嵐の夜
小さなディルクちゃんには怖いものがあった。



 風が屋敷をなぶるびゅうびゅうといううなり声を聞きながら、ディルクは真っ黒な窓に映る廊下の灯火を確かめた。
 堅固な館の中には外で荒れ狂う風が入ってくるはずもないが、その猛威は鏡になった窓硝子を今にも突き破ってきそうだ。そんな不安と妄想が頼りない燭火を揺らめかせたように見えた。
 ディルクはたまらずクリスティアンの腕にぎゅうっとしがみつく。ディルクよりずっと背の高いクリスティアンはそれに引っ張られてよろけそうになったが、文句も言わずよしよしと頭を撫でてくれた。
 訪ねた部屋の扉がようやく開いたのはその時だった。
「なんだよもう、俺寝てたんだけど」
 ルウェルは重たげなまぶたをこすりこすり顔だけを覗かせる。ディルク達のことをまったく歓迎していなかった。
 ディルクは扉の隙間に小さな身体を滑り込ませ、クリスティアンよりもっと背の高いルウェルの身体にしがみついた。反対の手はクリスティアンの手を握ったまま。
「え、何。遊ぶのか? 今から?」
 面倒くさそうな声が降ってきたので、ディルクはルウェルの身体に顔を押しつけたままぶんぶんと首を横に振る。
 ちょうどその時、背後でガタガタ音を立てて窓が揺れた。
 何か入ってくる! 言いようのない恐怖とともに窓を振り返ってしまったディルクは、真っ黒な鏡を見て短い悲鳴を上げ、クリスティアンの手もルウェルの身体も放して部屋の中へ飛び込んだ。そして一目散にルウェルのベッドの中にもぐる。
「だから何。遊ばねぇよ俺。眠いもん」
「そうじゃなくて、ディルクが『怖いからルウェルのところに行きたい』と言って」
「ええ? 俺んとこ来てどうすんだよ」
 それはクリスティアンにもよく分からない。彼は女中と一緒にディルクを寝かしつけにいって、せがまれるままルウェルの部屋へ連れてきただけだ。
「ルウェル……クリス……」
 聞いていて可哀想になるほど心細げな声が毛布の塊の中から聞こえてくる。入り口で立ち尽くしていた二人は呼ばれるまま寝台の傍へ歩み寄った。
 そして、ルウェルは小さく丸まっていたディルクから無理矢理毛布を剥がした。ディルクが悲鳴を上げてもお構いなしだ。それから自分も布団の上へよじ登って、奪い取った毛布を被りごろりと横になる。
「俺は寝るの。遊ばないの。また明日な。お休み」
 なんと非情な……クリスティアンが呆れ、ディルクがしくしくしていようとルウェルの眠気の前ではそんなものには意味がない。
 しかしディルクもめげてはいなかった。しくしくしながらもルウェルが被った毛布の端をめくって再びもぐりこんでいく。
「なんだよディルク」
「い、いっしょに、ねる」
「ええ? やだよ狭いじゃん。俺のベッドはお前のみたいに立派じゃないの。あっちでクリスと寝ればいいだろ」
「クリスもいっしょにねる」
「いやもっと狭くなるし」
 毛布の中でルウェルにしがみついていたディルクは顔を出せるところまで這い上がってくると、薄闇の中からじっとクリスを見上げてきた。
「クリスもいっしょにねるよね」
 半ば懇願するような確認だった。別にどちらでもいいけど、と思いクリスティアンが返事をためらったその瞬間、分厚いカーテンを引いた部屋の窓の向こうが青白い閃光で明るくなった。
 直後、屋敷の上空で雷の弾ける甲高い爆発音。ピシャアン、ドォン、と、建物を揺する不穏で暴力的な音にディルクはわっと悲鳴を上げた。
 クリスティアンも思わず硬直する。風が鳴るのを聞きながら一人暗い廊下を部屋まで戻ることを考えると、ちょっと怖いなぁとは思っていたが、雷はその不安をかき立てた。
 ディルクも一緒にいて欲しいみたいだし、今日はここにいようかな。
「クリス、はやくはいって」
 クリスティアンが自分の臆病心に対してそう言い訳していると、小さくて細っこい腕だけが毛布の端っこから差し出された。
 ディルクは再び毛布の中に隠れてしまったが、立ち尽くすクリスティアンのことも心配してくれているらしい。
「う、うん」
 ルウェルはかなり迷惑そうな顔をしたが、クリスティアンはその小さな手を握って自分も寝台によじ登った。毛布の中に入った途端、ディルクがぎゅっと腕を掴んでくる。
 ディルクは反対側でルウェルの腕もがっちり掴んでおり、二人の間に挟まってなお小さく縮こまっていた。
「せまー」
 ルウェルは雨風の音にも雷の音にも一つも怯えた様子なく、ただただ不満そうにそうもらして腕を枕に目をつむった。が、ディルクのこともクリスティアンのことも追い出そうとはしなかった。一応。
 ドーンと、さっきより遠いところで雷が鳴る。それだけでびくっと身体を震わせるディルクの頭を撫でてやりながら、クリスティアンもちょっとだけ首を竦めていた。
「まどががたがたゆってる」
 雷もさることながら、ディルクはそれが一番怖いらしかった。風が揺らしている、ということはなんとなく分かっているようだが、何かが外から窓を開けようとしている様子を想像してしまうようでもあった。
 真っ黒な窓。暗闇の中から屋敷の中を窺う真っ黒な何か。
 風の仕業だと分かっていても、そんな何か≠フ姿をイメージしてしまうと確かに背筋が冷たくなる。
「大丈夫ですよ。きっともうすぐ静かになります」
「なにもはいってこない?」
「入ってきません。入ってきても、三人でやっつけましょうね」
「でも、ルウェルがねてたらふたりだよ」
 ディルクは悲壮感に満ちた目でそう言い、すでにすぴすぴと寝息を立てているルウェルの方を窺った。
 なんという寝付きのよさだ。今の今までしゃべっていたのに。
「ルウェルはすぐ起きてくれますよ。一番強いんだから」
 怖がっているディルクを慰めもせずに寝るなんて。そして、何も怖くないその神経の図太さが今日ばっかりはうらやましい。
 そう思いつつクリスティアンは無理に笑いながら言った。
「うん……」
 しかしディルクにとってはいまいち説得力が足りなかったのか、お返事は不安に満ち満ちていた。クリスティアンの腕を抱える力が増す。
 びゅうびゅうと風がうなっている。
 明日の朝日を見たら忘れてしまう恐ろしさ。でも今は、縮こまって耐えるしかない恐ろしさ。
 それでも彼らの嵐の夜は、ある意味とっても平和に過ぎ去るのだった。

20171023

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