現代パロディ−母の日−
アヒムは「お父さん」だけどユニカは感謝したい。そういう日の話。
スマートフォンを手にしたユニカの眉間のしわは、時間が経つにつれて深くなる一方だった。
くるくると送っていく画面に次々と現れるのはきれいな赤色や美味しそうな黄色。しかし、どれもユニカを納得させることは出来なかった。どちらかといえば黄色の方がいいのかな、とは思うものの……。
始業のチャイムが聞こえたので、ユニカはスマートフォンをしまう。
この講義が終わったら、今日もお店を覗いてみよう。何せあと二日しかない。
正確を期するなら、今日の夕方と、明日のせいぜい午後四時くらいまでだ。
そう思うと、講師が配り始めた本日のレジュメの内容も頭に入らなくなりそうだった。
ユニカにとっては近代文学史の概説より、スマートフォンの画面で調べていたことの方が遙かに大きな問題だったので。
* * *
文学史の講義の後に走ったお店での時間も虚しく、ユニカの悩みは解決しなかった。
日が変り翌日。彼女は今日も街をぶらぶらしている。
ぶらぶら、といっても、覗く店はこのところだいたい同じだ。
花屋と菓子店。そろそろ「この一週間よく見かける子だなー」と思われてやいないかと緊張しているくらい、ユニカはそれらの店を覗いては何も買わずに立ち去ることを繰り返していた。
三日前にも店頭をうろうろした洋菓子店を出ると、またも目当てのものを入手できなかったユニカは溜め息をついた。
私に足りていないのは覚悟だ、多分。
自分でも納得出来ているのかいないの分からないまま、彼女は次の店に向けて一歩を踏み出した。……次の店へ行く前に自分を慰め励ますため、本屋に寄っていこうと少しだけ甘いことを考えたりしながら。
声をかけられたのはその時だ。
「よう、ユニカ」
よく知った声に驚き振り返ってみると、通行人を避けながらあと数歩の距離を縮め歩み寄ってきたのはエリーアスだった。
休日の繁華街では少々目立つスーツ姿で、それも怠そうに着崩している。今日この場所より、昨夜の三本向こうの通りにある飲み屋街にいそうな出で立ち。
きっと仕事帰りなのだろう。エリーアスは時々(よりもう少し頻繁に)会社で夜を明かしてくることがあるのだ。
「買いものか?」
彼は今し方ユニカが出てきた店の看板を見上げ少し不思議そうな顔をした。ユニカが肩にかけた鞄以外に何も持っていなかったからだろう。
「え、ええ。エリーは今帰り?」
「ああ、なんか食ってから帰ろうと思ってぶらぶらしてたんだけど……ちょうどいいや、付き合えよ。昼にはちょっと早いけど何かおごってやる」
時計を見るエリーアスにつられ、ユニカもスマートフォンで時刻を確かめた。十時半だ。お昼には早いがお茶にはちょうどよい時間だった。
どこかよい店はないかと聞かれたので、いつも本屋巡りの後の休憩に使っているカフェへエリーアスを案内することにした。
学生のユニカにも利用しやすい価格帯だし、川沿いにあるのでテラス側の席は明るくて気持ちがよい。ちょっとしたスイーツから大きなパフェ、ランチプレートまでメニューがそろっているのでお気に入りの店だ。
ところが、注文の列に並んだエリーアスは渋い顔をした。
「浮いてるな俺……」
そうかしら、と思って店内を見回してみると、確かに、客の大部分を占めるのは若い女性ばかりで、カップルや親子が少々混じっているくらい。疲れた空気をまとうサラリーマンはエリーアスのほかにいなかった。
「別のお店にする……?」
「いや、いいわ。回転速そうな店だしな」
そう言って店員からメニュー表を受け取り、エリーアスはランチメニューのページを眺め始めた。彼の言うとおり、この店の最もよいところは回転が速くて賑やかで、一人で長居をしても目立たないところなのだ。
ユニカはお腹が空いていなかったので、お気に入りのチーズケーキと紅茶を選んだ。女性が多い店に成人男性のエリーアスを一皿で満足させられるメニューはなかったらしく、彼が受け取ったトレーにはパスタとサラダのセットにサンドイッチ、チーズ入りのマフィンも乗っていた。
今日はテラスも開放されていたので、ほどよい気候に誘われ二人は川縁のテーブルに落ち着いた。
「なかなかいいもんだなぁ。暑くないうちは、だけど」
外へ出ると店内の喧噪も遠ざかり、パラソルの落とす優しい影と穏やかな川風が心地よい。エリーアスも気にいってくれたようだったので、ユニカは安心しておやつに手をつけられる。
「いただきます」
「おう、食え食え」
慣れ親しんだブルーベリーソースとクリームチーズの風味を楽しんでいると、ずいぶんたくさんのパスタをフォークに巻き付けながらエリーアスがおもむろに問うてきた。
「ところで何買いにきたんだ? ケーキでも頼んだのか?」
二口目を食べようとしていたユニカは思いきり動揺した。フォークに乗っていたチーズケーキがぽろりと落ちて皿に戻ってしまう。
「……ケーキでもいいかもしれないけど、出来ればケーキじゃない方がいいっていうか」
「なんじゃそりゃ」
「でも、文字が違うから買えなくて困っていて、それならケーキの方がいいような気もするけど、お花でもいいような気がするし……」
「あーうん、ごめん、ちょっと何言ってるのか分からん」
素っ気ないことを言いつつ、たっぷりのホワイトソースが絡んだパスタを口に迎え入れるエリーアスは先を促すようにユニカのことをじっと見つめてきた。
「エリーは、貰えるのがお花とカステラだったらどっちが嬉しい?」
「カステラ。食えるし」
麺を飲み込んだ瞬間の即答だった。昔からいつでも食欲旺盛なエリーアスには聞くまでもなかったようだ。
「そうよね。先生も甘いものが好きだから……」
「なんだ、アヒムにやるのか? ……いや、けど、あいつの誕生日は八月だろ」
「誕生日じゃないの。明日は母の日だから」
「……」
エリーアスは二口目のパスタを食べようとしていた手を止める。
「はい?」
「母の日」
「ユニカ。……母の日は、お母さんに感謝の気持ちを込めて贈りものをしたり、お手伝いしたりする日だ」
「知ってるわ」
まるで小さな子どもに言い含めるようなエリーアスの口ぶりに、ユニカはむっと唇を引き結ぶ。しかし、直後には深い溜め息をついてフォークを置いた。
「ちなみに、アヒムがお前のお母さん≠カゃなくてお父さん≠セということにも気づいてるか?」
「当たり前じゃない」
「――じゃああえて聞くが、母の日に、お父さん≠ナあるアヒムに贈りものをしたいって、そういうことか?」
「そうよ」
「…………なんだ、それ。漫画か小説のネタか、それとも流行か?」
ユニカが肯定した途端、何故かエリーアスはさっとうつむいた。ユニカが怪訝に思ったのは一瞬だけで、すぐに彼が笑いを堪えているのだと気づいて怒りが湧いてきた。
「先生は私のお母さんの代わりでもあるんだもの。贈りものをしちゃいけないの?」
アヒムのところに引き取られて十と一年。いろいろあって結婚する機会を逃したのだとかいう彼は、結局一人でユニカの面倒を見てきてくれた。
いや、実際には養父の周りの人間にもとてもよく助けられユニカは育ってきたわけだが、ユニカが親と呼べるのはアヒムだけだった。
「悪い、そうだな」
「お母さんといえば、キルルもそうかも知れないんだけど、」
男親から教われないことのことごとくは、アヒムの幼馴染みであるキルルから教えてもらった。しかし、ユニカと十ほどしか違わない彼女をお母さん∴オいしようものなら、烈火のごとく怒るしその後の不機嫌も長く尾を引くだろう。
「キルルに母の日はやめておいた方がいい」
「うん……」
エリーアスからもしっかりと制止されたユニカは、いつか姉の日≠ェ出来たらキルルにも贈りものをしようと密かに思った。
「とりあえず、アヒム相手に母の日≠やりたいのは分かった。で、何に悩んでるんだ?」
「笑われて怒ったくせにこう言うのも変だけど、先生に母の日の贈りものをするのも変だもの」
「……」
ちゅるりとパスタを吸い込むエリーアスが心から呆れているのが分かる。
ユニカはこみ上げてきた羞恥心を堪えきれず、先ほど取り落としたチーズケーキの断片を口に運ぶことでエリーアスの視線から逃れた。
「毎年やってるんじゃないのか?」
「毎年、こっそりやってたわ」
「こっそり」
「ごはんを作ってあげていたの」
ブルーベリーソースの中に混じっていた果肉を皿の上で転がしながら、ユニカは自分のうかつさを呪った。
ユニカの進学と同時にアヒムの実家から出てきて以来、食事作りはアヒムの都合で時々替わるものの、だいたい二人で相談して決めた当番表にのっとって行われている。
そんなくらしも始まってから早一月半。正直、大学生活にも慣れてきて気がゆるんでいたというほかにない。
アヒムは水曜日から地方へ出張に出向いていて、今日の夕方に帰宅する予定だ。
なので、「先生はお仕事から帰ってきたばかりで疲れているだろうから」と、今晩の夕食作りまではユニカの当番となった。そのかわり、「じゃあ、お留守番をしていてくれたユニカのために日曜日のごはんは私が作るよ」とアヒム。
上手く分担できたなぁと二人で満足してから数日後、ユニカは日曜日が母の日だと気づいた!
そんなことを訥々と告白しながら、ユニカはついにブルーベリーの果肉をぶちっと潰した。
その様子を眺めるエリーアスが、「母の日の料理ってやっぱり某食品メーカーのCMのようにしゃりをハート型に盛ったカレーとかなのかな」と思っていたことをユニカは知らない。
「だ、だから今年は、何か用意しなくちゃいけないの。でも、カーネーションは来月の父の日にあげるでしょう? カステラやほかのお菓子は、だいたい『お母さん ありがとう』って書いてあるし……だけど先生はお母さんじゃないし……」
「母の日だって分かりやすくしたくないなら、別に普通のケーキを買っていくなり日曜日に作ってやるなりすればいいだろ」
「ケーキはよく一緒に作ってるもの」
マジすか。
しゅんとうなだれるユニカに対して、エリーアスは心の中だけで驚いておく。いやしかし、言われてみればクリスマスにアヒムの家で出てくるケーキはいつでも手作りだったし美味しかったので、普段からああいうものを作って遊んでいると思えばむしろ納得がゆく……。
「それに、わざわざお店で買っていったら理由を聞かれるじゃない」
「いや、それな、何をプレゼントしてもそういう展開になると思う」
贈りものをもらう心当たりのないアヒムが、嬉しそうに、そして悪気なく至極当然のこととして「今日は何かあったっけ」とユニカに尋ね、上手く答えられずしどろもどろになるユニカという光景が目に浮かぶ。
そんなの、解決する方法は一つしかないではないか。
「言っちゃえよ。母の日ですって」
エリーアスにとっては簡単なことに思えた。しかしこれまでユニカがこっそりと母の日を実施してきた実績があるなら、ユニカにとっては難しいことなのだろうなとも分かっていた。
案の定、彼女は私の話を聞いていなかったのかと言わんばかりの鋭い視線で睨みつけてくる。
「アヒムがお前から感謝されて不愉快なはずがないだろ。言ってやった方があいつも喜ぶって」
「でも、そんなことをしたら今までこっそりやってきたことも分かってしまうわ……」
「そもそもこっそりする必要がなかったってことに気づくんだな」
ユニカが「母の日の贈りものです」と申し出れば、アヒムは、五月の特定の日曜日にユニカが台所に立ちたがった理由になんとなく気づくかも知れない。いや、「急にどうしたの」とやはり悪気なく聞いて、ユニカが答えるという流れになるかも。
そしてどっちにしたってアヒムは幸せなはずだ。
それがいまいち、ユニカには分からないらしい。彼女はむすっとしたままケーキを崩している。
こんなに仲がいいのに親が無条件に喜ぶ顔を想像できないのは、ユニカなりに気兼ねしているところがあるからなのかも知れない。
しかし、アヒムにしても同じような遠慮を働かせていることがあるのを、エリーアスは知っていた。
面倒くさいが、エリーアスはそんな不器用な父娘のことが好きだったので、どちらかの遠慮を溶かす触媒の役割にはなってやろうと考えているのだった。
それに、ユニカには申し訳ないが、なんと平和な悩みごとかとエリーアスは思った。だいたいアヒムは、母の日だろうと父の日だろうとユニカから何かもらえば、もらったのが自分の苦手な虫の標本でも「変だ」と思う前に喜ぶし大事にするだろう。
「じゃあユニカはさ、誕生日でもないけどアヒムからプレゼントをもらったら変だとか迷惑だとか思うのか? 思わないだろ?」
「どうしたんだろうって思うわ」
「それをお前が思った通りに尋ねたとして、いつもいい子だからとか可愛くて仕方ないからって答えられたら嫌な気分になるのかよ?」
正直俺は嫌だな、親にそんなにベタベタされたら。と思っていることは気取られないように、エリーアスは真剣な表情を貫く努力をする。
するとユニカはアヒムがそう言って頭をナデナデしてくれるところでも想像したのか、大変可愛らしい照れ笑いを浮かべた。
ううん、分からん。──次男で末っ子ながら独立する気概に富んでいて、その準備ができるやさっさと家を出て来たエリーアスは、家族のことを尊敬し愛してはいてもそんなに可愛げのある反応は出来ない。
ほどよく冷めてきたコーヒーをすすりながら思うことには、ユニカに彼氏が出来たら、花の女子大生が父親への感謝をどう伝えるかなんて悩みに休日を含む週の半分を費やさなくなるだろう、だ。
午前中まで出張の荷ほどきや学会資料の整理に追われていたアヒムは、昼食を用意するため台所に立って執念深くタマネギを刻んでいた。ほぼ均等な5ミリ角に切ったあと、無性にもっと細かくしたくなったのである。
目がしみるのにも慣れてくると、この単純な作業に快感を覚えていることに気づいた。ちょっと頭を使いすぎていたらしい。料理はいい気分転換だ。
おおむね2.5ミリ角に刻まれたタマネギに満足し、冷蔵庫から解凍していた挽き肉を出してくると、ちょうど居間に娘が現れたことに気がついた。
ちらりと時計を見たが、まだ十一時半。ごはんの用意が遅れているわけではなさそうだが……。
「お腹が空いた? もう少し待っててね、そんなに時間はかからないと思うから」
「いえ、大丈夫です。……お手伝いしましょうか?」
「いいよ。それより、もし手が空いてるなら洗濯物を見てきてくれるかな。天気がいいからもう乾いてるものもあるかも。二回目も回したいし、取り込めるものは取り込んでもらえるかい?」
「はい」
返事をするなり、ユニカはぴゅーっとバルコニーへ駆け出していった。
ちょっとアヒムの様子を窺うような表情だったのが気になったが……経過観察にしておこうと思う。それより今は、タマネギをはじめとする野菜のみじん切りと挽き肉を炒めなくてはいけない。
結局、何事もなくユニカは取り込んできた洗濯物を和室に広げてたたんでおり、昼食のボロネーゼを食べている時間も他愛のない話をして過ぎ去り、片付けも無事終えて、娘は一足先に部屋に戻ってしまった。
ふむ、なんだろう。ほんの少しだが違和感が残っている。アヒムは部屋に持って行くコーヒーを淹れながらユニカの反応を色々と思い出してみた。しかし、ユニカがそわそわする心当たりがない。
原因が家庭内のことでないなら、やっぱり経過観察だな。そう思い部屋へ戻ろうとすると、居間のテーブルの上にちょこんと置かれているものに気がついた。
赤いリボンがかけてある掌大の白い箱で、「お母さん ありがとう」という文字が銀で箔押しされている。
さっきテーブルを拭いた時には間違いなくなかったものなので、ユニカが置いたとしか思えない。しかし、残念ながらうちには「お母さん」が存在しないのだ。
さて、ユニカのものか聞いてみようと思ったが、その前に箱の横に折りたたんで置かれていたメモ用紙をアヒムは拾い上げた。
そこには「お父さんへ」と書かれている。
アヒムは何度か目を瞬かせ、のちに、それが自分を指す単語だということを思い出した。
お父さんと呼ばれたいなぁと思いつつ、ユニカからはずっと「先生」と呼ばれているので、自分の頭の中でもすっかり「先生」が定着してしまっているのだ。
そのことには苦笑しつつ、同時に今日のカレンダーを思い出して、アヒムは色々と納得したのだった。
一方、ユニカは黙ってカステラを置いてきたことを後悔していた。
先生が気づかなかったらどうしよう、いや、その前にこれでは感謝を伝えたことにはならない(カステラに文字は書いてあるけれど)、しかしそもそもこれまで黙って実施してきた母の日だって感謝の表れにはなっていなかったのではないか? など、後悔と懊悩の連鎖はやむことがない。
エリーアス曰く、アヒムは喜ぶに決まっているが、アヒムがどう思うかをコントロールする力はユニカにないのだ、あげたいならあげとけ、それでお前の仕事は終了。子どもは自分で満足しておけばいい。
彼らしいざっくりしたアドバイスに従ったはいいが、やっぱりざっくりしすぎていたことが今さら分かった。もう少し、気持ちを整理してからちゃんとアヒムに渡すのだった……!
課題のレポートがあったけれど、金曜日の講義に引き続き近代文学史のことなどどうでもよかった。
後悔と悩みの螺旋に倣い、ノートの端を無数の円でぐるぐる塗りつぶしていると、ユニカは静かに部屋のドアが叩かれるのを聞いた。
震え上がりつつも扉を開けば、コーヒーとカステラの箱を手に持った養父が立っている。
ちゃんと気づいてくれたようだ。でも、やっぱり変だろう、「お母さん」と書いてあるし……。
無言をもって迎える娘に対し、アヒムは鷹揚に笑いかけてきた。
「これ、私にくれるの?」
「……」
ユニカは二人の足許を見たまま無言で頷く。
「そう、ありがとう」
恐る恐る見上げた養父の顔には嘘のないうれしさが滲んでいたので、ユニカはひとまずほっとし、もう一度無言で頷いた。
よかった、そんなに不思議がられてもいないようだ。でも、逆にどうして不思議がらないのだろうとも思った。エリーアスの言うとおり、とにかくうれしいから理由はなんでも構わないということだろうか?
ところが、その答えはなんとなく出た。アヒムの口から、それはもうさりげなく。
「今日は私が料理当番もらっちゃったからだね。買ってきてくれて嬉しいよ。3時になったら一緒に食べよう」
「はい、……っえ?」
「一緒に食べた方が美味しいし」
「あ、はい。じゃあ、一緒にいただきます」
またあとで、と言ってアヒムがドアを閉め、ユニカは再び「いつもありがとう」を言い忘れた。けれどそんなことより、アヒムが発した何気ない一言で羞恥に悶え苦しむことになった。
ユニカが母の日にごはんを作っていた意味はとっくにバレていたらしい。いったいいつからなのだろう!?
カステラを抱えてアヒムが部屋へ戻ると、資料の山の一番上でスマートフォンがピカピカと光りながら彼を呼んでいた。メールが届いているようだ。
画面を開いてみると、差出人はクレスツェンツだった。文面はいたって短く「もらった!!」で、添付された写真には彼女を描いたと思しき芸術的な絵と、一輪のカーネーションが写っている。
ああ、向こうも母の日を満喫しているらしい。
アヒムは友人の息子の可愛らしい贈りものにほのぼのしつつ、自分がもらったカステラの箱を机の上に置いて、パシャリと写真に収めた。
『私も貰いましたよ』
とだけ書いて、メールを送信。
多分、ものすごい勢いで嫉妬する返信があるだろうが、身の回りの片付けで気がつかなかったことにしようと思う。
『先生』で『お父さん』で『お母さん』か。確かに、本物のお母さんであるクレスツェンツには手に入れられない、一人三役の贅沢である。
ユニカが気づかれずに母の日を実施していると思っていることはなんとなく知っていたが、アヒムは気づいていないふりをしたことは一度もなかった。
おやつの時間には面白い話が聞けそうだなぁ。
アヒムはカステラにかけられた赤いリボンを撫でながら、そろそろとコーヒーをすすった。
20180513
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