つるばらアステリズム
ある日の午後の邂逅。



 花のないくちなしの茂みの向こうを二人の兵士が通り過ぎていく。少年達は思わずクスクス笑ってしまいそうになるのを堪え、いっそう身体を縮めた。
 兵士達は声を顰めながら言葉を交わし合い、焦った様子で二手に分かれる。少年達を探しているのだ。
 足音が遠ざかったのを確かめると、アルフレートは先にくちなしの茂みの脇から這い出した。ここも点検される前に、先に兵士達が覗き込んでいた薔薇の茂みの後ろへ移動するのだ。
 アルフレートが手招きすると、さらさらした金髪を揺らしながら幼い子どもがくちなしの陰からひょっこりと出てくる。二人は声もなく笑い合うと、手を繋いで静かに温室の中を走った。
「よかった、薔薇が咲いてる」
「殿下、手でむしっちゃだめですよ。トゲがあるから」
 身を寄せた薔薇の茂みは二人の目的地でもあった。アルフレートの隣でかがみ込んだ子ども――この国の唯一の王子であるクヴェンがさっそく花に手を伸ばしていたので、アルフレートは慌ててそれを止める。
「じゃあどうするの?」
「ちゃんといいものを持ってきました」
 むっと眉根を寄せたクヴェン王子の前にアルフレートが差し出したのは、机の抽斗(ひきだし)にしまっていた鋏だ。数日前から母である王妃にあげる花を摘みに行きたいと言っていた小さな友人のために、決行日を今日と決めたアルフレートが責任を持って用意してきた。
 トゲの心配はあるが自分で薔薇を摘みたいだろう……そう思ったアルフレートは目を輝かせるクヴェンに鋏を譲る。
「ありがとう、アル」
 けがをしないようにね、と念を押すアルフレートの言葉も聞き終わらないうちに、小さな王子は大きく開いた秋薔薇の一輪に手を伸ばしていた。黄みがかった赤色の花を摘み取り、膝の上に広げたハンカチの上にそっと並べる。
 アルフレートはそんなクヴェンを横目に薔薇の枝の間から注意深くあたりを覗った。枝は幾重にも重なっているが、葉っぱは夏の薔薇に比べるとけっこう遠慮がち。運悪く先ほどの兵士達に見つかるかも知れないから、警戒は怠れない。
「ねえアル。もっと赤いのと、黄色いのも欲しいな」
「黄色いのかぁ。ちょっと離れているから、先に赤いのが咲いてる蔓薔薇の四阿(あずまや)に行きましょう」
 そろそろ兵士達も「ここにはいない」とみて出ていってくれるはずだが、より隠れやすい茂みのある方へ先に回る方がよかろう。
 アルフレートはもう一度あたりを覗い、兵士の姿がないことを確認してクヴェンに身体を伏せながらついてくるよう促した。
 クヴェンは王族、アルフレートは公爵家の次男。そういう身分の違いはあったものの、二人は歳の近い従兄弟であり、息子に気のおけない友人を持たせたいという王妃の方針もあって色々な時間を共有した。
 勉強とか、クラヴィアの練習とか、ただ一緒におやつを食べたり、王妃がクヴェンの許を訪ねてきた時にぎゅーっとされたりする時間を。
 王家に嫁いだ人ではあるが血の繋がった叔母、それを証明する同じ色の髪と瞳を持っている王妃のことは、アルフレートも好きである。クヴェンはすでに芽生え始めた世継ぎの自覚のせいで数年前のように「母様に会いたい」と言ってぐずることはなくなったが、やっぱり母様≠フことは大好きだろう。
 その王妃が半月前に具合を悪くして倒れてしまったので、それからクヴェンはしおれていることが増えた。幸い、王妃は目が覚めてから元気になっていっているそうだが、そうだ≠ニいわねばならないのは、息子であるクヴェンが自由に見舞いに行くことを許されていないからだった。
 それはしょんぼりもするだろう。アルフレートだって、母が病気になった時に傍にいてあげられないのは悲しい。
 せめて秋の薔薇とお手紙を届けてあげられたらいいのに――クヴェンがぽそぽそと何度も呟くので、アルフレートは一緒に彼の願いを叶えてあげることにした。最近元気がなかったクヴェンのためにも、ちょっとした冒険をかねて。
 特に今日は侍女のティアナが非番の日。二人だけで冒険に出るには最適の日だった。こういういい方は可哀想だが、侍従のカミルをまくのは簡単なのだ。
 今日は、どうしてもおやつのタルトにコケモモのソースをかけたいと言ってカミルに取りに行ってもらい(別にカミルが行かなくてもいいものを、彼は律儀に取りに行ってくれた)、残った侍女も全力で駆け出した二人を捕まえられるはずがない。
 そういうわけで二人は東の宮から逃亡出来た。内郭には近衛兵がうようよいるはずだったが、幸い彼らにも遭遇しなかった。それでもすぐに侍女が事態を報せたらしく、二人を探すため温室に入ってきたのがさっきの兵士達だ。
 少しの間くらい、僕に任せてくれたらいいのに。茂みに隠れながら歩き、クヴェンがちゃんとついてくるのを確かつつアルフレートは思った。王城の中はどうせ安全だ。
 アルフレートは次男。家を継ぐのは兄なので、アルフレートは自分で暮らしていく術を考えた方がいいような気がしていた。
 とすると、彼が選びたい道は王子の騎士≠セ。クヴェンとは物心ついた頃から一緒に遊んでいるし、アルフレートが二つお兄さんだし、多分、運動も得意な方だと思う。
 だからアルフレートはクヴェンのことを守ってあげられるはずなのだ。もう少し大きくなったら剣の稽古も乗馬の訓練もたくさんする。クヴェンが国王になったあと、こんなふうにこっそりと出掛けたいと思った時には連れ出してあげる。そうやっていつも一緒にいる。この小さな王子だって、それを望んでくれると思うし。
 柊の木の向こうに四阿の柱が見えてきたところで、少年達はいったん立ち止まった。人の足音――兵士の長靴(ちょうか)についた金具が揺れる音を聞いたからだ。
 四阿へ蔓を伸ばす薔薇の茂みの陰へ飛び込むように隠れる。少しすると、案の定さっきの兵士のうちの一人が蔓薔薇の前を横切った。
 彼はアルフレート達の気配には気がつかなかったようだが、少し進んだところでうっと呻きながら立ち止まった。
「何か用?」
 そして、その直後、硬質な声が硝子の屋根の下に響き渡った。
 それは思いもかけないことだった。アルフレートとクヴェンは顔を見合わせる。
 この王家のための温室に、自分達以外の誰かがいるとは。
 二人は薔薇の葉に引っかからないよう慎重に移動し、兵士の爪先をのぞけるところを見つけた。しかし、これでは彼が誰と話しているのかは分からない。
「し、失礼を。クヴェン殿下のお姿が見えなくなったと侍女が申すので、探していたところです」
「そう。でもここにはいらしていないと思うわ」
「さようですか。ならば、我々はこれで」
 どこまでもたじろぎながら誰か≠ノ話しかける兵士は、その場でぎこちなく足踏みするようにして踵を返した。そして本当に退散してしまったようである。
 慌ただしく去って行く足音を聞いて、少年達はますます目を丸くする。
「誰がいるんでしょう?」
「ぼく、知っているかも」
 アルフレートがきょとんとしているうちに、クヴェンはズボンが汚れるのも気にせずもそもそと這いつくばって移動を始めてしまった。
 ああ、服を汚したら怒られてしまう。そう考えたがふと思い出した。アルフレート達はそもそも大人達をみんな振り切って勝手に遊びに出たのだ。どうせ怒られるら、まあいいか。
 アルフレートもクヴェンのおしりについて四つん這いに移動する。やがて低く続いていた薔薇の茂みも途切れてしまうところへやって来た。その縁からそっと向こう側を覗き込む。
 蔓薔薇の四阿はせせらぎの上に設けられている。四阿へ上がるための階段は一つで、二人はちょうどその反対側へ出ていた。
 白い円柱には濃緑の葉が巻きつき、ぽつぽつと小さな赤い花が咲いていた。花に春ほどの力強さはなかったが、秋空の青さに負けぬ鮮やかさで四阿を飾っている。
 その柱の向こうに、一心に手許を見つめる娘が一人。年の頃はアルフレートの兄より二つか三つ上に見える……。
 娘が手に持っているのは大きな布で、彼女は目の高さに掲げておもむろにそれを広げ、また膝の上に戻してはせっせと手を動かし始めた。布に色糸で描かれた絵が見えたので、どうやら刺繍をしているらしい。
 黒髪の縁から見える肌は透けるように白く、赤い――それこそ四阿を飾る薔薇のように小さな唇はきゅっと引き結ばれていて、彼女が作業に没頭していることが見て取れた。
 アルフレートはどきどきした。柔らかな陽射しと蔓薔薇のつくる淡い陰がその人の周りに揺らめいていて、小さい頃に読んだ神話の絵本の中に、地上へ降りてきた女神が木陰でくつろぐ姿があったのを思い出したのだ。
 きれいだな。ふとそんな言葉が頭の中をよぎり、アルフレートははっとした。
 クヴェンの様子を覗えば、彼も目をまんまるにしながら――そしてどこかきらきらと輝かせて彼女のことを見つめていた。
「殿下はあの人をご存知なのですか?」
「うん。あの人のこと、母様から教えてもらったことがあるんだ。あの人の家族はみんな死んでしまって、ひとりぼっちになってしまって、でも、あの人のお父様と母様は仲良しだったから、母様とあの人も仲良しなんだって。ぼくとあの人も仲良しになれたらいいのにって言っていらしたんだよ」
 アルフレートは首を傾げた。クヴェンの説明では、分かったような、分からなかったような。つまり彼女は誰≠ネのだ?
「みんなからは『天槍の娘』って呼ばれているって。でも、悪い人でも恐い人でもないから、もしお城の中で会ったらアルやカイにするようにご挨拶してね、って。カミルやティアナが一緒の時に姿を見かけても、あの人はすぐに逃げちゃうからお話ししたことはないんだけど……」
「え!?」
 『天槍の娘』という言葉はアルフレートも知っていた。それはビーレ領邦でひどい疫病が流行した時にたくさんの人を殺した魔女で、アルフレートの叔父にもあたる国王様にとりいって♂、城に棲みついたとかいう……。
 正直、それがどういう意味なのかはぜんぜん分からないのだが、人を殺した∴ォい魔女であることは分かった。
 でも、その悪い魔女があんなにきれいな人であるとは信じがたい。
「あっち側に行こう。こんなところから急に声をかけちゃ失礼だもの」
「えっ、ま、待って殿下。本当にご挨拶するの?」
「仲良くなりたい人には自分からご挨拶しなくちゃ」
「でも、『天槍の娘』はたくさん人を殺した魔女だって誰かから聞きました」
「母様と仲良しの人がそんなことするはずない」
 きっと睨むように見つめられ、アルフレートはそれ以上言葉を継ぐことが出来なかった。クヴェンは決してわがままな子ではないが、時々びっくりするほど頑なになって誰の言うことも聞かなくなる。
 それに、クヴェンの言うことにも一理ありだ。
 王妃はおおらかな人だが、決して他人に甘い人ではなかった。クヴェンとアルフレートの悪ふざけが過ぎた時は、ことを知った王妃に帰宅していたアルフレートさえ召し出され、クヴェンと一緒に並んでお説教を受けたことがある。
 そんな王妃がただの罪人を王城に住まわせるはずはない……大人の間を飛び交う噂というのも往々にして大げさなものだし。
 アルフレートの気持ちはくらりとクヴェンの主張側へ傾いた。しかし、傾ききるより先に事態が動いた。
「ここに殿下はいないと言ったはずよ」
 先ほど兵士を追い払ったのと同じ、硬く冷たい声が二人の方へ投げつけられたのだ。
 クヴェンは首をすくめてアルフレートの手を握ってきた。「ご挨拶する」と言っていたくせに、心の準備が出来ていたわけではないらしい。
 どうしよう、と訴えてくる目に、アルフレートもおんなじ顔をして見せるしかない。
 それでも意を決し、二人は恐る恐る茂みの上へ顔を出した。
 四阿の中にいたくだんの娘もいらだった様子で立ち上がり、こちらを睨んでいた。アルフレート達のひそひそ声は彼女の耳に届いていたらしい。
 そして、彼女は茂みから現れたのが兵士ではなく幼い子どもだったことに少なからず驚いたようだ。青い目が丸く見開かれると刺々しかった彼女の印象はとたんにあどけなくなる。
「あ、あの」
 アルフレートの手を握ったまま、クヴェンは声を震わせる。
 そうだ、ご挨拶を。アルフレートは我に返った。
 互いに目に入ってしまったからには仕方がなかった。女性を無視するなんてことは男のすることではない。こうなったからにはきちんと格好をつけねば。
 アルフレートはびっくりするあまり震えている脚を叱咤して立ち上がり、クヴェンのことも引っ張り上げた。幼い王子もそれでようやくすべきことを思い出したようで、彼は一度大きく息を吸い込む。
「こんにちは、お嬢さん。驚かせてごめんなさい。薔薇をもらいに来たんです。……そっちへ行ってもいいですか?」
 紳士らしくお辞儀をするクヴェンに続いて、アルフレートもぺこりと頭を下げた。その時、クヴェンの金髪に何かの葉っぱが一枚ひっかかっていたことに気づいたので慌ててとってあげる。
 少年達が緊張した面持ちで顔を上げても、娘から返事はなかった。
 彼女は二人を凝視しながらみるみる赤くなり、次いで、血の気の引く音が聞こえそうなほど真っ青になった。――かと思ったら、光を弾く艶やかな黒髪を翻してこちらに背を向ける。
「カトリナ」
 さっきの冷たい声色からは想像も出来ない上擦った声で、彼女は誰かに呼びかけた。離れたところから「はい」と聞こえてくるのは女の声。姿は見えないが、娘は侍女を連れているらしい。
「部屋へ戻るわ。刺繍の道具を持ってきて」
「はい」
 そのやりとりが終わりもしないうちに、彼女は四阿を駆け降りていく。
「あ……」
 クヴェンが四阿に向かって手を伸ばしたが、届くはずはなく、また彼女が気づいてくれるはずもなく、蔓薔薇の四阿は間もなく空になってしまった。
 絵本の中の女神も、人の視線に気づいた瞬間、風の中に姿を溶かして消えてしまったのだっけ。
 アルフレートは隣で肩を落としているクヴェンを見下ろしながらそんなことを考えていた。
「あの人はぼくと仲良くなりたくないみたい」
「きっとびっくりしただけですよ。僕達もびっくりしたし」
「そうかな……」
「そこにいる侍女に話を聞いてみましょう。よくここに来ているなら、今度はお菓子を置いて待ち伏せすればお話出来るかも知れません」
 クヴェンの表情に期待の色が戻ってくる。アルフレートは年下の友人が傷つかなかったことにほっとしながら、誰もいなくなった四阿を見遣った。
 刺繍布と糸の束、針山とティーカップ。残っているのはそれだけで、さっきの人は本当に溶けて消えてしまったように思える。
「王子様」
 ぼんやりしていたところへ声をかけられて――呼ばれたのはクヴェンだったけれども――アルフレートははっとなった。
 彼らに声をかけたのは若い侍官の女だった。カトリナと呼ばれていた彼女の侍女だろう。
「あの人はよくここへ来るの? 今日は何をしていたのか知っている?」
「お天気のよい日にはよく……決まった日にいらっしゃるわけではありませんが。今は、新年のお祝いにグレディ大教会堂へ奉納する刺繍をお作りになっています。……その、ユニカ様からご伝言がございまして……」
 ユニカ。
 古い発音でユーニキア。女神の名前だ。
 アルフレートはかしこまって王子の問いに答える侍女の発言に驚きながら、もう一度四阿を振り返った。
「ぼくのことを知っているんだね。なんて言っていらしたの?」
「恐れながら、あまり周りの方々に心配をかけてはいけません=Aと」
 クヴェンは一瞬きょとんとしたが、思いもかけない人に叱られたことを悟ってすぐに唇を尖らせた。これにはアルフレートも笑ってしまう。
「今日だけですよね、殿下」
「そうだよ。それに、抜け出そうって言ったのはアルなんだから。いつもこんなことをしているわけじゃないんです≠ニあの人に伝えて。それと、ぼくも母様みたいにあなたと仲良くしたい≠チて」
 部屋のベランダから思いっきり駆け出してきたことの責任をアルフレートになすりつけ、クヴェンはハンカチに包んでいた濃い朱色の薔薇を一つ、侍女の手にのせた。
 それから、彼女≠熹゙女の侍女もいなくなった四阿でクヴェンはちょきちょきと薔薇の花を剪り始めた。ここでくつろぐ人が物足りなくならないように、自分のハンカチに納まる分だけ。
 アルフレートはそれを見守りつつ、薔薇の蔓が絡んだ四阿の天井を見上げる。
 さっきの娘が悪い魔女だなんて、とんでもない噂だ。
 あんなにきれいで、アルフレート達のような子どもに挨拶されただけで逃げちゃうような小心な魔女なら、悪さなど働きようもない。
 ユニカ。
 女神の名前。
 王妃様と仲良しの人なら、王妃様の兄であるアルフレートの父様は彼女のことについて何か知っているかも知れない。
 ただ、クヴェンと二人抜け出した先で出会ったなどとはとても言えないから――彼女のことについて知るには少し時間がかかりそうだ。
 それでも、またクヴェンと一緒にこの温室へ遊びに来たりしたら、もう一度彼女に会えるだろうか。

(20191001)

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