侯爵の憂鬱
『伯爵の憂鬱』裏話。


侯爵の憂鬱

 失敗したなぁ。
 年若い娘のようにころころと可愛らしい声で話すプラネルト伯爵の母君の声を聞きつつ、クリスティアンは二口目のケーキを切り崩した。固めに焼かれた生地が気持ちよくさっくりと割れる。砂糖で煮詰められたりんごはつやつやしていてとろけるような食感。甘いものは久しぶりに食べたが、隣に座るディルクが言ったとおり子供の頃を思い出すような懐かしい味で、美味しかった。
 それはよいとして、この部屋にいる六人のうち、喋っているのはさっきからディルクとゼスキアだけだったので、どうしたものかなとクリスティアンは思案した。
 今日はプラネルト伯爵ことエリュゼと自分の縁談について話し合うつもりだったのだが、思いがけず王太子の訪問に預かった嬉しさのせいか彼女の母の口が止まらない。とても楽しそうなのでお喋りを遮るのも申し訳なく、かといって、彼女が向かいに座っている娘の縁談相手の存在を思い出してくれるのを待っていては日が暮れてしまいそうだ。
 加えてプラネルト伯爵の不愉快そうな顔。クリスティアンがディルクを連れてきたことをものすごく迷惑がっている。
 当たり前だ。王族が屋敷へ足を運んでくれることは臣下にとってとてつもない栄誉である一方、準備もあるし気も張る。とりあえず来てくれれば嬉しい、ということではない。
 予想できていたことだったのに、「別に王太子として公式訪問するわけじゃない」と言うディルクの同行を断り切れなかった自分が悪いので謝るしかないのだが、これではあまりにも。
 もともとエリュゼには好意的に思われていないようだったので、ますます彼女の心証が悪くなる気がする。
 ディルクの役にも立てるし、相手もしっかりした女性のようだったからいい話だと思ったのだが、これは断られるかな。
 二口目を食べたところで、クリスティアンはケーキの下からはみ出ている紙切れに気が付いた。おや? と思いつつもう少しケーキを切り分けて見ると、それはただ二つ折りにされただけの油紙のようで、飾りで敷かれたわけではなさそうだった。
 なんだろう。気になったのでもう一口、二口とケーキを小さくしていく。
 カチャン、と器がぶつかる音がしたのはそんな時だった。
 ちらりと音がした方を確かめれば、エリュゼと一瞬目が合う。しかし彼女はまるで気づかなかったように視線を逸らし、物憂げにケーキを突っつき始めた。
 怒っているというか落ち込んでいるというか……。
 せめて小声で謝罪できる席ならよかったのだが、王太子のディルクとプラネルト家当主のエリュゼが真ん中に向き合って座り、その両脇にクリスティアンとルウェル、エリュゼの母と祖母が向き合う席になってしまっていた。隣に座っているディルクと向かいに座っているゼスキアがクリスティアンとエリュゼの間を遮るようにお喋りしているので、これではエリュゼに話しかけるのは難しい。
「エリュゼ、おかわりのお茶をお持ちして」
 その上祖母のトルデリーゼがエリュゼにお使いを命じてしまい、話辛いどころか本人がいなくなってしまったので……ふむ、割と万事休すかも。
 エリュゼの後ろ姿が見えなくなるまで見送っていると、不意に視線を感じた。
 視線の主は今ほど孫娘を退席させてしまったトルデリーゼで、彼女はクリスティアンに向かってにっこりと微笑みかけてきた。
 エリュゼは妹のディディエンとそっくりなのだと思っていたが、ゼスキアやトルデリーゼもよく似た顔立ちをしていたので驚いた。けれども四人はそれぞれに個性的な性格をしているようで、目にする表情はまるで違う。
 トルデリーゼは貴婦人らしく落ち着いていて、その笑顔はとても理知的だった。
「テナ侯爵も、ケーキをもう一ついかが?」
「はい、のちほど」
「召し上がったらお声をかけてくださいな。ルウェル殿はよい食べっぷりねぇ。作った甲斐がありますよ」
 ルウェルがなんの遠慮もなく二つ目のケーキを消滅させようとしているのに呆れつつ、クリスティアンも皿の上に残っているあと二口ほどをどけるべく手を動かした。
 最後のひとかけを咀嚼し、口許をぬぐったナプキンを下ろすときにさりげなく皿の上に残った紙を回収する。なんとなくディルクから隠すように右手でその紙を開き、中に書かれていた文字を読んだ。
『庭の温室について尋ねてください』
(……温室?)
 差出人不明の短いメッセージからは、その意図も読み取りにくかった。しかし、意味は分からなかったが、自分に要求されることは分かった。
(召し上がったら声をかけてください≠ゥ)
 カップを手に、ルウェルの食欲を見守っているトルデリーゼを覗う。もしかすると、あの淑女が待っているのはケーキのおかわりが欲しいという言葉ではなく、ここに書かれた質問ということか。
 クリスティアンの席は庭に面した大窓に近く、まだ花のない庭には確かになにがしかの小屋のようなものがあるのが見えた。あれのことか。
 この質問にどういう仕掛けがあるのか分からないが、ひとまず応じてみよう。
 そう思った時、お茶をすするトルデリーゼと目が合った。彼女は再び目許だけで微笑みかけてくる。
「お庭にある建物は温室ですか?」
 この人は、若い頃はモテたんじゃないかな。
「ええ、そうですのよ。わたくしと娘が趣味で薬草や野菜を作っております」
 クリスティアンはディルクとゼスキアの会話の隙を突いてそう問いかけながら、知的でありながら茶目っ気のある笑い方をする老淑女が嬉しそうに応じてくれるのを見て、そう思った。


 息子達が作ってくれた温室だからぜひ見て欲しい。
 そう言うトルデリーゼに連れられてクリスティアンは席を立った。相変わらずゼスキアのお喋りに捕まっているディルクがもの言いたげな視線を送ってきたが、あえて一緒に行こうとは誘わずに。
 廊下の一角で立ち止まったトルデリーゼは、クリスティアンを手招きして春の雨が洗う硝子窓の向こうを指す。彼女の隣に並んで庭を眺めると、なるほど確かに、応接間からは見えなかった温室の全体像が見て取れた。
「今日は雨ですから、こちらからね」
 こぢんまりしているが、屋敷に面した壁面には足許の一部を除いて板硝子が張られており、屋根の一部にも硝子がはめ込まれている。中には棚が作り付けてあるようで緑色の影が折り重なるようにして見えた。硝子ではない壁面は王都アマリアの街を彩るのと同じ薔薇色煉瓦、屋根は粘板岩(スレート)。アマリアには雪が積もるからだろう、造りは頑丈そうだ。
 ただ、ここから見た分にはこれといって自慢されるようなところは見当たらない。そう思っていると、一緒に温室を眺めていたトルデリーゼが不意に静かな笑みを浮かべてこちらを見上げたのが視界の隅に見えた。
「冬場は風邪が流行りますから、咳や熱を鎮める薬草を育てて施療院に納めていますの。けがに効く薬もございます。晴れた日においでになったら中も見てくださいな」
 それはつまり、トルデリーゼが今日限りでクリスティアンを追い返すつもりはないというわけだ。縁談相手の当人はともかく、その家族がこの話を嫌がっているわけではないと分かってクリスティアンは少しほっとした。
 まぁ、当人に拒絶されればそれまでではあるのだが。だから、
「はい」
 とだけ言っておく。
 エリュゼがあずかり知らぬところで彼女の家族と何らかの交渉をすべきではないと思ったし、周りを固められた彼女が不本意のうちに自分を婿に迎えざるを得なくなったらお互いに不幸なだけだ。
 クリスティアンの母はシヴィロ王国の貴族の娘で、ウゼロ貴族の父とは極めて政略的な事情で結婚したと聞いている。それでも父母は仲がよかった。お互いにお互いを立てる才能があったと表現するのが一番しっくりくる。
 二人はそれぞれに異なる面から一族をまとめあげ、またそんな二人が常に意気を合わせていたから一族がまとまっていたとも言えた。
 貴族の結婚に事情があるのは仕方がない。けれども、事情があるにしろ仲良くやっていたのがクリスティアンの両親で、そういう二人に育てられた自分は、ディルクやルウェルは、間違いなく幸せだった。
 自分達に幸福な時間をくれた両親はあくまで理想像である。それは心得ているけれど、形式だけの伴侶になるというのはいかにもさみしい。
 だから最低限、お互いに自分の意思で受け容れた婚姻にしたいのだ。特にエリュゼはプラネルト伯爵家の姫君ではない。当主本人であり、彼女自身に決める力があるのだから。
 それにしても、自分は結構いい物件だと思うのだが。主に経済的に。あと一応、王太子のお気に入りでもある。どちらもクリスティアンが自力で手に入れたものではないから積極的に利用したい力や立場ではないが、その辺にエリュゼがまったく惹かれていない様子なのはどうしてだろう。
 結婚が嫌なのか、それともクリスティアンが嫌なのか。はたまたクリスティアン以外の¢I択肢があるのか。
(だとしたら、この話は受けられないな)
 そのあたりも聞き出したいところだったが、今日は難しいかも知れない。まあ、屋敷へ招待して貰った礼状を書くという口実はあるから次の約束を取りつける方法もある。焦ることはないか……。
「侯爵」
 いつの間にか温室ではなく重たげに降る雨を見つめていたクリスティアンは、静かな声に呼ばれてはっとした。
「ごめんなさいね」
「……それは何についての謝罪なのでしょう」
「本当は二つ返事でお受けするべきお話ですのに、生意気にも『検討する』だなんて当家の若い主人が言うものですから」
「いえ、無理もないことだと思います。急に降ってきた話だったのですから」
 降らせた張本人にはまったく悪気もないしいい思いつきだと考えているのだろうが、それに巻き込まれたのはエリュゼだけではなく、彼女の家族もまたそうなのだとクリスティアンは気が付いた。ことの発端が自分のわがままであることも分かっているだけに物憂げなトルデリーゼの顔を見ていると申しわけなくなってくる。
 それに、爵位はクリスティアンの方が上でも、やはり王家の枝の先に生まれたエリュゼの方により強い選択権がある。クリスティアンが返事を待っている今の状況はあながち間違いでもないのだ。
「それでも、いずれ誰かを婿殿に迎えなくてはいけないとあの子は分かっていますのに、どうにも頑なで」
 溜め息をつきつつ、そう言うトルデリーゼの眼差しは若い当主≠想う愛情でいっぱいだった。
「どうして婿殿を決めないのかも、理由をきちんと話してくれないのですよ。何か考えがあってのことだろうとは思うのですけれど」
「……どなたか、ほかに決まったお相手がいらっしゃるのでは?」
「まあ、そうなのかしら」
 クリスティアンの問いは心底意外だったらしく、エリュゼによく似た老淑女は大きく目を瞠った。
 それが現実のことで、エリュゼが家族にも隠していたのだとしたら、トルデリーゼに孫を説得する材料を思いつかせてしまったようなものだ。余計なことを言ってしまったかも知れない。
 もちろん自分が推してもらえるとは限らないけれど、少なくとも今は誰も選ぼうとしていないエリュゼに選択を迫ることになってしまう――
 そう危惧したのも束の間、驚いた顔のまま何やら考え込んでいたらしいトルデリーゼはふとまなじりを下げて微笑んだ。
「そんなお相手がいるようには思えませんけれど……その時は侯爵、重ねて申しわけないことですけれども、侯爵の方から身を引いてやってくださいまし」
 そうして、さすがに唖然とするしかないことを言われてしまった。
 クリスティアンが何も言えずにせわしない瞬きだけを繰り返していると、トルデリーゼは口許を細い指先で隠してふふ、と笑った。その仕草はこの人の娘のゼスキアがしていたのとそっくりだ。
「侯爵とのご縁談をお断りしたいわけではありませんのよ。ただ、我が家は小さく衰えた家です。もう無理に貴族らしい暮らしをする必要はないとも、わたくしは思っております。よい家柄の婿殿をお迎えできればプラネルト伯爵家の寿命は延びるでしょうが、エリュゼやディディエンにほかに望む道があるのなら……好きな人のところへお嫁に行っても、結婚せずに誰かにひたすらお仕えする道を選んでも、構わないのではないかと。それでもあの子は当主に課せられた義務を知っています。自分の気持ちと侯爵との間で悩み、どちらも選べなくなってしまうでしょうから、その時は、」
 エリュゼが結婚相手を選ばない理由を聞いていないとは言いつつも、この人はいろいろと勘づいていることがあるのではないだろうか。そう思わずにはいられない落ち着いた声色だ。
 少し驚きはしたが、トルデリーゼの言うことは詰まるところクリスティアンが最初から考えていたことと同じと思っていいだろう。
 決めるのはエリュゼ。
 トルデリーゼだけでなく、応接間でディルクを釘付けにしているゼスキアもそう思っていて、浮かれているような顔をしながら王太子にすら邪魔はさせないつもりなのではあるまいか。
 言葉にはしなかったものの、ディルクがエリュゼの家族を説得する気満々だったのは知っている。ところが現状はこうだった。
 あまり年上の女性を甘く見るものじゃないぞ、と、クリスティアンはすでに遅い友人への忠告を心の中で呟く。
「まずは、そうせずに済むご縁であると願いたいところですが」
「ええ、ほんとうに。こんな小さな家でよろしければ、わたくしはぜひ侯爵を当家の婿殿にお迎えしたいわ」
 そこまではっきり言われると少々照れくさくなってしまうが、近づいてくる足音に気が付いたのでくすりと笑うだけにしておいた。
「今日は、伯爵に改めて意向を伺ってみます」
 トルデリーゼも、そろそろ孫娘がお茶を持ってここを通ると分かっているので、クリスティアンのその言葉には黙って頷くのみだ。
 あたたかい家族だな。
 やがて現れたエリュゼとクリスティアンを置いて、風に乗った花びらのように立ち去るトルデリーゼ。
 応接間から聞こえてくるゼスキアの元気のよい声も、怪訝そうに顔をしかめているこの若い伯爵をそれとなく包み守っているのだと思うとクリスティアンもほっとした。それと同時に、まだ幼い自分とディルク、それからルウェルが子犬のようにじゃれて転がり回っているのを見守る両親の姿を思い出した。
 その家を棄ててくる自分に再び温かな居場所を得る資格があるのかは分からない。
 
 けれどもまた、何度でも、もしかしたらエリュゼや彼女の家族と一緒に、ここからあの小さな温室を眺められるのも悪くはないな。
 
(20200307)

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