたいこと?」
 惚気話なら聞きたくないぞ、と思ったが、ローデリヒが自分の話をすることは珍しかった。彼はいつも人の話を聴くタイプだ。なので、ライナは思わず聞き返してしまった。
「うん」
「何だよ」
「……大したことじゃなかったんだが、」
「大したことじゃないのに規則を破ってここまで来たってか」
「いや、ああ、まぁ……子供が出来たという報告を」
 歯切れ悪くローデリヒが言うと、ライナは目を丸くしたまま少しの間何も言えなかった。一方ローデリヒは、ぼそぼそとそう言っただけで満足したのか、またくすりと笑みを漏らして上着を羽織る。
「あ、え、そ、そうか、……おめでとう」
「うん」
 ローデリヒが顔を上げて、気恥ずかしそうに笑みを深めた。嬉しそうなのに、諸手を挙げて彼は喜ぼうとしていない。普段大人しい姿しか見せていない同僚たちの前では、はしゃげないということだろうか。
 なんだか口の周りがむずむずしてきた。胸に堪っていたもやもやと相俟って、途端にローデリヒをからかいたいという気分になってくる。
「ヴィクセルさん」
 ライナはすぐ近くにいた先輩騎士の元へ駆け寄り、態と周りにも聞こえる声で言った。
「ローディに子供ができたそうです」
「ライナ……!」
「なに?」
 エリカの姿を見ていなかったヴィクセルは唐突に振られた話に首を傾げたが、彼女がすぐそこへ来ていたことを知る騎士たちの反応は違った。ローデリヒが慌ててライナの口を塞いでももう遅い。
「何だって? 噂のプラニーアがいらしていたのはそれを旦那に伝えるためか!」
「やったじゃないか、こいつ!」
「ライナに一番に伝えるなんて勿体ない! ちゃんと大声で自慢しろよ!」
「どういう意味だよそれ……うわっ」
 囃し立てながら集まってきた仲間たちに揉みくちゃにされつつ、ローデリヒと目が合ったライナは、どちらからともなく笑った。
 当然自分は近衛隊の中で地位を高めていくつもりだが、おっとりしていて出世欲のなさそうなローデリヒも、前隊長の女婿という立場、そして剣術の練度からしても、将来指揮官になることを望まれていくだろう。既に色々なものを手に入れている彼は強力なライバルだが、その彼と競い合うのは嫌ではないなとライナは思った。いつか彼を負かして、自分の部下にしてしまうのも面白そうだ。
 ライナがローデリヒに明確な対抗心を抱いたのは、これが初めだった。まだローデリヒの方が人としても騎士としても遙かに上手だとは気づいてもいなかったし、穏やかな幸せに包まれる彼の奥底に、暗い憎しみの火がくすぶり続けていたことも、知らなかったけれど。




(20130825)

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